一度失敗したら取り返せない絵に、何度も何度も誤魔化すように色を塗る。 - 色を失った日 -ヨーロッパの教会や城には沢山の壁画があって、それは何百年前からも保存されているものらしい。 色あせないその絵の数々は、今も鮮やかに俺たちに感動を伝えている。 ふかふかの絨毯が敷かれた書斎で寝っ転がりながら美術書をめくっていた俺は、難しそうな洋書を読んでいた耕介さんに尋ねる。 「どうしてこんな長い間、壁画って残ってるの?」 「昔の壁画はフレスコ画で描かれていることが多いんだけどね、フレスコ画は長い間保存しておくのにとても適した技法なんだ」 「へえ、フレスコ画、かあ」 初めて聞いた言葉を脳裏の辞書に刻み込む。 後でどんなものだか調べよう。 「そう、調べてごらん。でも、とても難しい技法なんだよ。長くても半日の間に完成させなければいけないんだ。失敗したら修正は不可能だ」 「半日!?」 「そう、すぐに乾いてしまうんだ。そうなったら終わり。一番描画に適した時間も1〜2時間で終わってしまう。とてもシビアな描法だよ」 この素晴らしい絵は、たった半日で描かれたのか。 まあ大作は分けて描いたりしたんだろうけど。 でも、昔の人の苦労を思うと、気が遠くなる思いだ。 「すごいなあ」 「そんなシビアな方法で描いてくれたからこそ、どんなに時間が経っても、私たちは素晴らしい絵を見ることが出来る。感謝しないとね」 「感謝ー」 昔の画家たちに、感謝感謝だ。 いつかヨーロッパに行って、本物を見てみたいな。 他にも色々、見てみたい絵がある。 いつか、行けるといいな。 「守君の作品が展示されるのはいつからなんだい」 「9月の初めだって。パンフレット持ってきた」 俺はもってきたバッグの中から、美術展のパンフレットを取り出す。 小さなコンクールで大げさにするのはちょっと恥ずかしいけれど、認めてもらえたのは素直に嬉しい。 「ご両親が行こうって言ってる日はいつなんだい」 「………その次の週の土曜日」 義父が珍しくご機嫌で、家族で見に行く日を決めていた。 それが少し怖くて、やっぱり、嬉しい。 どうか、少しでいいから、俺の絵を見て、よくやったなって言ってほしい。 好きなんだね、頑張ったんだね、って言ってほしい。 そう、ずっと、願っていた。 「ねえ、耕介さん」 「なんだい」 そしてそれをずっと与えてくれていた優しい人は、俺の横に今もいてくれている。 例え家族と歩み寄ろうと、俺の一番は絶対に変わらないと思う。 大好き大好きな、大切な人。 「その前に、一緒に見に行ってほしいんだけど、平気?」 「え?」 「耕介さんに一番初めに見て欲しい」 そんな大したものではないのだけれど、俺の絵は間違いなく耕介さんのものだ。 耕介さんがいなければ、出来なかったものだ。 「いや、私はその後にしよう」 「なんで?」 「初めての賞を取った守君の作品は、ご両親が始めに見る権利がある」 俺は身を起こして、耕介さんの膝に顔を埋める。 耕介さんの匂いは、落ち着くお香の匂い。 ずっとずっと俺を見守ってくれて、導いてくれて、認めてきてくれた人。 誰よりも大事な、人。 「俺が一番大事なのは、耕介さんだ。耕介さんがいなきゃ絵なんて続けられなかった。耕介さんがいなきゃ俺、死んでたかも」 「馬鹿なことを言うんじゃない」 「だって俺、絶対、壊れてた」 家でも学校でも、居場所がなかった。 息が出来なかった。 ただひたすらに、家族に怯え、誰と話すこともなく、痛みに耐えていた。 家と学校だけが世界じゃないと教えてくれたのは、耕介さんだ。 絵を続けさせてくれたのは耕介さんだ。 逃げ場所を与えてくれたのは、耕介さんだ。 「耕介さんがいてくれたから、絵を教えてくれたから、俺、平気だったんだ」 誰と知り合おうと、誰を好きになろうと、俺の中の絶対は変わらない。 大好きな大好きな、誰より大切な、俺の耕介さん。 「耕介さんに一番初めに見て欲しい」 「………分かったよ」 耕介さんは困ったように笑って、膝にある俺の頭を優しく撫でる。 俺は承諾が嬉しくて、弾んだ声が出てしまう。 「ありがとう!耕介さん、大好き!」 「私もだよ、私の大事な守君」 そのまま甘えるように耕介さんの膝に懐いたままでいる間、耕介さんは優しく頭を撫でてくれていた。 まったりとした感触に、なんだかとろとろと眠くなってきてしまう。 「もし絵を続けるなら、将来は美大に行くといい」 「絵を描く学校だよね」 「絵だけとは限らないよ。彫刻、映像、写真。様々な表現を教えてくれる学校だ」 ああ、それはとても素敵だな。 色々な人の、色々な作品に触れられるのだろうか。 俺も好きなだけ、絵に打ち込めるのかな。 まだまだ先の話だけど、まだ見ぬ美大はまるで楽園のように思える。 「行けたら、いいな」 「ああ」 「でも、行けないかな」 「守君の成績なら大丈夫」 「………うん」 でもきっと、義父は俺にはお金を出すことはないだろう。 賞を取ったことに喜んでも、芸術なんて無駄なことだと心の底では思っているだろう。 何より、例えいくら歩み寄ったとしても、中学を卒業したら出て行こうと思っている。 これ以上乞食と言われるのは、嫌だった。 大学に行くには、どれくらいお金がかかるのだろう。 中卒でお金を稼ぎながら大学に行く資格を取って、受験勉強して、学費を稼いで。 想像しただけで眩暈がしそうだ。 でも、出来るなら、やってみたいな。 飲み込んだ言葉を察したのか、耕介さんが優しく先を続ける。 「私が援助するよ」 「駄目だよ、そんなの」 いくら耕介さんでも、他人だ。 今でさえ、甘え過ぎるほど甘えているのだ。 そこまでしてもらえる権利はない。 「私は画家になりたくてなれなかったからね。よかったら私の夢を叶えてくれないか」 けれど耕介さんは優しく諭すように言う。 俺の頭を、ゆっくりとゆっくりと撫でる。 「勿論他にやりたいことが出来たらその夢を応援する。まだまだ将来を沢山持っている守君の夢を応援させてほしい。私に未来を見せて欲しいんだ」 耕介さんは芸術に携わりたかったけど、家を継がなきゃいけなくて駄目だったと前に言っていた。 例えこれが俺に対する優しさだとしても、それでもその言葉は嬉しい。 本当に甘えそうになってしまう。 熱くなる目頭を、ぎゅっと目をつぶることで誤魔化した。 「俺も、画家、なんて、言わないけど、なんか絵に携わる、仕事につけると、いいな」 「そうか。だったら私は全力で応援しよう」 そして一生、耕介さんの隣にいるんだ。 それは、なんて幸せなことなんだろう。 「な、にしてんだよ」 部屋に入ると、中には和樹がいた。 その惨状に目を疑う。 服やノートが引きちぎられ、本棚は倒され、何もかもが踏み荒らされている。 別に、それはいい。 和樹にものを壊されるのなんて、慣れている。 元から何をされてもいいような私物しか、置かないようにしていた。 だから俺の部屋にはものは酷く少ない。 「あ………」 ただ、今、和樹が引きちぎっているそれだけは、駄目だ。 それは、見つからないようにクローゼットの奥底にしまっておいた、色鉛筆とスケッチブック。 耕介さんに初めてもらった、色鉛筆と、スケッチブック。 二人で描いた、大切な思い出の絵。 「はな、せ!!」 それを見て、頭に血が上った。 それだけは許せなかった。 母に怒られても殴られてもいい。 でも、それだけは、許せなかった。 「離せ!離せよ!!」 俺は和樹に飛びついて、その手からスケッチブックをひっぱる。 それは、もう何枚もズタズタにされていた。 俺の大切な、温かい思い出が、めちゃくちゃにされていく。 「離せ!」 その頬を殴り飛ばすと、ようやく手を離す。 俺は急いでそれを和樹の手から守るように後ろに置く。 「生意気なんだよ、オカマの乞食が!馬鹿のくせに!」 和樹が蹴りをいれてくれるが、今日は我慢出来なかった。 俺も蹴り返して、今までため込んできたものを、出してしまう。 「ふざけんな!てめーの出来が悪いの、俺のせいにしてんじゃねーよ!馬鹿はお前だろ!お前が野球下手なのも、俺のせいじゃねーんだよ!」 「っ!歯向かってんじゃねーよ、下僕のくせに!!」 和樹は、みるみるうちに顔を真っ赤にした。 髪を引っ張られ、顔を殴られる。 痛みに目の前が、チカチカする。 元々体格差では完全に負けている。 いつも殴られているせいで、いつだって体はぼろぼろだ。 でも、今日は意地でも何発か、返してやる。 それがまた苛立つようで、和樹は俺に馬乗りになってムキになって殴ってきた。 「何、やめて、二人とも!!やめなさい!!」 「何しているんだ、二人とも!」 騒ぎを聞きつけた、義父と母が、二階に上ってきた。 義父が、俺の上から和樹をどかす。 「………」 いつもだったら俺が謝った。 何をされても、俺が謝った。 けれど、今日は、謝りたくなかった。 どうしても、謝りたくなかった。 ボロボロになったスケッチブック。 あれだけは、許せない。 「俺の財布がなくなったから聞きに来たらこいつが暴れたんだよ」 「………は?」 唐突に意味の分からないことを言われて、思わず間抜けな声が出てしまう。 何を言っているんだ、こいつは。 和樹はそれから俺の勉強机の上を指さす。 「そしたら、ここにあった」 そこには確かに和樹の財布がおいてあった。 誕生日に義父に強請って買ってもらった、ブランドものの財布。 俺に見せつけるように自慢していたのを、よく覚えている。 「………」 ああ、そういうことか。 馬鹿馬鹿しい。 どこまで幼稚なんだ、こいつは。 思わず、笑いだしそうになってしまう。 馬鹿すぎるにもほどがある。 「ねえ、お父さん、お義母さん、ごめんね、騒いで。守を怒らないで。絵を描くのってお金がかかるんだろ?俺、気にしてないから」 いつも義父と母を罵っている声とは違って、猫なで声で二人に擦りよる。 吐き気が、する。 俺を陥れるためだったらなんでも出来るこいつが、いっそ哀れにすら思える。 「俺が野球下手って言われたことも、頭悪いって言われたことも、気にしてないから」 その言葉に、義父と母は顔を揃ってしかめた。 義父は、和樹の野球の才能が自分譲りだと自慢している。 母は、和樹の受験の失敗が自分のせいだと責められ、責任を感じている。 「ね、お義母さん、ごめんね」 甘えるように言った和樹の言葉に、母が動いた。 パシ! 室内に乾いた音が響く。 「どうして、こんなことしたの」 頬に衝撃が走って、ジンジンと熱を持つ。 けれど、もう、驚きはなかった。 ああ、そうか、と思っただけだ。 「和君に謝りなさい!」 「………」 「謝りなさい!守!人のお金に手を出すなんて最低よ!」 義父は止めない。 和樹はこっそりとほくそえんでいる。 馬鹿馬鹿しい。 なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。 「ごめん、なさい」 この中に俺が本当に和樹の財布を盗ったなんて思っている人間は誰もいない。 ただ、俺が謝ることによって丸く収まる。 だから俺にその役目を望む。 ただ、それだけだ。 いっそ本当に俺が盗ったと信じているなら、それでよかった。 でも、誰もそんなことは信じていない。 和樹が全て悪いと、誰もが知っている。 ただ、俺が謝れば、それで済む。 だから、それを望んでいるだけ。 そして俺は、その役割を、果たすだけ。 「ごめんなさい」 ねえ、母さん。 母さんが大変だってことは、分かってるんだ。 女で一人で息子を育てていく大変さ。 ようやく手に入れた安住の地を二度と失いたくないっていう恐怖と焦燥。 だから必死に義父さんと和樹に、気に入られようとした。 それは、分かってるんだ。 俺を引き取らなきゃよかった。 父さんに押し付けておけばよかった。 きっと何度もそう思ったんだろうね。 でも、母さんは俺を引き取ってくれた。 俺をそれでも捨てなかった。 だから、俺も母さんのためならなんだってしようと思った。 でも、自分が悪くないのに謝るたびに、心が一つ死んでいく気がした。 大切なものを壊される度に、目の前が暗くなっていく気がした。 俺が傷ついているってことに、少しでいいから、気付いて欲しいって思うのは、贅沢だったのかな。 「あんたが、目立つようなことするからいけないのよ。せっかくうまくやっていたのに」 吐き捨てるように、母さんが言う。 それに、大声で笑いたくなってしまった。 ああ、おかしいね。 ごめんね、母さん。 俺が贅沢だった。 俺が馬鹿だった。 ごめんなさい、お母さん、あなたの平穏な生活を奪ってしまって。 俺が馬鹿でした。 何度裏切られても、諦めきれなかった。 信じていた。 それでも、信じていた。 俺たちは家族になれるって、最後のところで信じていた。 でも、なんだ。 俺は、最初から人間扱いですらなかったんだ。 俺は、失敗したフレスコ画の上から、それでも絵具をぬりたくって、誤魔化そうとしていた。 二度と取り返しはつかないのに。 失敗したフレスコ画は、もう描き直せない。 母が望んでいるのは、俺がこの家のゴミ箱になること。 和樹のストレス解消になること。 一生、みじめでいること。 俺が幸せにならないこと。 皆の不満のはけ口たる家畜でいること。 俺が情けなくてみじめでいるなら、和樹は心の平穏が保たれる。 そうしたら和樹は母に優しくする。 そうしたら義父も俺と比べて出来のいい実の息子を褒め称える。 そうしたら三人は仲良く幸せでいれる。 俺っていうサンドバックがいれば、三人はとっても幸せになれるんだ。 それはなんて素敵なことだろう。 俺が皆に認められたくてやった全てのことは無駄だった。 俺が何かすることが、この人達にとっては全て害だった。 俺の存在全てが悪だった 俺の人格なんていらない。 俺の努力なんていらない。 ただ俺は惨めな子供でいればいい。 俺は不幸でいればいい。 そうしたら、この人達は幸せになれる。 心が黒く黒く染まっていく。 世界が暗闇に堕ちて行く。 耕介さん、ごめんなさい。 耕介さんの夢を叶えられそうにない。 世界が真っ黒なんだ。 もう、何を描いたらいいのか、分からない。 |