「きみ、だあれ?このマンションの子?同じ学校?」

大きな目をキラキラと輝かせて、男の子は次々と問いかけてくる。
私ははじめての、今まで知ることのなかった感情に戸惑うばかりで、満足に応えることができなかった。
なんとか名を告げると、男の子は目がなくなってしまうぐらいに笑う。
それが本当に眩しくて、綺麗で、温かくて。
喉がつまって息苦しいような、心臓を引きしぼられて痛いような、泣いてしまいそうな、そんな表現できない塊が胸に落ちてくる。

純粋な興味。
純粋な好意。
心からの笑顔。

幼かった私には、自分に向けられたものに、なんて名をつけるのかは分からなかった。
けれど、おそらくそれはそんなものだった。
打算でもなく、義務でもなく、指示されたことでもなく。
見返りを求めてのことではない、ただ与えてくれたもの。
ただ、くれたもの。

「ねえ、名前は?僕はね…」

男の子が名前を教えてくれた。
私は繰り返すようにそれを口にする。
すると、男の子は無邪気に声をあげて笑った。
だから私も、名前を告げた。
男の子は笑ったまま、私のことを呼ぶ。

その時、初めて私の名前は私のものとなった。
名前は大事なものだったと、初めて知った。
存在を認めること、認めてもらうこと。
心をこめて、名前を呼ぶということ。
名前はただの記号ではないと、初めて知った。

男の子は私の手を引いて駆け出す。
少し埃っぽくて、ざらざらとしていた。
それでも温かくて、小さな手が力強かった。

『お父様』や『お母様』の手とは違った。
温かいとも冷たいとも感じなかった。
ただ、つなげと言われるから、つないだ。
けれど、今つないでいるこの手は。
この、伝わってくる温かさは。

手をつなぐ、ということは、こんなに温かいものを感じるものなのだ。

急に引っ張られ、私は前につんのめってバランスを崩す。
つないだ手とは逆の手を地面につき、膝を強かに打ちつけた。
膝にじんとした、鈍い痛みを感じた。
だが、動くのに支障はなかったし、気になるものではなかった。

「大丈夫!?」

けれど男の子は振り返ると、私の前にしゃがみこむ。
膝を見て、自分が怪我したかのようにくしゃりと顔を泣きそうにゆがめる。

「ごめんね、ごめんね、痛い?痛いよね、ごめんね、ごめんね」

オロオロと膝の出血を見て、大きな目から大きな涙粒が零れ落ちてくる。
痛みは感じているが、私は気にしていない。
今まで怪我して泣いても訴えても、どうなるものでもなかったから。
だから、泣く必要も、訴える必要もなかった。

大丈夫だ、と告げる。

しかし、男の子は納得せずに泣き続ける。
謝りながら、私の怪我を見て泣き続ける。
痛いだろう、と泣き続ける。

すると、私も痛いような気がしてきた。
男の子が泣くから、私も自分の怪我がとても痛いもののような気がしてきた。

これが『痛み』ということ。

それでも泣いている男の子を見るのは嫌だったから、もっと最初のような笑顔を見せて欲しかったから。
私は大丈夫、と繰り返した。
男の子には、笑っていて欲しかった。

これが『心配』ということ。

泣き止まない男の子に、私はその綺麗な涙をこぼす赤い頬に手を伸ばす。
自分から人に触れることも、初めてだった。
温かくてすべすべとした子供らしい頬が、濡れてべとべとになっていた。

泣かないで。
貴方が泣いているのを見るのは、哀しいから。
泣いていると、私まで泣いてしまいそうになる。

おそらくこれが、『哀しい』ということ。

そう言うと男の子はぴたりと涙を止めた。
それこそおもちゃのように簡単に。
その唐突な変わり具合に、私の表情は自然と笑顔の形をとる。
意識してのことではなく、ただ自然に。

これが、きっと『楽しい』ということ。

男の子は、砂だらけのズボンの後ろポケットを探る。
勢いよく取り出したそれは、小さなな手のひらより更に小さな飴。
赤いセロファンと青いセロファンで包まれた他愛のないお菓子。

「あのね、痛い時にね、これ舐めると痛くなくなるんだよ。本当だよ、お薬よりいいんだよ」

そう言って私の手のひらに半ば無理矢理2つの飴を押し付ける。
私の培ってきた知識は、早く膝を水道で洗い、砂や雑菌を流すべきだと訴えていた。
また、飴を舐めても痛くなくなることはないと、分かっていた。

それでもこの子が言うなら、そうなのかもしれない。
これはどんな薬よりも効果のあるものなのだ。
この子がそう教えてくれるなら、私にとってはそれが正しい気がした。

だから私は赤いセロファンを開け、それを口に放りこむ。
子供の口には少し大きい丸い飴は、甘くて少し酸っぱい、薬臭い味がした。

「…おいしい?痛くなくなった?」

大きな飴だったから、私は満足に口を開けず黙って何度も頷く。
口の中で何度も飴を転がし、甘酸っぱいそれを舌に染み込ませる。
きっと、今まで私に与えられてきたどんなお菓子よりも安く粗雑な飴。
それでも私は初めて、味わうことにに積極的になった。
食べろと言われたから食べるわけじゃない。
食べたかったから、食べた。

ふと気付くと男の子がじっとこちらを見ている。
どこかそわそわとして、その視線は私の手のひらのもう一つの飴に向けられていた。
知らず笑って、私は青いセロファンを差し出す。
男の子はびっくりしたように1度断ったが、2度首を横に振った後に照れたように受け取った。
素早く剥がすと、勢いよく口に放り込むと、嬉しそうに笑った。
その笑顔が、本当嬉しそうで、私の胸が熱くなった。

嬉しかった。
これが、『嬉しい』ということ。

知識としてしか私の中になかったものが、なぞるように実感となって私の中に生まれていく。
男の子が何かを言うたびに、私の中に何かが生まれていく。
温かかったり、冷たかったり、壊れそうなものや、強いもの。
そんなものが、降り積もっていく。

これが、感情。
初めて知る、これが感情。
私はそれまで、生きていなかった。
ただ、言われたことをするための呼吸する物体。
ただ、そこにいた。
あった。

私はこの時始めて、自分が生きていたことを知ったのだ。
『声』を『景色』を『匂い』を『味』を『温かさ』、そして『感情』を。
私はそれらを持っていた。
私の中に、あったのだ。

誰も教えてくれなかった。
知らなかった。

熱いものが胸からこみ上げて、目を伝って頬を流れ落ちる。

「どうしたの!?痛いの!?」

驚いたように、男の子が私の頬に触れる。
温かくて、苦しい。
息が、つまる。
これはなんと言う感情なのだろう。
私がこれまで読んだ本には載っていなかった気がする。

何も言えない、自分の感情を表現できなくて、もどかしくただ涙を流す私。
男の子は困ったように頭を撫でてくれる。
泣かないで、と繰り返す。
悲しいのだろうか、痛いのだろうか、涙が出るのは、どんな時なのだろうか。

その時、砂を踏みしめる重い足音が響いて、後ろに誰か来たのが分かった。
目の前にいた男の子が驚いたように立ち上がり、駆け寄っていく。
私はその動きを追うように、首を巡らし後ろを振り向いた。

「お父さん!」

後ろにいた男は、高い声を上げて駆けて来た小さな体を大きな手で抱き上げた。
シックで、けれど高級なスーツを身に纏う大きな男は、始めて見るような柔らかな顔で、自分を父と呼ぶ男の子を抱きしめる。

始めて見る表情。
けれど、見知った顔。
私をここに、連れてきた男。

男は座り込んだままの私を、ただ静かに見ていた。



***




何を思って、『お父様』が私をあそこへ連れて行ったのかは分からない。
あの男の考えることは何年たっても、全く分かりそうにない。
分かりたくもない。

その帰り道、私はこの後一生後悔することを、『お父様』に告げる。
何度思い出しても、私はこの時の自分をくびり殺してしまいたい。
数多くの後悔の中の一つ。
償えない罪。
まずは第一歩。
すべてが始まったお願い。

「お父様、私はいい子でしょうか?」

『お父様』は何も言わず、ただ前を見ていた。
車の後部座席で、『お父様』はただ一言「あれはお前の兄だ」とだけ言った。
あの幼く無邪気で純粋な男の子が自分より年上だったことには驚いた。
けれど、ただ嬉しかった。
あの男の子と自分が、何かつながりがあるのが、とても嬉しかった。
彼を兄と呼べることが、特別なことのような気がした。
さきほどからの弾むような心が、継続して私を浮き立たせていた。
だから迂闊にもこんなことを言ってしまった。

「子供は、いい子だったらご褒美がもらえると聞きました」

『お父様』は何も言わない。
聞いているのか聞いていないのか分からなかった。
それでも私は先を続ける。

「私、言われたことはやります。足りないなら、もっともっとやります。何か他に必要なら、言ってください。頑張ります」

今日始めて知ったものを、もっともっと知りたい。
感情が、欲しい。
あの胸を熱くするものを、もっともっと与えてほしい。
それがあるなら、他には何もいらないから。
だから、もっともっと、アレが欲しい。

何かを初めて欲しがった。
愚かな子供の私は、我慢を知らなかった。
だから初めての感情のまま、私は言ってしまったのだ。

一生、自分を許せなくなる言葉を。

「お父様、私、ご褒美が欲しいです」

『お父様』は先を促すように、私をちらりと見た。
私は『お父様』に、最初で最後の、おねだりをした。

「私、あの子が、欲しいです」






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