「もしかしたら下にはもっといい絵がって思っていた方が素敵だと思わないかい?」 - きっと素敵なものが -初めて連れてこられた耕介さんの家は、とてもとても大きかった。 新しい義父の二階建ての家もとても大きいと思ったが、耕介さんの家はその家が3つか4つ入りそうなぐらい大きかった。 庭も広くてここで野球が出来てしまいそうだと思った。 「ここが私のアトリエだよ」 「アトリエ?」 「絵を描く場所だよ」 そう言って通されたのは、庭の片隅にある小さな家だった。 昔遠足で行った植物園の温室みたいな屋根がついてる、古い洋館。 重くて厚い木の扉を開くと、つんと鼻をつく据えた匂いがした。 「変な匂い」 「油絵はね、絵具を油で溶いて使うんだけど、その油が変な匂いがするんだ」 その中は少し埃っぽくて、薄暗かった。 でも玄関先のサンルーフとかいう太陽の光を取りこむ屋根から差し込む光でぼんやりと明るく、なんだか不思議な空間だった。 ギシギシと言う板張りの床を歩いて中に入ると、そこには沢山のキャンバスがあって、部屋の真ん中には描きかけの絵がのったイーゼルがあった。 「あ、これ、耕介さんの絵?」 「そうだよ」 「………これなんの絵?」 その絵は俺にはなんだか判別出来なかった。 ピンクやら茶色やらがベタベタ塗ってある、不思議な絵。 前に教えてもらった、抽象画って奴だろうか。 耕介さんが楽しそうにくすくすと笑う。 「この写真だよ」 その写真には綺麗な湖と山が映っていた。 心休まるような、海外の風景。 けれど今のこのキャンバスに描かれた絵とは大違いだった。 「全然違うよ。どうしてこんな色を塗るの?変な色」 「この上から、更に絵を描くんだよ。下に色を塗っておくと、この上に絵を描いた時に、上の絵がよくくっつくんだ。そして上の絵により深みが出るんだよ」 「上に塗ったら分からなくならない?」 「確かに下の絵は見えなくなるね。けれど、見えなくても上の絵を輝かせるんだ」 「………へえ」 耕介さんはもう完成している絵を持ってきて、こんな風になるんだよって見せてくれる。 初めて間近で見る油絵はぼこぼこして、想像と全然違った。 近くで見ると、思ったよりも沢山の色が、重ねられている。 図工の教科書で見た時は、水彩画と同じようなものかと思っていた。 「昔の画家はね、キャンバスが買えないこともあったから、一度描いた絵の上に何度も何度も絵を描いたりしたんだよ。だから今も絵を削ると、下から絵が出てきたりすることもあるんだ」 「全然違う絵が出てくるの?」 「そう、有名な絵の下にも、もしかしたらもっとすごい絵が隠れているかもしれないね。でも削る訳にはいかないから、誰にも分からないんだ」 「隠れてるんだ!すごい、海賊の宝物みたいだね!」 「そうだね。まあ、最近は科学的に分かったりもするみたいだけど、なんともロマンがないね。もしかしたら下にはもっといい絵がって思っていた方が素敵だと思わないかい?」 俺は耕介さんが言っていることがよく分からなくて、曖昧に頷く。 ロマンってなんだろうなあ、と思う。 けれど耕介さんの言葉には全て同意したいので、俺は分かった振りして頷いた。 「油絵って、紙に描くんじゃないんだね。油絵って大変そう。お金かかりそう」 「はは、確かにそうかもしれない。でも、本当に描きたかったらどこにだって描けるんだ。新聞紙やチラシの裏に描いてた有名な画家だっているんだから」 「本当!?」 「ああ」 俺も昔はチラシの裏によく絵を描いていた。 ちゃんとした画家の人も同じことをしているなんて、ものすごい驚いた。 耕介さんは俺の頭を優しく撫でる。 「その人はね、絵について、『見えるものを再現するのではなくて見えるようにするのだ』って言ったんだ。とても興味深いね」 「どういう意味?」 「さあ。私にもよく分からない」 耕介さんでも、分からないことがあるのか。 聞いたらなんでも応えてくれる、頭のいい人。 俺が会った、どんな大人よりも立派で優しくて、素敵な人。 「分からないのに興味深いの?」 「分からないからこそ興味深いのさ」 また、不思議なことを言う。 耕介さんは時折俺には分からないようなことを言う。 でも、きっとそれは素敵な言葉だろうから、ちゃんと覚えておく。 耕介さんの言うことに、無駄なことなんて一つもないのだから。 俺が大人になった時、言葉の意味が分かるようになるだろうか。 耕介さんが頭を撫でながら、優しく俺を見下ろす。 「守君は、私とずっと一緒にいていいのかい?」 「うん、俺は耕介さんと一緒にいるのが、一番楽しい」 「………そうか」 「耕介さんは、俺と一緒にいるの、つまらなくない?迷惑じゃない?」 いつもいつも心配になる。 こんな立派な大人の人が、俺と一緒にいるのは、迷惑じゃないだろうか。 嫌じゃないだろうか。 つまらなくないだろうか。 けれど、耕介さんはにっこり笑っていつものように言ってくれる。 「私の大切な守君。私も守君と一緒にいるのが一番楽しいよ」 それが嬉しくて、俺は耕介さんの腰に思い切り抱きつく。 耕介さんはお線香みたいな、不思議な匂いがする。 でも、嫌な匂いじゃない。 温かくて、優しい匂い。 その時、入り口のドアがノックされた。 ガチャリと重い音を立ててドアが開き、耕介さんよりもさらに年上のおばあちゃんと言っていいような人が入ってくる。 「お二人とも、お茶が入りましたよ」 「ああ、千代さん、ありがとう。紹介しよう、私の大切なお友達の守君だ」 「はいはい、よく伺ってますよ」 給食当番の割烹着のようなものを着たその人は、入り口の横にあったテーブルにお盆を置くと俺の前まで来て目線を合わせるためにしゃがみこむ。 ちょっと怖い顔をした人だったから俺はつい耕介さんのズボンをぎゅっと握ってしまう。 それに気づいたのか、耕介さんがくすくすと笑って俺の手を握ってくれた。 「あなたが守君ですか。よろしくお願いします、守君。私はここでお手伝いをやっている千代と申します」 けれど千代と名乗った人は、目が皺で見えなくなるほどにっこりと笑った。 そうすると途端にとても優しい印象になる。 俺は慌てて頭を下げる。 「あ、えっと、黒幡、守です。よろしくお願いします」 「まあ、きちんと挨拶が出来るんですね。守君はいい子ですね」 そして耕介さんと同じように千代さんも皺皺の手で俺の頭を撫でてくれる。 なんだか、とてもいい匂いがする。 甘い、お菓子の匂いがする手だ。 「さあ、守君、おやつにしようか。千代さんの作る茶巾絞りはとてもおいしいんだよ」 「ちゃきんしぼり?」 「そうか、分からないのか」 「クッキーやケーキにした方がよかったですかねえ」 「まあ、とりあえず食べてみよう」 そして丸くて高いテーブルを三人で囲んでお茶の時間になる。 立派な洋館なのに、出てきたのは日本茶と不思議なお菓子だった。 「おいしい!何これ!」 「おいもとかぼちゃを練って、茶巾で絞るんですよ」 「茶巾?」 「ああ、今時の子はそういうことも分からないんですねえ」 千代さんはふう、とため息をつく。 何か悪いことを言ってしまったのだろうか。 「それなら、今度一緒に作ろうか」 「ああ、いいですね。お手伝いしてくれますか?」 けれど二人はすぐに微笑んで、そう言ってくれた。 だから俺はちゃきんしぼりを頬張りながら、大きく頷いた。 「うん!」 温かい家。 温かい匂い。 温かい人達。 俺の大好きな、場所。 学校では、ただひたすらに時間が経つのを待つ。 一刻も早く時間が過ぎてくれないかってことだけを考えている。 授業中は授業に集中していれば、時間は過ぎる。 休み時間はただ本を読んで過ごした。 話しかけてくれる子はいない。 この学校に転校してきた当時はみんな話しかけてくれた。 でも、どんどん減っていってしまって、今ではもう一人もいない。 それは俺が暗くてつまらない奴ってこともあるだろう。 そして、もう一つ。 「何、また図書館行くの?本当にお前暗いよな」 「マジ、オカマなんじゃね。ひょろひょろしてるし」 「なあ、オカマ言葉でしゃべれよ」 お昼休みに図書館に向かおうとする俺に、廊下に出ていた義弟が友達と一緒ににやにやと笑う。 何人かいた友達も、学校で運動神経がいい人気者の和樹が俺を嫌っているのを知り、徐々に徐々に減っていった。 それをひどいとは、思わない。 和樹を敵に回すのは、嫌だろう。 幸い暴力を振われたり、物を壊したりするような積極的ないじめはなかった。 和樹は隠れて俺を殴ったり、物を壊したりしたが。 でも、学校ではそこまでひどいことはない。 だから気にしないことにした。 俺には耕介さんがいる。 学校が終われば、俺を待っていてくれる人がいる。 俺を大事だと言ってくれる人がいる。 だから、いい。 耕介さんは言った。 学校なんてちっぽけな場所だ、と。 君の世界は今は学校と家だけだと思うかもしれないけれど、世界はもっともっと広いのだ、と。 そんなところでいい気になってる子が馬鹿なのだと。 そして世界中の写真集を見せてくれて、世界は広いと教えてくれた。 海やお花畑や山に連れて行ってくれて、世界は綺麗なんだと教えてくれた。 だから俺は知っている。 世界はとても広い。 学校なんて、とてもちっぽけ。 「………」 俺はそちらを見ないようにして、足早に通り過ぎる。 最近、なんの反応もしなくなった俺に和樹は不満そうだった。 今もつまらなそうに鼻を鳴らして、睨みつけてくる。 仲良くすることは、諦めた。 だからせめて、喧嘩はしたくない。 「ああ、そうだ」 和樹が、にやにやと意地悪そうに笑うのが横目で見えた。 その笑い方に今はもう、全身に鳥肌が立つほどのぞっとする不快感を覚える。 「あいつのおばさん、俺の親父に捨てられたくないからめっちゃ俺に媚売ってんの。ほんとバッカみてえ。俺がいじめてんのにさ、あいつ怒るんだぜ?喧嘩しちゃ駄目よって」 「マジで?」 「そうそう。あいつ可哀そうなの。俺がちょっとあのおばさんに言いつけたらさ、すっげ怒られんの。あのババア、超頭悪い。どんだけ親父に捨てられたくないんだよ」 頭が真っ白になって、それから真っ赤になって、どす黒く染まった。 これみよがしに俺の前で母を罵り、そうして大声で笑う。 人を馬鹿にするのが心底楽しそうというように、声をあげて笑う。 今までは、我慢出来ていた。 自分が何を言われようと、何をされようと、我慢した。 和樹はずっとお母さんがいなくて、だからお母さんが欲しかったんだろうな、と思った。 だから母さんを独占されてても、我慢した。 「ふ、ざけんな!!」 俺は和樹に掴みかかって、その頬を思い切り殴りつけた。 『本当にご迷惑おかけいたしました』 部屋の中から、母さんが先生に謝る声が聞こえてくる。 喧嘩はしばらくして先生達に仲裁された。 俺は最初の一発は和樹に食らわせられたけど、その後はほとんど体格の差で殴られ続けた。 自分で喧嘩を売ったくせに、負けるなんて、本当に情けない。 俺はどこまでも男らしくない。 湿布を貼ってもらったが、腫れた頬がひりひりとする。 和樹はどうやら帰ったらしい。 『あの、お母様、今回の件は、どうも和樹君の方に原因があるようなんです。周りの子たちも和樹君がひどいことを言っていた、と証言しています。前の時にも申し上げましたが、和樹君はどうも、守君をいじめているような気配があるんです。ご自宅でも気を配ってあげてくれないでしょうか』 『私は家でちゃんと見ています!和樹君はいい子です!守がまた悪いことをしたんでしょう!』 『ですが、お母様、今回の件は、守君がお母様を守ろうとしたみたいなんです。守君が一方的に殴られていますし』 『私が悪いって言うんですか!』 母さんのヒステリックな声が響く。 先生の困ったように宥める声が、聞こえる。 聞いていられなくて、部屋の前から走って逃げた。 どれくらい経っただろう。 夕日がそろそろ沈みそうな頃になって、母さんが校門に現れた。 しゃがみこんでいた俺は立ち上がって駆け寄る。 「母さん、ごめ」 パシ! 頬に衝撃が走って、気が付くと頭が横を向いていた。 湿布を貼った頬の熱さが、増している。 何が起こったのか分からなくて、ぼんやりと顔を正面に向けて見上げる。 「………」 そこには真っ赤にした目を吊り上げて、怖い顔をした人がいた。 それは前に耕介さんに見せてもらった昔の日本の絵に出てくる、鬼のようだった。 「喧嘩はするなって言ってるでしょ!どうしてあんたはいっつも言うことが聞けないの!」 唾を飛ばし、俺の髪を引っ張る人は、知らない人のようだった。 頬がジンジンと痛む。 ひっぱられた髪が、ぶちぶちと抜ける音がする。 和樹に蹴られたお腹も、じくじくと痛む。 「………ご、めん、なさい」 けれど、それ以上に、どこかがもっと、痛い。 カラカラと乾いて何かが、崩れて行く音がする。 どこかに穴が開いて血が流れて行くように、急速に体が冷えて行く。 黒く黒く、心が塗りつぶされていく気がする。 「ごめん、なさい」 心の中なんて、誰も分からない。 誰も見えない。 他人には、分からない。 だから、油絵みたいに、きっと下には別の絵が隠れてるんだ。 見えないから、分からないだけで。 お義父さんは、俺のことを想ってくれている。 だから厳しいんだ。 お母さんは俺にいい子になって、みんなと仲良くなって欲しいと思っている。 だから俺にいい子になってと言う。 和樹はきっと照れ隠しで、あんなひどいことを言ったんだ。 本当はお母さんが好きなんだ。 だから、俺にヤキモチを妬いてひどいことをするんだ。 きっとそうなんだ。 ああ、本当だ、耕介さん。 本当のことは、見えない方が、素敵だね。 だって、信じることは、まだ許されている。 |