「有川が変なの…」

珍しく落ち込んだ様子の加奈が、机に突っ伏しながらつぶやいた。
有川は今日は道場の日のため、生徒会室にはいない。
寺西も所用のため席を外していた。
「お前に言われたくねえよな」
加奈の斜め向かいに座っていた吉川に、カッターが飛んだ。
「お、お前!これは洒落になんねーぞ、おい!」
紙一重でかわした吉川がさすがに青ざめながら抗議する。
しかし今生徒会室内にいる二人は気にしない。
「んー?どんな風に?」
神崎は前年度クラブ予算を眺めて眉を顰めながらとりあえず聞く。
加奈の話が唐突なのは、慣れている。
加奈以外の他のメンバーから見た有川の様子は普段と変わらず、またいつもの勘違いだろうとタカをくくっていることもある。
「なんか……さけられてる……」
「ようやくお前と関わってると、損にしかならねえって気づいたんじゃ……て、悪かった。俺が悪かったから、その中身の入ったカップを構えるのはやめろ」
また茶々を入れようとした吉川だったが、キレタ目をした加奈の様子に口を閉じた。
今の加奈なら本当にやりかねない。
「で、どんな感じなの?」
ようやく神崎が目線を合わせる。
いつもの胡散臭い笑みではなく、真剣な目をしていた。
加奈は今自分で入れたお茶が入ったカップで両手を温めながら、浮かない表情をしている。
少しの間、ゆっくりとカップを回していたが、唇を引き締めると顔を上げた。
「あのね、抱きつくと、本当にさりげなくだけど、ふりほどかれるの」
「ふんふん、響ちゃんこれまではされるがままだもんね」
「背中とか胸とか脚とか撫で回すと逃げるし、いままで触りたい放題だったのに……。体育の後の有川の匂いをかごうとしたらで立ち去っちゃうし、押し倒そうとしたら軽く払われるし……」
「……てゆーかお前はいつもそんなことしようとしてたのか」
「……それは逃げて当然なんじゃないかなあ。俺でも逃げるかな」
「むしろイジメですよね」
「うん」
沈んだ表情のままの加奈の口から出てきた衝撃の事実の数々に遠い目をしながら、ぼそぼそと話し合う男二人。
肌寒そうに腕をさすっている。
加奈は慌てて口を挟む。
「で、でもね!今までの有川は困った顔をしても、絶対あんな風に逃げなかったの!それにイヤだったらちゃんと口で言ってくれたの!それが今は……逃げちゃう……」
「それは……単に響ちゃんの情緒面が発達してきたってことでは?」
「有川がお前意識してるのかもしれないじゃねえか」
とりあえず思いついたことを言ってみる。
内心、本当にイヤになったんじゃないかとも思ったが、言わないでおく。
それに、生徒会室の有川の様子は、本当にそれまで通りだった。
たった1月ほどの付き合いでしかないが、純粋で分かりやすい、悪く言えば単純な有川の性格は複雑にことを考えるように出来ているとは思えない。
加奈の行動がイヤだったら、口に出すだろうし、神崎たちにも分かるように態度にでるだろう。
しかしそんなフォローにも、浮上することなく加奈は暗い声のままだ。
「それがさ……『有川好きー!』っていつもどおりに告白するとさ…」
「うん」
「無表情になるの」
「へ?」
「表情が、本当に何にもなくなるの」
両手で持ったままの、もう冷めてしまったお茶をすする。
あの時の表情を思い出し、有川の入れたもより数段味の落ちるお茶はますます苦く感じた。

有川は加奈が抱きついたり、触られたりすることに、あまり動揺はしない。
困ったように首を傾げるぐらいだ。
けれど加奈が好き、というと覿面に感情を揺らした。
無表情な顔は耳まで赤くなり、言動がぎくしゃくする。
そしてその後、照れたようにぎこちなく、柔らかく微笑んだ。
無表情ながら感情を素直に表す有川。
それは、有川の行動の中で、加奈の一番好きなものだった。

けれど、今の有川はそれが、ない。
動揺することも、赤くなることもなく、ただひたすらに無表情だった。
まるで何も聞こえなかったように、言葉自体がなかったように。

それが、加奈には一番堪えた。


また机に突っ伏した加奈に、男二人は顔を見合わせる。
どうやら本当に落ち込んでいるようだ。
書類を机に置くと、神崎は加奈とよく似た硬質の黒い髪を掻き揚げた。
幼い頃から、いつでも元気すぎるぐらいに元気な従姉妹が落ち込んでいる姿は、あまり見慣れていない。
「うーん、それはおかしいね」
吉川も、丸い大きな目を瞬きさせる。
「あいつ、今までだったら本当にテンパってたもんな。それは確かにおかしいかも」
ガタンと音をたてて、加奈が顔を上げる。
「でしょ?でしょ!?おかしいの!本当に変なの!ていうか有川にさーわーれーなーい!!」
「……なんでこう、お前にはいまいち同情できないんだろうな」
「いやいや、こんな風にしてくれてた方が落ち着くな」
いつもの胡散臭い笑みを浮かべて、神崎はゆったりと口を開いた。
「で、それはいつからなの?」
問われて、加奈は口元に指をやって思案する。
「この前の前の体育の日のに逃げられたから……、んーと、3日前?」
「4日前ねえ。それは体育の時からだったの?」
医者のような詰問口調の神崎に、加奈は考え込む。
「……う、ん。確かそう…。ああ、違う。朝に抱きつこうとして…その時はもうふりほどかれてた」
「じゃあ、朝からだったのかな」
「そう、かな」
「お前なんかしたんじゃねーの?」
頬杖をついて、幼い顔に似合わないしかめ面を浮かべる吉川。
「なんもしてないわよ!ていうかいつも通りのことしかしてないわよ!!」
「じゃあ、いつものセクハラレベルか…」
神崎が真面目な顔をして黙り込む。
加奈もそうだが、その顔は黙っていれば周りの人間が振り返るほど整っている。
切れ長の目を軽く伏せると、知的な雰囲気を漂わせ近寄りがたくすら感じた。
「朝から、てことは前日になんかあったんじゃないですか?」
なんだかんだ文句を言いながら、結局は付き合いのいい吉川が口をはさんだ。
「前日、かあ」
「前日ねえ」
髪と黒い瞳以外は共通点のない従兄妹同士が同時にぼそりと言う。
しばらくたって、神崎が思い出したように顔を上げた。
「前日といえば、兄さんの話が出た日かな?あの時も雨が降ってたから、うん、確かそうかな」
「湊の?てことは私の婚約者うんぬんの話?」
「ああ、そうですね。確かそれが4日前でした」
加奈が記憶を辿り、吉川が同意した。
「じゃあ、それが原因かな」
どこか納得いかないように首をひねる神崎。
あの日の有川は、どこにも変わった様子はなかったはず。
吉川も同じように納得いかない顔をしていた。
「あー!!!!!」
そこで唐突に加奈が声をあげた!
「何、どうしたの?」
「弁当の喰い忘れでも思い出したか?」
吉川に加奈のカップが飛ぶ。
慌ててキャッチした。
「思い出した!そうだ!あの時の有川変だった!」
「あの時?」
「湊の話をしてた時!そう、確かあの時の有川、おんなじ無表情だった!そうだあの時からだ!」
「そうだった?別に響ちゃんいつも通りだった気がするけど」
「俺もそう思います」
やはり怪訝そうな顔をして頷きあう神崎と吉川。
しかし加奈は勢いよく顔を横に振る。
「ううん、絶対あの時から!私もあの後いつも通りだったから忘れてたんだけど、あの時の有川、絶対変だった!」
それでも納得いかなそうな男二人だが、加奈は確信を持っているようだ。

あの時。
加奈の婚約者がいると判明した時。
あの時の有川の顔は、どこまでも無表情で、感情の欠片も見当たらなかった。
3日前から、加奈が有川に好きだと言った時と同じように。

それを説明すると、神崎は髪を掻く。
「んー、響ちゃん、真面目だからなあ。婚約者がいるって知って必要以上に近づくのをやめた、とか?」
「それだとしても、あいつがそんなに回りくどいことしますかね。婚約者がいて、イヤならイヤって言うんじゃないですか?」
「だよねえ…?うーん」
「でも絶対そう!湊の話から変だった!」
頭をひねって考え込む二人に、加奈は畳み掛ける。
「あれ、てことは今私が避けられてるのはもしかして叶のせい?叶があんな話をしたせい?」
ものすごく据わった目で、向かいに座っていた従兄弟を睨み付ける。
それを苦笑して受け止めて、まあまあ、と手で押さえる仕草をする。
「いやいや、まだそうだと決まったわけじゃないし」
「お前が本当にイヤになったって可能性も捨てきれないぞ」
急にテンションの上がった加奈に、いつもどおりの嫌味を言う吉川。
加奈はあたりを見回したが、もう投げるものがないことに気づき、悔しそうに唇を噛んだ。
「ありえない!有川が私を嫌いになるなんてありえない!近頃落ちそうだった!落ちかけてた!」
立ち上がり、握りこぶしで力説する。
落ちかけてた、のところは甚だ疑わしいが、とりあえず頷いておく他二名。
「で、どうするの?」
ヒートアップする向かいの従姉妹を見ながら、冷静な声で問う。
握りこぶしのまま、すぐに加奈は眉を下げた。
「……どうしよう」
頼りなさそうな声で、表情で、向かいに座っている長い付き合いの男二人見返す。
見られた方は深くため息をつく。
「いつものお前らしくねえな。気になるなら聞けばいいじゃねえか、本人に」
そう、この行動はいつもの加奈らしくなかった。
いつもの加奈だったらこんな風に不安げに自分達に悩みをもらすことはない。
考える前に、行動する。
有川にストレートに聞いていただろう。
愚痴るのではなく、協力を強制するのでなく、悩みを相談する。
加奈らしくない行動だった。
「え、あ……そうか」
思いもつかなかったと言うように呆けた顔をする加奈。
本当にその答えが浮かんでいなかったようだ。
「で、でも、本当に嫌われてたらどうしよう……?」
これまたいつもの加奈らしくない頼りない声。
話を聞いていた二人は再度同時にため息をつく。
「でも、そうしなきゃ、先にすすめないでしょ?それとも俺達が聞いとく?」
「ん、そ、それは、んー……」
正直そうして欲しいと思った。
自分で有川に向かい合うのは、怖かった。
加奈はそのまましばらく黙り込む。
じっと自分を見つめる4つの目を意識したまま、あたりに視線を漂わせた。
自分でも慣れない、迷いが浮かんでは消える。
そうして吉川が自分のお茶を口にした時、加奈は視線を元に戻した。
「だ、ダメ!やっぱりダメ!自分で聞く!」
とてもとても怖かったが、そう決めた。
たとえ自分が嫌われたのだとしても人伝に聞くよりは、自分で聞いたほうがいい。
というか人伝に聞いても絶対納得できない。
それに押上とも約束した。
有川を頼む、と。
それなら、自分らしく、当たって砕けるしかない。

「で、でもその時一緒にいてくれない?」
そう決めた加奈だが、その後に手を横にしてかわいらしく甘えてみせる。
もし最悪の事態で、ダメージを受けた時、自分がどうなるか分からない。
自分が泣くとかならともかく、有川につかみかかってしまうかもしれない。
そのためにギャラリーがいて欲しかった。
いつでもふざけた外野がいれば、加奈が取り乱すことも、暴れることもふせげるだろう。
「キモ」
お嬢様らしく可憐な仕草で甘える加奈に、そっぽをむいて漏らす吉川。
「やかましい!いろ!」
指をさして仁王立ちで命令口調。
吉川はため息をついた。それで承諾の意思とする。
神崎は苦笑のような、苦いものを食べたような、微妙に口元をゆがめる。
しかし一瞬でいつもの胡散臭い笑顔に変わった。
「なんか、加奈ちゃんも情緒面の発達が著しいねえ…。寂しいなあ」
そう小さくつぶやいた。


***



有川が来るのは週明け。
梅雨はまだ続いており、静かな雨が生徒会室を包んでいた。






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