闇の中、裸足のまま走る。 森の木々は行く手を阻み、蔦が足や腕に絡まる。 私の手にはひと振りのナイフがある。 邪魔な木や蔦を切り払い、ただ走る。 なんで走っているのか。 分からない。 でも、走る。 違う、逃げている。 何かが、追ってくる。 掴まったらおしまいだ。 だから逃げる。 ただナイフを振るって逃げ続ける。 ざくり。 目の前にあった一際大きな枝を払うと、それまでとは違う手ごたえを感じた。 ごろり、と私の腕ほどもあった枝が落ちる。 ゴロゴロゴロゴロ転がって、私の足元で行く手を塞ぐ。 早く走らなきゃいけないのに、足元を塞ぐ枝にイラつく。 裸足のまま、その枝を蹴りあげる。 ごろり。 枝は温かかった。 ごろりごろり。 枝は、丸くなっている。 まんまるの塊が、ごろごろ転がりこちらを見る。 赤い眼がギロリと私を見上げる。 金髪の男の、首から目から鼻から口から血が溢れだす。 今にも飛び出しそうな血走った眼が私を見つめる。 首は体がくっついていないくせに、口を開いてしゃべる。 「オマエがコロした」 違う。 違う違う違う。 私は殺してない。 私は殺してない。 私はただ、そう、少し怪我をさせただけ。 殺したのは、エリアス。 私じゃない。 私は何もしてない。 私は自分の身を守っただけ。 私じゃない。 私じゃない。 私じゃない。 急いで首から目をそらし、振り返って逃げようとする。 が。 むき出しの足をがしり、と何かが引っ張る。 「ひい!」 思わず情けない悲鳴が喉に詰まる。 足元を見ると、手が何本も私の足に絡みついている。 いやだ。 いやいやいやいや。 足元は真っ赤な粘性のある液体が溢れている。 もがいて暴れるたび、赤い液体が跳ねる。 どろどろの足場は、逃げようとしてもずぶずぶと私を飲み込もうとする。 「離してよ!」 怒鳴りつけて、蹴りつける。 だが手は離れない。 私を赤い液体の中に引きずり込もうと、更に強く絡みつく。 「離せ!」 叫んで、手にしたナイフで、邪魔な腕を切り払う。 その瞬間、赤い沼から、赤く染まった髪を持つ男の顔が出てくる。 その右目は黒い穴が広がっていて、血で埋め尽くされている。 だらだらだら血が溢れている。 「ほら、また殺す」 何もない右目を歪ませて、男が笑う。 「違う!!」 違う違う違う。 殺してない。 殺してなんかない。 殺そうだなんて、思ってなかった。 私は悪くない。 私は悪くない。 「人殺し」 男の腕が伸びてきて、私の髪を引っ張る。 堪え切れず、顔からねばねばとした沼に突っ込む。 びしゃりと、赤い液体が跳ね上がる。 口から鼻から、液体が入り込む。 「きゃあああああああああああ!!!!」 何本もの腕が、待っていたように私を引っ張りこむ。 抵抗なんてできなかった。 ずぶり。 そして私は沼に引きずり込まれた。 「きゃ、ああああ、きゃあああああ!」 自分の悲鳴で、起き上がる。 周りは真っ暗。 恐怖に、私はまだ叫ぶ。 叫んでいないと、闇に潜む化け物に食いつくされそうだった。 「あ、ああ………」 周りの状況がよく分からなくて、ただ自分の体を抱きしめる。 ぎゅっと抱きしめて、何からも襲われないように護る。 体の震えが止まらない。 歯がカタカタとなっている。 涙があふれてくる。 怖い怖い怖い。 バタン。 小さな音を立てて、ドアから誰かが入ってきた。 「ひいっ!」 悲鳴をあげて、黒い影から逃げようとベッドの上を這いずる。 けれど黒い影はゆっくりとこっちに近づいてくる。 『い、や………来ないで、来ないで、お願い、来ないで…』 頭を抱えて、誰にも見つからないように身を小さくする。 来ないで、私に触れないで、助けて。 いやだ。 「セツコ様」 けれど、恐怖に固まる私に与えられたのは温かな抱擁。 ふわりと、柔らかい感触のものが、私を包み込む。 「セツコ様、大丈夫。もう、怖くない。大丈夫。大丈夫」 細く繊細な指が、私の髪を梳く。 いい匂いがする。 甘い、ミルクのような匂い。 その匂いに包まれると、徐々に落ち着いてくる。 匂いを吸いこむように、大きく呼吸する。 手は私の背中を撫でている。 抱えていた頭を離し、そっとその体にしがみつく。 私を抱きとめる体は柔らかく、細かった。 「可哀そう、セツコ様。大丈夫。怖くない。私が付いている。大丈夫」 甘く高い声で繰り返される言葉に、さざ波だっていた心が穏やかさを取り戻す。 ガチガチになっていた体の力を抜く。 そして、ほっと、安堵の息をついた。 ようやく現状を理解する。 そうだ。 思いだした。 ここは城だ。 今のは夢。 ここが、現実。 もう、大丈夫なのだ。 ここは、私の部屋。 今私を抱きしめているのはエミリア。 だから、大丈夫。 もう大丈夫。 もう、あんな怖いことはない。 顔をゆっくりと上げると、エミリアは泣きそうな顔で私を見ていた。 夜の散歩から三日間、エミリアは私の傍にいてくれた。 小さな子供もいるらしいのに、家に帰らず、まだ恐怖に怯える私を心配して、ずっとついていてくれた。 優しい子。 私よりずっと若いのに、母親だからなのか、母性と慈愛に満ちている。 その華奢な体は包容力に溢れていて、守られていると感じる。 こんな頼りない、細い腕なのに、なんて力強い。 「ご、めんね、ありがと、エミリア」 「大丈夫です。明かり消えましたね、つけましょう」 鼻をすすりながらお礼を言うと、エミリアは優しく笑った。 起きて暗闇だったのは、ランプの蝋燭が消えていたかららしい。 この三日間というもの、暗闇が怖くてしょうがない。 最初は興奮状態と疲労で、何も考えられなかった。 だが、気絶するようにアルノにもたれかかって眠って、起きて、徐々に夜の出来事を思い出して。 そして、怖くなった。 夢のように遠かった出来事が、リアルに思い出されてきて鳥肌がたった。 レイプされかけて。 切られかけて。 瓶で殴り倒して逃げて。 掴まりそうになって瓶で刺して刺して。 殴られて。 倒されて。 髪を引っ張られて。 また逃げて。 掴まりそうになって。 首を絞められて。 そしてエリアスが、あいつの首を切って。 ざわりと、悪寒が走る。 血に染まった記憶。 天から私を見下ろす、二つの月。 噎せ返るような血のにおい。 暗闇の森。 冷凍のマグロを切るような感触。 桃をえぐったような、硬くて柔らかい感触。 気道をふさがれ締め上げられて、呼吸ができない苦しみ。 真っ暗に染まっていく意識。 血の匂い。 血の味。 痛み。 恐怖。 また体が震え始める。 どんなに振り払っても、記憶は鮮やかに蘇る。 エミリアがそれに気付いて手に力を込める。 「大丈夫。もう大丈夫だから。あいつら、許せない。大丈夫。あいつら、捕まった。陛下が、あいつら許さない」 あの後ネストリに受けた説明によると、あいつらは反政府勢力の一員だったらしい。 ミカが国を平定してからまだ少ししか経っていない。 大半のカレリアの人々には愛されているが、前体制の生き残りや、民族問題等でミカに不満を持つ人間はまだ沢山いるらしい。 あいつらはそんなミカに敵対する勢力の一つだったらしい。 あの夜、近くの村を襲う計画があるという情報が入り、エリアスが討伐に来ている最中だったらしい。 私はそんなシリアスな場面に、間抜け面で入り込んでしまったのだ。 反政府組織って何よ。 前体制の生き残りって何よ。 そんなの、テレビの中でしか聞いたことない。 そんなの、私の現実の中にはない。 血も剣も暴力も、そして死も。 私の世界には、ずっとずっと遠いもの。 「大丈夫よ、セツコ様。もう、あいつらいない」 エミリアの優しい声がゆっくりと耳をいたわる。 そう、あいつらが捕まった。 もう、捕まることはない。 もう、怖いことはない。 だが、もっと怖いものはここにある。 何より一番怖かったのは、人を傷つけることを躊躇しなかった自分。 私はあの時、あいつらが死んでもいいと思っていた。 殺そうとすら、思っていた。 いや、人殺しにはなりたくなかった。 でも、私が死ぬぐらいだったらあいつら全員死んでもいいと思っていた。 もう一度あの状況になっても、私は同じことを思うだろう。 同じことをするだろう。 後悔はない。 だって、私は死にたくない。 正当防衛だ。 裁判やっても、きっと無罪だ。 そうだ、それに私は殺してない。 私は悪くない。 私は当然のことをしただけだ。 誰だって私と同じことをするはずだ。 でも、心の中にたまっていく黒いものが消えない。 自分が、簡単に人を殺せる人間だと、知ってしまった。 そんなこと知りたくなかった。 そんなこと、知らなくてよかった。 こんな世界に来なきゃ、知ることはなかった。 私は悪くない。 でも、怖い。 『っ……帰りたい………』 私は今度こそ、心からそう思った。 あの世界なら、こんな思いをすることはなかった。 平和ボケしてただ日常をこなせばよかった。 人を傷つけることのない、穏やかな日常に、ただ、帰りたかった。 |