真っ黒に塗りつぶされたその下には、きっと綺麗なものがある。 - 真っ黒なクレヨン -小学校一年生ぐらいまでは、父さんと母さんがいた。 二人とも笑っていた。 一緒におでかけして、一緒にご飯食べて、一緒に眠った。 もうよく覚えてないけど、父さんは母さんには弱くて、でも優しかった。 母さんはいつも父さんを怒るけど、でもその後はいつもおいしい料理を作ってくれた。 小学校二年生で二人があまり笑わなくなった。 喧嘩が増えた。 俺はいつも泣きながら二人の間に入った。 そうするといつも喧嘩は終わるけど、やっぱり次の日には喧嘩してしまった。 小学校三年生になる前にお父さんがいなくなった。 寂しくて泣いたけど、そうするとお母さんがごめんねって謝って哀しそうな顔をするから泣かないことにした。 それから一年、母さんと二人きりで過ごした。 母さんは忙しそうで大変そうだったけど、それは楽しかった。 俺はお皿を洗ったり、おかずを買ってきたり、掃除をしたりして母さんをお手伝いした。 母さんはお外で働いてきていつも疲れていた。 でも帰ってくると俺を抱きしめて、お手伝いありがとうって言ってくれた。 ゲームやカードなんかは買ってって言えなかったから、いつも家で絵を描いて遊んでいた。 そして俺が絵を描くと、母さんが褒めてくれた。 守は絵が上手ねって褒めてくれた。 寝る前に一緒に絵を描いてから寝たりした。 狭いアパートの部屋の中、二人でひっついて眠った。 俺はとてもとても嬉しくて、楽しかった。 父さんがいなくて寂しかったけれど、母さんがいるから我慢できた。 小学校四年になって、新しい家族が出来た。 大きな家に引っ越した。 学校が変わった。 新しい義父さんは、父さんとは違う、がっしりした体をした男らしい人だった。 野球をしていて、俺に絵を描くよりもスポーツをすることを望んだ。 同じ年の義弟は義父によく似た子供だった。 スポーツが得意で、快活で、友達も沢山いる。 義父さんと義弟が出来て、母さんが嬉しそうだった。 だから俺も本当は母さんをとられたようで少し哀しかったけど、義父さんと義弟と仲良くなろうと思った。 母さんと二人じゃなくなったのは寂しかったけど、新しい義父さんと義弟が出来たのは、俺も嬉しかったから。 「和君、今度の試合見に行くからね。五年生なのに、レギュラーになれたんでしょ?」 「えー、恥ずかしいからいいよ」 「何が恥ずかしいのよ。写真いっぱい撮っちゃうから!」 食卓では、義弟が照れくさそうにけれど自慢げに鼻を膨らませている。 運動神経のいい義弟は所属している野球チームで活躍しているようだ。 母さんもはしゃいで褒め称える。 「お父さんも行くからな」 「俺、絶対点に絡むから!」 「お前はお父さんの血をひいてるなあ。お父さんの高校時代はな」 「それもう何回も聞いたよ!」 「あなたったら」 三人が楽しそうに笑う。 俺も邪魔にならないように、わずかに頬を緩めて笑う。 笑わないと、母さんに怒られる。 楽しくないのって、言われてしまう。 守がつまらなそうにしていると、お義父さんも和君も気にするから気をつけてって言われる。 「………ごちそうさま」 会話が途切れたところを見計らって、ご飯茶碗を持って立ち上がる。 三人は特に気にせず、会話を続ける。 俺が早くいなくなった方が、会話が弾む。 最初は頑張って話に入ろうとした。 義父さんとも和樹君とも、仲良くなりたかった。 そそくさと自室に引き上げて、大事な大事な色鉛筆で絵を描く。 耕介さんにもらった色鉛筆で絵を描いている時が一番楽しい。 絵を描いて持って行った時に、耕介さんがなんて言ってくれるだろうと想像すると、ワクワクした。 耕介さんは褒めてくれてから、いつも分かりやすいアドバイスをしてくれる。 ここはもっとこの色を使ったらどうだろう。 ここはこっちを大きく描くと奥行きが出るよ。 その通りにすると、俺の絵は驚くほど上手になるのだ。 それが楽しくて仕方なかった。 絵に没頭していると、ノックもせずに扉が開いた。 「………和樹君」 背の高い義弟はにやにやと意地悪そうに笑っていた。 俺はスケッチブックを抱えて後ずさる。 そうしてしまってから気付いた。 それでは余計に義弟の興味を引くだけだ。 思った通り和樹君は楽しそうに近寄ってきた。 「お前、また絵なんて描いてんの?暗っ!!女子みてー。オカマじゃねーの」 「………」 「貸せよ、俺が綺麗にしてやるよ」 「やめて!」 スケッチブックを取り上げられそうになって、必死に守る。 それでもしつこく和樹君はスケッチブックを引っ張る。 メリメリと軋む音がして、泣きそうになる。 「綺麗にしてやるっつってるだけだろ。うるさいな」 「やめろってば!」 思い切りその手を振り払うと、パシンと大きな音がした。 その時開け放たれたドアから母さんが顔を出す。 「こら、二人とも何喧嘩してるの!」 「守と一緒に絵を描こうって言ってるのに、嫌だって言うんだ」 「こら、守!仲良くしなさいって言ってるでしょ!」 すると和樹君は母さんに見えないように楽しそうに笑った。 俺が母さんに怒られているのが、楽しくて仕方ないのだろう。 「………ごめんなさい」 俺は大人しく謝る。 前にも描いた絵をめちゃくちゃにされたことがあった。 お母さんに言ったら、和君は仲良くしたいだけでしょって言われた。 そして、絵を描くのなんてやめて、外に遊びに行きなさいって怒られた。 『いい、守。和君とは仲良くしてね。喧嘩しちゃ駄目よ。お義父さんの言うこともよく聞くのよ』 はい、母さん。 二人と、仲良くします。 「今日は随分遠くまで来ちゃったけど、大丈夫かい?」 公園で絵を描いていたおじさんと仲良くなって、もうだいぶ経つ。 おじさん、耕介さんとは初めてあった公園で週に三回ぐらい一緒に絵を描いた。 そしていつからか車で遠くまで連れて来てくれるようにもなった。 元から、一か所じゃなくて色々な場所で絵を描いて回っていたらしい。 どうしてあの公園にずっと来てくれていたのかと聞いたら、『本当は守君を連れて色々なところに行きたかったんだけど、仲良くなる前に連れまわしたら誘拐犯だろう?だから仲良くなるまで我慢してたんだ』と言っていた。 「大丈夫。三人ともご飯食べてくるから」 「………守君は一緒にいかないのかい?」 「俺いると、三人とも、つまらなそうだから」 前は母さんと一緒に和樹君を迎えに行って、食事を一緒に食べた。 けれど和樹君が嫌そうな顔をするようになったので、俺は行かないことにした。 正直、一人でご飯を食べる方が、今は楽だ。 無理矢理笑って食べるご飯は、とても疲れる。 「………」 「俺、男らしくないから、駄目なのかなあ。だからお義父さんも、和樹君も、俺のこと、嫌いなのかな。お母さんも困るのかな。野球とか、したほうがいいかなあ」 耕介さんの前で気が緩んで、つい言わないようにしていた言葉が出てしまう。 前に先生に、家ではどうなのかと聞かれて、男らしくないから怒られてしまう、どうしたらいいのかと相談したら、家でお母さんにとても怒られた。 どうやら先生が、俺は絵とか本を読むのが好きなんだから、やらせてあげてほしい、とお母さんに言ってくれたらしい。 お母さんは恥ずかしい思いをしたと怒った。 義父さんは俺のためを思って言ってくれているのに、そんな風に言うんじゃないと言われた。 「俺、駄目な奴なのかな」 「………」 耕介さんが黙ってしまったので上を見上げると、耕介さんが眉を顰めて哀しそうな顔をしていた。 そんな哀しそうな顔をさせたかった訳じゃない。 俺は慌てて話を逸らす。 「あ、ごめんなさい。ねえ、耕介さんは子供いるの?」 「いるよ。もう大人でお仕事してるけどね」 「そっかあ」 優しい優しい耕介さん。 きっとその子供は、とても幸せなんだろうな。 耕介さんと毎日一緒に絵を描いて、楽しく話しながら食事を出来るんだ。 「俺、耕介さんの子供だったらよかったな」 そうしたらきっと、とても楽しかったんだろうな。 耕介さんと毎日一緒にいれるだけで、いいのに。 「私の大切なお友達の守君」 いつか、俺と一緒にいるのはつまらなくないか、と聞いた時に、耕介さんはそう言った。 私の大切なお友達の守君。 とてもとても、嬉しい言葉。 耕介さんみたいな立派な大人の人が、俺みたいな子供を対等に、大事な友達だと言ってくれる。 それを聞くだけで俺は照れくさくてにやけてしまう。 「何?」 「私は、君と一緒に絵を描くのが楽しいよ。君の絵が大好きだ。君とお友達になれてよかった。だから君に絵をこのまま好きでいて欲しい」 耕介さんは優しく笑って、俺の頭を撫でてくれる。 そう言えば、父さんも母さんも、こんな風に頭を撫でてくれることは、なかったっけ。 こうして耕介さんに頭を撫でられるのが、大好きだ。 「あのね、俺も耕介さんが大好きだよ。耕介さんと絵を描くの、大好き」 「ありがとう。こうしてずっと一緒に絵を描けるといいね」 「………うん!」 そこで耕介さんは顔を少し引き締めて、諭すようにゆっくり話す。 頭を撫でながら、俺の目をじっと見下ろす。 「でも、家で絵を描くのが辛かったら、描かなくてもいいんだ。私と一緒の時に描けばいいからね。勿論描きたいなら描けばいい」 「うん」 「お義父さんやお母さんが怒るなら、絵なんて嫌いだって言っていいんだ」 「………嘘つくの?」 学校でもお母さんにも、嘘はついちゃいけませんと言われている。 だから俺は黙ることが多くなった。 嘘をつかないようにするなら、黙るしかない。 そして黙ると、何を考えているか分からないつまらない子だと言われるようになった。 「嘘や隠し事はいけないことだね。でもそうしないと守君が辛い思いするなら、いくらでもついてしまえばいい。私が許すよ」 けれど耕介さんはいつもとは違うちょっと意地悪そうな顔をしてそう言った。 それは初めて聞く言葉だった。 耕介さんはいつもびっくりするようなことを言う。 「私の前で、正直でいればいいから。守君がいい子なのは、私がよく知っているから」 耕介さんが頭を撫でる手が、気持ちがいい。 耕介さんの前でだけは、沢山話せた。 嘘をつかなくてすむから、話せた。 「ねえ、守君。もう我慢できなくなったら言いなさい。我慢する必要なんてないんだ。哀しくて辛くなったら、私に言いなさい」 その言葉に、泣きそうになって、俯いた。 目をぎゅっとつむって、熱くなった目を誤魔化す。 「………大丈夫だよ、耕介さん。俺、義父さんも母さんも和樹君も、大好きだから」 そう、義父さんは俺のためを想ってくれている。 母さんは俺を好きで、大切にしてくれている。 和樹君とも仲良くしたい。 仲良くできない、俺が悪いんだ。 俺が暗くて男らしくないから、いけないんだ。 だから、もっともっと頑張らなきゃ。 「………そうか」 耕介さんはぽんぽんと頭を軽く叩いてくれた。 それから殊更に明るい声を出す。 「ああ、そうだ」 そして隣のバッグをごそごそと探りだす。 俺は、今日は何が出てくるのかとワクワクして待つ。 耕介さんのバッグは魔法のバッグ。 いつも素敵なものが飛び出してくる。 「ほら、守君」 「真っ黒、何これ」 今日出てきたのは一枚の真っ黒な画用紙だった。 ざらざらして、でこぼこしている。 スケッチブックの上に乗せられると、今度は細いものを差し出してきた。 「はい」 「釘?」 「これで、この紙を削ってごらん」 何がなんだか分からず、俺はそのでこぼことした黒を釘で削る。 すると、引っ掻いた場所からは鮮やかな色が飛び出してきた。 「あ、色が出てきた!何これクレヨン!?」 「そう。下に様々な色を塗ってあるんだ。好きなように削ってごらん」 「うん!!」 黒はどうやらクレヨンで塗りたくってあるらしく、下の画用紙は水彩絵の具で彩られているらしい。 削ると出てくる華やかな色が楽しくて、俺は夢中で釘で黒を削り取る。 「黒いものに隠れていても、きっと綺麗なものは、そこにあるから」 画用紙を引っ掻く俺を、耕介さんは優しく見ていた。 俺は画用紙に視線を落として、心配そうな耕介さんが安心するように教える。 この前あった、嬉しいこと。 「あのね、水曜日、授業参観があるんだ。母さんが来てくれるって。この前もこの前も、和樹君の方に行って、来れなかったんだ。でもね、今回は義父さんが仕事休んで和樹君の方に行くんだって。だから、母さんは俺の方に来てくれるって」 お母さんが今のお義父さんと結婚する前はお仕事でこれなかった。 だから、本当に本当に、久しぶりだ。 ちょっと照れくさいが、母さんが俺のために何かをしてくれるのが、とても嬉しい。 和樹君じゃなくて俺の方に来てくれるのが、嬉しい。 「そうか。それは楽しみだね」 「うん!あのね、算数、頑張って予習していくんだ」 「うん、頑張りなさい。分からないところがあったら教えてあげる」 「ありがとう!」 水曜日は母さんにいいところを見せよう。 そしたらもしかしたら、お母さんも褒めてくれるかもしれない。 「えー、お義母さん、来てくれないの?」 「和君にはお父さんが来てくれるわよ」 水曜日の朝、今日は俺のところに見に行くと告げた母さんに、和樹君が不満を漏らした。 母さんは困ったように宥めている。 「二人とも来てくれないとやだ!俺理科の実験、すっげー頑張ってるんだから」 「でも、ね。ほら、守もね」 「来てよ!」 「………和君」 お母さんが心底困ったように哀しい顔をする。 そして、俺をちらりと見た。 「………守」 和樹君が、楽しそうに俺を見ている。 母さんが、哀しそうな顔をしている。 だったら、俺が言うべき言葉は決まっている。 「いいよ、和君の方に行きなよ」 笑って、そう言った。 そうすると母さんは心底ほっとした顔をする。 だから、これでよかったんだ。 「ごめんね。守の方がお兄ちゃんだから我慢出来るよね。途中で守の方に行くから」 「うん、待ってる」 でも、分かってた。 母さんは来ない。 義父さんと母さんは、和樹君の教室からは離れられない。 母さんは来ない。 ねえ、耕介さん。 真っ黒なクレヨンの下には、綺麗な綺麗な色があった。 だからきっといつか、俺も、綺麗な色を見えるかな。 いつかもっと頑張れば、綺麗な色が見えるようになるかな。 |