突然後ろからシャツを掴まれた長身の男は、本日のお買い得、グラム100円牛肉のパックを手に取ったまま後ろを振り返った。
「………」
その表情はこの事態に驚いているようにも、怪訝に思っているようにも見えない。
無表情だ。
「………」
対して、掴んだ加奈の方が困っていた。
勢いで飛び掛ったもの、その後の展開を考えていなかった。
「……え、えーと」
「………」
男は相変わらず表情を変えない。
「こ、こんにちは」
「……こんにちは」
表情を変えないまま、男は律儀に返した。
シャツは加奈に握られたままだ。
「………」
「………」
その後また沈黙が続く。
空気が重くのしかかる。
男はやはり気にした様子はない。
1人焦っているのは加奈だけだ。
「え、その、い、いい筋肉ですね!」
何かしゃべらなければ!と、使命感にかられた加奈はとっさに思ったことを口にしてしまった。
男がようやく表情を変える。と言っても注意して見ていなければ分からないほど些細な違い。目を少し大きくしてまたたきしている。
こ、これは驚いているのかな。
加奈はそのわずかな違いを見て、推理する。
そりゃ驚くよね、こんなことして。
少々、自分の行動に対して、加奈が気まずく思い始めた。
その時、また少し、目の前の表情筋が全くなさそうな顔が変化する。
目元が少し和んだ気がした。

「……ありがとう」

その時、加奈は衝撃を受けていた。
ありがとうありがとうありがとう……。(エコー)
その言葉と、(おそらく)笑った表情がボディに直だった。
穏やかな二重の目元と、綺麗に通った鼻梁、引き締めた薄めの唇。男らしくりりしい眉。どこか南方の血でも入っているのか、全体的にパーツパーツが大きい。
今までは自分好みの体にしか目が入っていなかったのだが、思わず頭1,5個分上にある、その穏やかな目に釘付けになる。
「………」
「………」
また時間が固まりかけたが、加奈を追ってやってきた3人によってその空気が打ち破られた。

「加奈ちゃん、その人が噂の人?」
「うわ〜、本当に結構な男前!背も高いのね〜」
神崎と寺西が加奈に捕らえられたままの男子生徒を、上から下まで検分する。
その時、吉川が男に話しかけた。
「お前、3組の有川だよな?」
加奈と見詰め合ったままだった男は、今度は吉川に目を向ける。
ほんの少し首をかしげると、頷いた。
「あー、やっぱり。俺、4組の吉川。体育一緒だよな」
有川は吉川を見たまま動かない。
「………」
「………もしかして、分からない?」
こくりと頷いた。
「やっだーヨッシーったら影うっすーい!」
「もう〜、かわいいんだから〜」
神崎と寺西が受けている。
「うるさいな!」
吉川は結構ダメージを受けていた。
少し気分を害したまま、加奈に向き直る。
「で、お前はいつまで有川のシャツ掴んでんだよ。さっさと用件をすませよ。そいつも買い物中なんだろ」
そう言われて、ようやく加奈は自分が有川のシャツを握ったままだったことを思い出した。急いでシャツを放す。
「わ!ご、ごめんなさい!」
有川はとりあえず手にしていた肉のパックを元に戻した。
よれたシャツを少し直してから、4人に向かい合った。
「……何か用?」
目は加奈に向けている。
その目に加奈は思わずよろけて鼻血を出しそうになったが、こらえて乱れたスカートを手で押さえた。そのまま自分の中でのとびっきりの笑顔を作る。
「あ、あの、昨日はどうもありがとうございました!おかげで助かりました。有川君が来てくれてなかったら、私どうなってたか分かりません」
そうして深々と頭を下げた。声もオクターブ高い。
「………今更猫かぶっても遅えんじゃないの」
「いやいや、いつ見ても見事な化けっぷり。なんか美少女なお嬢様に見えるね」
「あら〜、加奈ちゃんは本当に美少女なお嬢様でしょ〜。肩書き的には〜」
外野を有川から見えない位置でにらみつけ、黙らせた。
ゆっくりと頭を上げると、こんどはオクターブ高い声のまましおらしい表情を作る。
「あの、お怪我とかされませんでした…?私心配で…」
「……キモ」
バックキックで黙らせた。
有川は少し首をかしげる。これが考えている時の仕草らしい。
加奈はこの後どういう展開に持っていこうか考える。
怪我をしている→悪いから世話をする(部屋に乗り込み)。
怪我をしていない→お礼にお茶(うまくいったら自宅つれこみ)。
とりあえず何はなくてもケータイ番号とアドレスと彼女の有無は聞きださなければ!
有川が口を開いた。
「………誰?」
「………」
「………」
「………」
「………」
空気が凍った。
沈黙が落ちる。
固まった人たちの中で、一番最初に立ち直ったのは張本人である加奈だった。
「き、昨日、私が3人の男性に絡まれていたところを助けてくれたじゃないですか!」
「………」
また首を傾げる有川。
………いやな予感。
「そこにいたの?」
「………」
「………」
「………」
「………」
ぷっ、と最初に噴出したのは吉川だった。
「か、影うっすー!!」
「わ、笑っちゃ悪いよヨッシー。ぷ、くくく」
「だめよ〜、会長〜、そんな笑っちゃ〜だめ〜。あはははは〜。ヤダ、加奈ちゃん一人相撲〜、一人上手〜」
そう言いながら3人は大爆笑した。
神崎にいたってはうずくまって痙攣している。
「いやーはずさないなー、加奈ちゃん。だから好きなんだよ!」
加奈は黙っていた。呆然としていた。
そのまま笑い続ける3人。
その中に無言で佇む有川と加奈。
「………こ」
「こ?」
「…このスカポンタン!この美少女忘れるってどういうことよ!」
そのまま有川の襟首を掴む。突然の出来事に有川は動けなかった。
「あのシュチュエーションなら美少女を助けるヒーローってのがセオリーでしょ!?何?ソレが「誰?」ですって!なめんじゃないわよ!」
がくがくとそのまま揺すられる。
加奈は合気道有段者。そして何より馬鹿力。
「今日一日の私の努力を返してよ!あんた探して三千里よ!この切ない想いをどうしてくれんのよ!あんなかっこよく助けられたらそりゃ惚れるっちゅーの!かっこよすぎんのよ!ふざけんなこの男前!少しくらいいい筋肉してるからって調子に乗るんじゃないわよ!」
シャツを引っ張られ、有川の胸元がはだける。
一番目と二番目のボタンが飛んでいた。
「少しくらい……、少しくらい、いい体……」
加奈の目に有川の肌が写る。適度に日に焼けた、健康的な肌。細身に見えながらしっかりとした骨格。筋張った手。飾りではない、実用的な筋肉。
「少し……、ううん、やっぱりいい体……。いい筋肉…」
加奈はそのあまりに自分好みの体に、たまらず有川に抱きついた。
「あー、だめ!この弾力がたまらないー!やっぱり好きー!」
有川はその間固まり、されるがままだった。
生徒会の3人はいまだ笑っている。



「あの、お客様…。他のお客様のご迷惑になるような行為は慎んでいただきたいのですが…」

気がつくと、周りにはちょうど夕食時の買い物に来た主婦によって人だかりができていた。
5人を中心にクレーターが出来ている。
話しかけたのは、苦い顔をしたスーパーの店員だった。

ここがスーパーの肉売り場であることをすっかり失念していた。







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