頭が真っ白になる。 酒気に満たされた思考は、明確な形をもたないままふわふわと取り留めのないことを考える。 えーと。 これは。 人工呼吸。 そんな訳ない。 キス、か? 今されているのは、キス? どれくらいぶりかな。 最後に恋人がいたのは。 ………。 あ、考えたくない。 うわー、ほんとぼやぼやしてたら年だけとってる。 なんて考えているうちにも、口内に舌が入り込む。 この大柄な外見にふさわしく、舌も厚くて私の口の中はいっぱいになる。 幽かに漂うアルコール臭と熱い体温に、侵されていく気がする。 …うまい。 やばい、気持ち良くなってきた。 うっとりとしてしまう。 適度に優しく、適度に強引に、口の中を犯される。 やっぱ外人は違うなあ。 キスとかしなれてるのかな。 ていうかねちっこい。 唾液を絡ませて。 何回も角度を変えて、より深くむさぼるように。 日曜洋画劇場だ。 私も経験多い方じゃないからなんとも言えないけど、これはうまいと思う。 「ん」 息継ぎの合間に鼻から抜けるような声が出る。 しかし、テーブルを挟んでのキスは体勢が辛い。 腰が痛くなってきた。 ていうかなんでこんな事態になってるんだっけ。 ていうかこの人と出会って2回じゃなかったっけ。 ミカは与えられただぼっとしたワンピースに隠された私の胸を優しく包み込む。 あ、やべ、ノーブラだ。 でもこっちのブラ、痛いしなあ。 何入ってるんだろ、あれ。 あんま寝るときはつけたくない。 でもこのワンピース、薄手の布なので、乳首がどこにあるか丸分かりだわ。 ミカの手が、的確にそこに触れようとする。 て、ちょっと待った、それはまずい。 まずいでしょ。 ようやく戻ってきていた理性は、そこで完全に蘇った。 「んー!!!」 必死に、ミカから体を離そうと後ろに体重をかける。 しかし、見た目通りに強い男の力は、私の頭を解放してくれない。 それならば、と体勢が辛くて手をついていたテーブルを一徹返しをしようと掴む。 力を入れて、一気にそれをひっくり返そうとした。 「ん、ん」 だめだ。 重い。 ちゃぶ台ならともかく、こんなどっしりしたテーブルをこの細腕で抱えあげられるはずがない。 ならば。 「はあ」 息継ぎのため、一瞬だけミカが顔を離す。 私はその隙を見逃さなかった。 「っは、い、い加減にしろ!!!!」 見上げる位置にある男の顎を狙って思いきりヘッドバッドを繰り出す。 バキっといういい音がした。 あ、まともに入った。 うわ、顎じゃなくて鼻に入ってる。 痛そう。 「******!!******!!!」 不意打ちをくらった形のミカは鼻を押さえて何かいっている。 痛い、とか何をするんだ、とかそういうことだろうか。 分からない。 分からないが、私は机に乗り上げて鼻を押さえて前屈みになっているミカに指を突き付けた。 「油断も隙もない!誰がこんな簡単にヤらせるか!タダでヤらせるほどまだ安売りしちゃいないわよ!そりゃね、もうもったいぶってる年でもないわよ!?もったいぶってる暇はないわよ!?でもね、もったいぶってる余裕がないのと同時に、寄り道してる余裕もないんだからね!」 ミカは分かっているのか分かっていないのか、私を見上げてぽかんと口を開いている。 いい年こいたおっさんのそんな表情は、なんだか滑稽だ。 イケメンだからそれもまたかわいいとか思っちゃうんだけどね。 本当に顔がいいって得だ。 「いい?この年になったら一戦ごとに気を抜いていられないのよ!?相手の職業!家庭事情!収入!結婚に望むこと!一瞬の隙も見逃さず、畳みこむ!ねじ込む!あんたみたいな甲斐性はありそうだけど、誠実さがなさそうな遊び人とうっかりヤってる場合じゃないのよ!イケメンだからって一夜のアバンチュールなんてやってらんないわよ!ていうか二十代だったらね、ちょっといけない一夏の思い出で済むかもしれないけどね、三十代になったらただの身持ちの悪い女よ!分かってんの!?分かってんなら返事しろ、こら!」 ついに机を乗り越えて、ミカの目の前に降り立つ。 そして、目を白黒させて言葉を失っている頭2個分大きな男の襟首をつかんだ。 そのまま力任せに前後に揺らす。 く、重い。 この筋肉デブ。 「タダでヤらせてなんかいられないのよ!?それともあんた責任取る覚悟あるの!?いいわね、私に手を出すイコール結婚ぐらいの覚悟をしておきなさいよ!地雷女とか言われてもかまわないわよ!あんた収入いくら!?職業は!家族は!」 呆然としたままのミカを揺さぶっていると、後で小さく物音がした。 つられて、後を振り返る。 すると、いつのまにか扉が開いていて見慣れた綺麗な金髪が苦しそうな顔で腹を押さえていた。 「ぷ、く、くくくくく、ぶは」 「ちょっと、このセクハラ男なんなのよ!」 「ぶは、あーっははははは、あははは」 「笑ってる暇があったら答えろ!」 いつも穏やかに微笑んでいる悪魔は珍しく大爆笑しながら蹲っている。 私がもう一度怒鳴りつけると、涙をふきふきゆっくり部屋に入り込んできた。 前にも後ろにもイケメン。 ああ、夢のような状況ね。 一人は痴漢で一人は悪魔。 ほんと、悪夢。 『その前に、そろそろ手を放してあげてください』 『どうしてよ!』 そろそろ慣れてきてしまった、脳内会話。 まったく、脳内で電波で会話って、痛すぎるわ。 もしかして私、もう病院にいたりして。 …これまた洒落にならないわ。 悪魔はおっとりと私の後ろに立つと、ミカの襟首を握りしめた私の手に手をおいた。 その滑らかな極上のシルクのような冷たい感触に、ざわりと全身が総毛立つ気がする。 どこまでもお綺麗に出来ている男は、これまたお綺麗に微笑む。 『さすがに、一国の主に狼藉を働かれると、私も止めなくてはいけません』 『そんなの関係ないわよ!セクハラに社長も一国の主もない!』 『いやー、陛下が悪いのは分かってるんですが』 『権力があれば何してもいいって訳!?人事に訴えるぞこの野郎!』 『いやーでも、ほら、権力者ってのはたいてい困った人ですし…』 『たかが国王が……って、ちょっと待って』 興奮と酔いで熱くなった頭が一気に冷える。 思わず、セクハラ男の服を放す。 恐る恐る体を前に向きなおす。 そして、頭二つ高いところにある顔に、視線をゆっくりと移す。 ミカは鼻を押さえながら困ったように苦笑していた。 そんなみっともないとしか言えない表情ですら、魅力的で。 人を引き付ける雰囲気。 堂々とした物腰。 漂う威厳。 何よりも、強い力をもつ、その眼。 大きく深呼吸をする。 そして、またゆっくりと後を振り向いた。 『一国の主?』 『ええ、我がカレリア国の王、ミカ=オラヴィ陛下です』 『………誰が?』 『たった今あなたが襟首つかんで揺さぶっていたその人です』 もう一度、今度はさらに倍の時間をかけて前を向く。 男は、すでに飲み始めていた頃と同じようににこにことして私を見下ろしていた。 国王。 国王って。 遠い世界の話すぎて、なんだか実感湧かないんだけど。 あれよね、王冠かぶって赤いマントを着て。 玉座にふんぞり返って座ってて。 よきにはからえ。 で、気に入らない奴は市内引き回し後うち首獄門。 ひっとらえーい!みたいな。 この桜吹雪が目に入らぬか!みたいな。 『えーと………』 『事態は理解できましたか?』 『………あんまりしたくないんだけど、でも、金さんは正義の味方だし』 『まだ混乱されているようですね。あなたの前に立っているのは、正真正銘この国の王です』 『………騙そうとしてる?』 『私は嘘はつきませんよ』 『誤魔化そうとはするけどね』 『そうすれば楽しい時は』 『本当に悪魔だわ』 現実を見つめたくなくて、延々と悪魔とくだらないやりとりを続ける。 このまま、誤魔化せないだろうか。 さりげなさをよそおって、一歩前に踏み出す。 ドアまでは残り六歩。 悪魔をかわして、三歩行ってダッシュすればいける。 悪魔と口論をしながら、もう一歩踏み出す。 よし。 『**********?』 しかし、逃がしてはくれなかった。 太く硬くたくましい腕が私の体を後ろから抱き締める。 ひっと喉から変な声が出た。 そのまま広い胸に抱き寄せられる。 やばい、逃げられない。 後ろに頭突き喰らわして、逃げ出した方がいいだろうか。 いや、わかってる。 それが何にもならないことは十分分かってる。 『**********?*********』 『**************************************』 ミカは目の前の悪魔に何か話しかけている。 悪魔はにこにことしながらそれに返事をする。 当然のことながら、何を言っているのかはさっぱりわからない。 とりあえず、状況が分かるまでは私は大人しくミカの腕に収まっておく。 いや、ミカ様の腕に収まっておく。 王って、どんだけ偉いんだろう。 うちの社長よりは偉いわよね。 総理大臣より偉いのかしら? ビルゲ○ツとどっちがお金持ち? まあ、わかることは一介のOLが逆らってはいけないということだ。 どうしよう、土下座したら許してくれるかしら。 それとも、ヤらせたらいいかな。 いいわよ、死ぬぐらいなら何回でもヤらせるから。 イケメンだから別にいいわよ。 部長みたいな脂ぎった親父は死んでもごめんだけど。 ああ、でも満足しなかったらやっぱり死罪とか!? どうしよう、そこは自信ない。 最近体も重力に負け始めた。 体重は変わらないのに、お腹は出てきている。 あああああ、そういえばこっちの刃物怖いから、毛の処理もまともにしてないのよ。 見せられない。 こんな体誰にも見せられない。 むしろ見せる方が失礼にあたるでしょ。 どうしよう、一発芸とかにまからないかしら。 『セツコ、大丈夫ですよ?そんなに面白いことばかり考えないでください』 『だからあんたは人の恥ずかしい秘密を勝手に暴くんじゃないわよ!』 『しょうがないでしょう。あなたがこっちの言葉を早く覚えてくれればすぐ術を解除しますよ』 『二週間で覚えられっか!20代過ぎた脳みそを甘く見るんじゃない!』 『あなたって、本当に変なところで自信に満ちてますよね。そこ、自慢するところじゃないですよね?それともあなたの世界ではそこは自慢するところなんでしょうか』 『な、わけあるか!』 『まあ、とにかく、大丈夫ですよ。ミカ陛下はそんなに狭量な方じゃなりません』 自分の名前が出たのが分かったのか、少しだけ体に回されている腕に力が入る。 心臓が引き絞られるように、痛い。 新人時代に、大事な取引先に粗相をした時以来だ、こんな緊張。 冷汗が出てきた。 『セツコ?*************?』 後ろからそっと耳に吹き込まれる低く魅力的な声。 う、ぞくぞくする。 こんな時になんだが腰に来る。 声は、どこまでも優しい。 お、怒ってないのかな。 『陛下は怒っていらっしゃいませんよ』 『………本当?』 『ええ、むしろあなたが気に入ったようですよ』 『なんで!?』 恐る恐る、後を振り向く。 ミカ様は悪魔の言葉通り、あの悪戯っぽい笑みを浮かべて私の反応をうかがっていた。 その表情のどこにも、怒りはない。 「お、怒ってない、のね?」 通じないと分かっていても、思わず日本語が出てしまう。 ミカ様は首を傾げている。 答えたのはいつものように悪魔だった。 『ええ、怒ってらっしゃいませんよ。逆に、なんでセツコが急に怒ったのかを気にしています』 なんで急に怒ったか、ってそりゃあんな急に手を出されれば。 ああ、でも王とかの立場だったら皆喜んで体を捧げるのかしら。 そりゃそうよね、王だもん。 常識が、人と違うのかも。 もしかしたら、この世界からして、常識が違うのかもしれない。 だったら、ちゃんと話して分かってもらわなきゃ。 異文化コミュニケーションは大事。 『えーと、私の世界では、やっぱり段階ってあるのよ。キスするにしてもその…えーと、セック、いえ、深い関係になるにも。急に迫られるとやっぱりちょっとびっくりしちゃうというか、ちゃんとお付き合いを初めて、お互いを分かりあってからそういう関係になるというか』 たどたどしいが、なんとか分かってもらえるように説明する。 ミカ様を見ながらだが、もちろん言葉は通じない。 だから、受け取って悪魔が通訳をする。 『************。*****************』 『**********?*************************』 『*****************』 『*****?』 ミカ様は私を離さないまま、悪魔と何か話している。 な、納得してくれるかな。 してもらわないと困るんだが。 伽をしろ、とか言われても。 満足してもらえる自信はない。 そこで、悪魔がふいに私に話しかけて来る。 『結婚しているのか?と聞いていますが』 『は?ううん、してない』 してないわよ、悪かったわね。 ちょっとムカっとする。 あ、でも結婚しているなら無茶はいけないとう当然の常識はあるのかしら。 『処女なのか?と聞いています。違いますよね』 『はあ!?』 思わず思いきり怪訝そうな声が出てしまう。 あ、だめだめ。 こんなところで怒っちゃダメ。 きっと、処女の恥じらいなのかと思っているのね。 『………えーと、黙秘権を行使します』 『といっても、私は知ってるので答えちゃいました』 『ふざけんな、このセクハラ野郎!』 『申し訳ございません。陛下には逆らえませんから』 くっそ、絶対嘘のような気がする。 こいつが誰かに従うっていうのも想像がつかない。 短い付き合いだけれど、こいつの底意地の悪さとプライドの高さは分かる気がする。 王だろうがロシアの富豪だろうが、嫌なことは絶対嫌っていいそう。 『いやですねー。私も権力には逆らえませんよ』 『嘘つけ』 悪魔はちらりと笑って、またミカ様と話す。 ミカ様は私を見下ろしてにっこり笑って何かを言う。 ああ、やっぱり見とれてしまうほど、いい男。 『じゃあ、なんで抱かしてくれないんだ?と』 『え、だから、それはやっぱり段階を踏んでくれないと…』 『一回くらいいいじゃないか、褒美に宝石でもなんでもやろう』 『はあああ!?』 『私じゃありませんよ、陛下です』 ミカ様は相変わらず、私を優しく見下ろしている。 イケメン、イケメンなんだが。 常識ないにもほどがある。 これが王っていう人間なのか。 『もったいぶる年でもないだろう。大した体でもないし、俺と寝れるなんて幸せなことだ。だが、異世界の女というのは珍しくていい』 「ふざけんなああああああああああ!」 ぶちっと、何かが切れた音がした。 私は、素早く悪魔に向きなおすと、そのまま後に頭をのけぞらした。 バキっと、またいい音がする。 衝撃でちょっと開いた腕から抜け出し、今度は変態野郎に向きなおす。 そして、また赤くなった鼻を押さえている大柄な男めがけて足を振り上げた。 ぐしゃっ。 蹴りなんて慣れてないから、少ししくじって変な力の入り方をした。 くそ、まともに入らなかった。 しかし、蹴りの入りどころがよかったらしく、セクハラ王は股間を押さえてその場に座り込んだ。 うめいて蹲り、起き上がることもできない。 よし。 「次ふざけたこと言ってみなさい!切り落としてどこにもつっこめない体にしてやる!蹴りで済んだことをありがたく思え、痴漢野郎!」 ミカに指を突き付けて、そこまで一気に言い切る。 興奮で頭が熱くなって、息が切れる。 はあはあ、と肩で息をしていると、後でぷっと小さく吹き出す音がした。 後を振り返ると、悪魔がミカと同じように座り込んで小刻みに震えていた。 |