それは、小学校に上がってしばらくした頃。 私の日々は変わることはなかった。 学校へ行くことで知識は広がり、自分の家があまり一般的ではないことを理解した。 それでも私は何を感じることもなかった。 義務は増えたし、やることは沢山あった。 ただ、それをこなすだけだ。 私はそういう存在。 呼吸して、誰かが望むとおりに存在すればいい。 私はそれほど優秀な人間ではないようだから、課せられる課題には努力を必要とした。 けれどそれが与えられた指示なら、私はこなすように動く。 変わったことといえば出来ないものには、ペナルティが課されるようになった。 より一層の努力を求められ、時には罰を与えられる。 ただ、睡眠時間が減ることも、食事を抜かれることも、特に何も感じることがなかったから、私にはあまり効果はなかったけれど。 それだけ。 ただそれだけの毎日。 その日、『お父様』が家にいた。 たまに帰宅はしているが、私は会うこともなかったし、興味もなかった。 しかし、その日は珍しく私の部屋に訪れた。 そして私に「ついてこい」と指示をくだした。 他にもやることはあったが、『お父様』の指示は優先順位の頂点にあった。 『お父様』の言うことはなんでも聞くように指示されていた。 だから、私はいつものように何も考えることなく『お父様』の後を追う。 行き先は問わなかった。 聞く気もなかった。 訪れた先で私は何かをさせられ、そしてまた帰るだけの話だ。 ちょっとイレギュラーではあったが、いつもと変わらない私の義務だ。 車に乗せられ訪れたのは、無機質なコンクリートのマンションだった。 そこまで大きくはない、けれど新しく中々凝った作りをしていた。 車をマンションの前につけた『お父様』の目的はそのマンションらしく、待っているよう言いつけると、1人マンションに入っていった。 その時、指示もされていないのに、1人車を降りたのは、なぜなのか。 私にはいまだに分からない。 それが運命と名づけられるものなら、そうかもしれない。 ならば私はこの運命を与えた誰かに、殺してやりたいほどの憎悪と心からの感謝を捧げる。 それも、言い訳かもしれないが。 いつもの私だったら、車で大人しく待っていただろう。 運転手は止めなかった。 だから、降りた。 何も考えていなかった。 そのはずだ。 降りろなんて指示はなかった。 けれどその時、私は車を降りた。 マンションの横には、小さな公園が設置されていた。 私は何も考えずにそこに足を運ぶ。 別に誰かに呼ばれたような気がする、とかそこに何かを感じたなんてドラマチックなものはなかった。 いつものように、何も考えていなかった。 指示された以外のことをしたのは、初めてだったが。 小さな滑り台と小さなシーソー、そして小さな砂場。 その3つの遊具とベンチがぽつんとおかれた、みすぼらしい公園。 公園で遊べ、なんて指示はされたことがなかったので遊んだことはなかった。 また、興味もなかった。 私はただ、公園の入り口に佇んでいた。 何も考えていない。 父の、待っていろという指示に従っていた。 それしか、私にはないはずだった。 「あれ?」 後ろから、高い子供の声がした。 私が振り向くと、そこには私よりも少しだけ背の高い男の子がいた。 綺麗な大きな目をして、首をかしげている。 私が何かを言うより先に、男の子は不思議そうに口を開く。 「きみ、だあれ?」 舌足らずな甘えた声とともに向けられたその温かいもの。 私の心に、いまだ焼き付いている鮮烈な記憶。 私のすべて。 私の何よりも、この命よりも大切な記憶。 思い出すたびに温かなものが溢れ、そして同時に強烈な後悔に襲われる。 この時私が車を降りたりしなければ、公園に行ったりしなければ、出会ったりしなければ、何かが変わっただろうか。 この後に起きることを食い止めることが出来ただろうか。 出会うべきでは、なかったのだろうか。 けれど、その笑顔が私にすべてを与えた。 義務ではない、指示ではない、何かを私に与えた。 今までノイズとしか感じなかったものが、私の耳に声として入ってきた。 灰色だった景色が、色づいて意味のあるものへと変わっていく。 触れる風に温度を感じ、指先まで血が行き渡る。 無邪気に何のてらいもなく、与えられた笑顔。 始めて貰った、温かいもの。 それだけが、私の守りたかったもの。 |