『ひっ、うっ、もう、やだあ………』

しゃくりあげながら、めそめそと泣いていると、ミカが優しく肩を抱く。
その手は頼もしく、温かく、力強い。

「セツコ?大丈夫か?」

大丈夫じゃない。
大丈夫なんかじゃない。
つーか誰のせいだと思ってんだ。
もう嫌だ。
この空気の読めないおっさんどうにかして。

早く立ちあがってこのおっさん殴って逃げたいのに、力が抜けてしまって、立てない。
庭が見えないように顔を逸らして泣くのが精いっぱいだ。

「何をやってるんですか、あなたは」

そこに呆れかえったような、溜息交じりの声が割って入った。
聞き慣れてしまった、耳にするだけででイライラしてくる美声。

「ネストリ、セツコが***泣いて」
「まったく、**の後を片付けないと聞いたら………、******セツコだって、一応女性なんですよ」
「いや、だがな……」

一応ってなんだ、一応って。
どういう意味だ。
もうこいつらやだ。
本当にやだ。
死…、左遷されてアラスカでも南極でもいっちゃえ。

『セツコ、とりあえず中に入りましょう』
『ひっく、う、うひっ、ひっく』

ネストリが手をひいて、私を立ちあがらせる。
足がうまく使えないから、珍しくこの悪魔にすがりつくようにして、部屋の中によろよろと入った。
このベランダにはもういたくなかった。

大広間のような部屋に入り、白い瀟洒な細工の施された椅子に座らせられる。
涙としゃっくりは止まらなくて、私はひたすら鼻をすすって涙をぬぐい続けた。

「なんだ、なんでセツコは泣いているんだ?」

馬鹿親父の、間抜けな聞こえる。
本当に叩きのめしたい、このおっさん。
私はしゃくりあげなら、ミカを睨みつける。

「ひ、人の首、うれしい、女、いない!」
「いや、だってな、セツコがあいつらを何人か殺したって聞いたから………」
『殺してない!』

私は殺してない。
私は殺してないんだ。
私は、自分の身を守っただけ。

『もうやだあ………』

また、あの赤い夜の記憶が蘇る。
私は椅子の上で膝に顔を伏せて周りを見ないようにシャットダウンする。
もうやだ。
何も見たくない。
何も聞きたくない。

「陛下は、少し黙っててください」
「………なんだ、俺が悪いのか」
「誰か見てもそうでしょう」

深くため息をついたネストリが、ミカを静止する。
ミカは不満そうだが、黙ったようだ。
珍しく悪魔の言うことが正しい。
もうこのおっさん、どっかにやって。

静かな足音がして、髪にかすかな風を感じる。
ネストリが私の前に立ったようだ。
上からいつもの小憎たらしいほど落ち着いている声が降ってくる。

『セツコ、落ち着いてください』

脳裏に響いた声に、私は顔をあげた。
見下ろすネストリはやはり涼しい顔をしていた。
その顔にも、苛立ちが募る。

『落ち着ける訳ないでしょ!なんなのよ、この世界!ていうかあの馬鹿!あの馬鹿王!死体なんか見て誰が喜ぶのよ!私は正真正銘女よ!一応なんかじゃない!死体なんか見たくない!怖い!こんな世界嫌い!部長がいてもいいから、あの世界がいい!お母さん会いたい!やだ!やだやだやだや、怖い怖い怖い!』

泣きながら脳内会話で、私は喚き散らす。
声が出なくても感情が叩きつけることが出来て、便利だ。
ネストリは少し眉をしかめて、頭を押さえる。

『ちょっと、落ち着いてください。頭が痛い』
『知らないわよ!勝手に頭痛くなってれば!?だいたいあんたがこんなところに連れてこなきゃ、こんなことにならなかった!あんたなんて大嫌いよ!』

更に感情を吐露すると、ネストリは小さくため息ついた。
そして、私のものよりずっと白く細い手が、額に当てられる。
ひやり、とした滑らかな感触に、息を呑む。
すっと、心の中から何かが抜けおちる感触がした。

『……………』
『落ち着きましたか?』
『………え、あ、うん』

聞かれて、呆けたように頷く。
燃え盛っていた火に冷水をかけられたように、すっかり感情の嵐が消えうせている。
ネストリが小さく笑って、手を離す。
ちらりと自分の主君に視線を送って、肩をすくめる。

『すいませんね、あの人、馬鹿で』
『………本当よ、なんなのよ、あの馬鹿』
『悪気はないんです。あいつらの死体を見せれば、あなたが安心すると思ったそうです。もう怖いものはいなくなったと思って。馬鹿ですね』
『悪気がなきゃいいってもんじゃないのよ。なんなのあの馬鹿』
『基本的に他人の感情を考えようって気がないんです。馬鹿だから』
『馬鹿過ぎるわ、あの馬鹿』
『すいません、馬鹿なんです』

二人で一緒に視線を向けると、ミカはどこかふてくされたように憮然としていた。
よかれと思ってやったことが裏目に出て、好意を無にされたことに気分を害しているのだろう。
突発的に無茶な命令下して、みんなに大反対された時の部長みたい。
なんて駄目なおっさん。

『……………』
『人の死は、怖いですか』

ミカを見ていると、突然ネストリが話題を変えた。
つられて、いつまでたっても見とれてしまう美しい彫刻のような顔を見上げる。

『………え?』
『あなたは、人の死に罪悪感を覚えているようですね』
『…………』

そう、なのだろうか。
そうなのかもしれない。
そうだ、ずっと、うしろめたい気持が消えない。
私がやったのではない。
それでも、いたたまれない。

言葉が出てこなくて、黙りこむ。
ネストリはふっと笑って静かに問いかける。

『なぜ、人を殺すことが、罪なのでしょうね』
『………そりゃ、だって悪いことじゃない』
『そうでしょうか?』
『それ以外、何があるっていうのよ』
『人を殺してはいけない、というのは規則です。人が作り出した』

人が人を傷つけるのはいけないこと。
それはもう、子供の頃から教え込まれ、そして当然のこととして受け止めていたこと。

常識。
人の道。
疑いようのない、事実。

この悪魔が、突然何を言い出したのか分からない。
人の法を悪魔に説かれるのも、おかしな話だ

『ひどいな、私だって規則は守ります。規則は共同体において、争いを起こさないための知恵ですから』

うんちく話の好きなネストリは、語学のレッスンの時のように滔々と話し始める。
何が言いたいのかわからないまま、ただそれを聞く。

『まあ、ここの前の領主のように無意味で混乱を生む規則を作りまくるような人も存在するわけですが、基本的に規則というのは争いを生まずうまく折り合いを付けるための方法を明文化したものです。守っていれば、そこそこうまく共同体で生活できる。だから守った方が楽です。穴も数えきれないほどありますが』

コミュニティで暮らすためのルール。
それは、そうだ。
法律というのは、国を守り、その上で人が等しく権利を持ち生きるための、ルール。

『人を殺してはいけない、というのは規則です。混乱を生みださないための。殺せば恐怖を生み、憎悪を生み、復讐を生み、まあ、いいことにはならない。だから殺してはいけない』

なんだか、違う気がする。
いや、そうなのだろうか。
人を殺すというのは、もっと、なんかルールとかに縛られない、もっともっと根本のところにあるもののような気がする。
それこそ、本能のような。

うっすらそう思うと、ネストリは笑う。
どこか馬鹿にしたように。

『生まれたばかりの人間は、人を殺しちゃいけないなんて思いませんよ。動物だって必要に駆られれば同族を殺す。この国でも殺人は、罪です。あなたの世界でもそのようですね。どうやら、この国よりもより厳しい。だからあなたは人を殺すことを怯える。人の死は混乱を生む、罰を受ける、共同体で生まれれば、それを叩きこまれる。だから人は、人を殺すことに罪悪感を覚える』

コミュニティで上手く暮らせなくなるから、ルールを破ってはいけない。
だから人は殺してはいけない。
それは、確かに真実だ。
でも、なんだかもどかしい。
反論したいような、納得するような。

『………それで、何がいいたいのよ』
『あの男たちはこっちの法律では別に殺してもなんら罪にならないので、気にすることはないですよ、ということです。規則外のことですから』
『そういう問題じゃないでしょ!』

人の死は、そんな簡単に片づけられるものじゃないだろう。
人の死は、やっぱりもっと違う気がするのだ。
でも、うまく説明する言葉は、浮かばない。

『じゃあ、あなたは彼らを傷つけたことの何に罪悪感を覚えるんですか?』
『何って………』
『共同体で何より怖いのは、人の感情です。規則を破ると、人は罵られる、白い眼で見られる、阻害される。だからこそ規則を破ることを怯える』

ネストリはにっこりと笑う。
それは優しく、とろけそうなほどに。

『大丈夫、あなたがあいつらを傷つけたことを、誰も責めません。誰もあなたを軽蔑したりしない。あなたがやったことは、当然のことです』

その言葉に、正直少しだけ心が動いた。
納得しそうになってしまった。
だが、それを認めるのは、理性が許さない。

『………、違う、そういうことじゃなくて、そうじゃない、そうじゃないのよ』
『あなたがそうやって悩んで、何になるんですか?』
『…………』
『何にもならない。あいつらが甦る訳でもない。そもそも、あなたはあいつらが甦ることを望んでいる訳じゃない。あいつらを傷つけたことを、後悔はしていない。ただあなたは後ろめたい気持ちをごまかしたいから、自分を責めるようなふりをする』
『違う!』
『それはあなたの自己満足です。何度も言いますが、別に誰もあなたを軽蔑したりしません。だから、罪悪感に落ち込むふりをして、人に責められるのを回避しなくてもいい』

お前はヒトデナシだ、とそう決めつけられた気がした。
本当は人の死に罪悪感など覚えていないのだ、と。
ただ、自分の罪をごまかしたいから、人の同情を買おうとしているのだろう、と。
そのための方法が罪悪感。
頭が一瞬で、熱くなる。

『このっ、最低!』

私は立ちあがって、ネストリの頬を叩いた。
パシリと乾いた音がして、綺麗な白い肌が赤くなる。
悔しさと怒りが溢れだしてきそうで、唇をかむ。
ネストリは、静かな目でただ私を見ていた。
怒りも軽蔑もなく。

『とにかく、悩んでも無為なことに、時間を費やさなくてもいいと思いますよ。ああ来た。では交代します』
『え』

ネストリが軽く身を引く。
すると開きっぱなしだった扉から、二人の人間が入ってくる。

「セツコ様!」
「セツコ」

顔を真っ赤にさせたエミリアと、心配そうに顔を曇らせたアルノがした。
エミリアは部屋に入ると、カツカツと珍しく乱暴な音を立てて鼻息荒く突っ立っていたミカに詰め寄る。
顔を赤くして、腰に手を当てて自分よりもずっと長身のミカを睨みつける。

「陛下!何をしているんですか!」
「………また俺か」

ミカはうんざりしたように、少し顔を逸らす。
そこに後ろからゆっくりと歩いてきたアルノが冷たく切り返した。

「当然でしょう」

頭の上がらない恩師の言葉に、ミカは更に嫌そうに顔をしかめた。
エミリアは仮にも一国の王を、子供にするように叱りつける。

「私は、元気づけてくれ、と言ったんです!こんなことしてなんて、言ってないです!」
「…………」
「だいたい陛下は……」

黙り込む馬鹿王に、エミリアは本格的にお小言を開始した。
ミカは決まり悪そうに、だが黙ってお説教を受けている。
一応反省しているのかもしれない。
悪ガキのように叱られている姿は、なんだか哀れだ。
ちょっとかわいそうかも。
いい歳したおっさんが。

「セツコ」
「………アルノ」

気がつくと、アルノが先ほどのネストリの位置に来ていた。
立ちあがっていた私をゆっくりと座らせると、足もとに自分も跪く。
薄い手が私の両手を包むように握りしめる。
かさついた、だがとても温かい手。

深い緑の目で私を目を覗き込んで、いたわるように優しく笑う。
温かな手と、その笑顔に、ほろりと心がほどける。

「ネストリが何か言った?」
「………私、人、傷つける嫌。怖い。でも、私が、人を、傷つける、いやは、自分が楽に、なりたい」
「………全く」

単語が回らない頭ではうまく浮かばなくて、たどたどしく伝える。
私が何を言われたのか理解したのか、アルノは呆れたように溜息をついた。
そしてぎゅっと、私の手を包む両手に励ますように力を込める。

「人を傷つけたことが、怖いんだね」
「………うん。私、怖い」
「そうだね。人を、傷つけるのは、怖い。人を傷つける怖さを、忘れては、いけない」

アルノは、私が聞き取りやすいようにゆっくりと話す。
少し考えるようにしながら、単語で区切り、低い声で、私に何かを届けようとする。

「傷つけることは、より大きな災い、生むことがある。人を傷つけること、怖がるのは、いいことだ。人を傷つけることは、怖い」
「………」

じゃあ、私はやっぱり、悪いことをしたのか。
どうしようもない、この感情は、どうしたらいい。
苦しくて顔を歪めると、アルノはけれど優しく笑った。

「でも、私は、君が生きていて、嬉しい。君がここにいることに、神に、感謝する」

握った手に、そっと口づけられる。
それは性的なものなど何も感じない、祈りのようだった。

「人を傷つけることは、恐ろしいことだ。でも、君を守るためなら、きっと私も人を傷つけるだろう。殺してしまうかもしれない」

優しげなアルノの表情から、その言葉の過激さが一瞬理解できなかった。
意味をワンテンポ遅れて受け取って、目を見開く。
アルノは、苦笑して少し視線を逸らす。

「難しいね。人を傷つけていいいのか、よくないのか。私も、答えは分からない。でも、私は、自分を守るための力は、悪いものではないと、考える。君が傷つくことは、悲しい。君が傷つくことは、大きな悲しみを生む。それは、私やエミリアや、エリアスに不幸を、授ける。君がここにいることは、君の周りの人間に、幸せを呼ぶ。君と君の周りの人間に、君は幸せをもってきた」

アルノは視線を戻すと、私をまっすぐに見上げて笑う。

「だから、ただ君がここにいることを喜ぶ。よく帰ってきてくれたね、セツコ。よく頑張った。辛かったね」

優しく静かな、アルノの言葉。
アルノの澄んだ湖を思わせる深い緑の瞳が、ぼやけて見えなくなってくる。
眼が熱くて、胸が熱くて、たまらない。

人を傷つけることは、怖かった。
罰を受けなければいけないのでは、と思った。
私は悪くないとそう思っても、人の死は、怖い。
人を傷つけることはいけないことだと、分かっている。

いや違う。
私の感情は、きっと、ネストリがさっき言った通り。
そうだ、心が読めるネストリには、分かっているのだ。

人に責められたくない。
こんな汚い人間だと思われ、嫌われたくない。
人を傷つけるような、人間だと思われたくない。

だから、私は、許されたかったのだ。
それがたとえ、自己満足であろうと、欺瞞であろうと。





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