真っ暗で何も見えない。 - 真っ暗 -「親に捨てられるとか、本当にみじめだよな。お前の親父ってどうしてんの?こんな目に会ってんのに助けてもらえないの?うわ、可哀そう。お前生きてる価値あるの?」 親公認のサンドバックと化した俺に、和樹の暴力は徐々にエスカレートしている。 前は顔は殴られなかったが、夏休みで外に出る必要はないからか、顔も殴られるようになった。 今日も罵りながら、俺を殴って蹴って、嗤っている。 髪を切られ、煙草を押し付けられ、水をかけられる。 その顔は狂気に歪んで、こいつ自身もどこで止まればいいのか分からなくなっているのが分かった。 「お前みたいな可哀そうな奴、見たことないわ。あのババア、最低だな」 母さんは俺が殴られているのを知っている。 義父さんも俺が殴られているのを知っている。 というか、今の俺を見れば、誰だってすぐに分かる。 いや、ずっと前から知っていた。 知っていて、見ないふりをしていた。 そうしたら、自分達が攻撃される機会が減るから。 「………はは」 「何笑ってんだよ!」 そしてまたお腹を蹴り上がられて、空っぽの胃から胃液がこみ上げる。 口の中が腫れ上がり、胃が痛んで、ずっとメシが食えていない。 食っても吐いてしまうんだが。 ああ、このままだったら、俺死ぬのかな、とぼんやり思う。 和樹の暴力は、もう歯止めが効かない状態だ。 まだ骨が折れたり、切られたりするような重症はおってないけど、時間な問題の気がする。 そのうち刃物も持ち出すんじゃないだろうか。 両親は止めない。 俺がサンドバックになって、ストレス解消になっていれば、家の中が平和だからだ。 「お前みたいなの、いらないんだよ!」 可哀そうな和樹。 ある意味こいつも、犠牲者なんだろうな。 しつけが出来ないなら親になんてなるなよ、あの馬鹿親ども。 まあ、こいつに同情なんて、死んでも出来ないけど。 俺を殺したら、せいぜい犯罪者になってくれ。 ああ、それでも少年法で守られちゃうのか、残念だ。 でも、いっそ俺が死んだらこの家はめちゃくちゃになるのかな。 それなら、楽しいかもしれない。 ああ、でも耕介さん。 耕介さんに会いたいな。 死ぬ前に、耕介さんに会いたい。 でももう、絵が描けないんだ耕介さん。 あんなに描きたいものがあったのに、今はもう何も浮かばない。 どんな色を塗ったらいいのか、分からない。 色が見えないんだ。 だからもう、耕介さんに会えない。 ごめんなさい、耕介さん。 耕介さんの夢、叶えられなかった。 家に誰もいなかったから、和樹に言われてコンビニに買い物に出た。 顔が腫れていてパンパンな俺を、周りの人はじろじろと見ていた。 誰か、警察にでも、連絡してくれないかな。 誰か。 誰でもいい。 誰か、ここから連れ出して。 誰かなんて、いないんだけど。 一歩歩くたびに体中に激痛が走って、遅くなってしまった。 熱もあるっぽいな。 遅くなったことに、また殴られるのだろうか。 手当てしても手当てしても増やされる怪我に、癒える暇はない。 これ、学校始まったら、義父さんと母さんはどうするつもりなんだろう。 どう見ても、虐待かなんかだけど。 ああ、それより俺、新学期まで持つのかな。 でもまだ歩けることに安心した。 まだ、歩ける。 まだ、どこへでも行ける。 まだ、逃げようと思えば、逃げられる。 今なら、逃げられるんだ。 逃げようか。 でも、どこに。 俺には、どこにも行く場所がない。 「守君!!」 急に名前を呼ばれて、顔を上げる。 そこには愛車から飛び出してくる大好きな人の姿があった。 一瞬夢かと思った。 それとももう俺は実は死んでいて、ここは天国なのかと思った。 「こうす、け、さん?」 「守君!」 けれど腕を掴まれて痛みが走り、これが現実なんだと知る。 耕介さんが泣きそうな顔で俺を見ている。 「なんでここに?」 「君がずっと来ないから心配になって。それよりなんだいこの怪我は!」 そっと頬を労わるように撫でられる。 そして肩を抑えられて、痛みが走って反射的に呻いてしまう。 「痛っ」 「守君?………体、どうしたんだ。この怪我、は」 耕介さんが俺の服の隙間から痣が見えたのだろう、さっと顔を強張らせる。 それよりも、俺は耕介さんに言わなくちゃいけないことがある。 「耕介さん、ごめんなさい」 「守君?」 「ごめんなさい、ごめんなさい、耕介さん。ごめんなさい」 「なんで謝るんだい?どうしたんだ?」 心配そうに耕介さんが、少し苛立ったように早口になる。 それが責められているようで、俺は、余計に苦しくなる。 誰よりも大切な、何よりも大事な人を、俺は裏切った。 「スケッチブック、ぐちゃぐちゃになっちゃった。俺、もう絵、描けないよ。ごめんなさい」 「守君?」 「ごめんなさい」 「………」 耕介さんは、しばらく黙り込んでから、何かに耐えるように深く深くため息をついた。 そして、俺の背を痛くないようにそっと押し、車に促す。 「とにかく車に乗りなさい」 「でももう、俺、耕介さんと一緒に、絵を描けない」 「いいから乗りなさい!」 初めて聞いた耕介さんの、怒鳴り声。 耕介さんは眉を吊り上げて、怖い顔をしていた。 それに怯んで、俺は促されるまま助手席に乗り込む。 「いいかい、守君。君は何も悪くない。君が謝る必要なんて、全くないんだ」 運転席から耕介さんの優しい声が聞こえる。 車の中は、耕介さんの優しい匂いがする。 もう、大丈夫だ。 そう思った瞬間、俺は気を失うように眠りについた。 「………だな」 誰かの声が、する。 低い、大人の男の人の声。 でも耕介さんでも義父さんの声でもない。 俺は体を起こすと、真っ暗な部屋には窓から月明かりが差しこんでいる。 もう、夜らしい。 ふかふかのベッドは、自分のものではない。 周りの立派な調度も、自室にあるものではない。 「…じゃない………」 「………するから」 声はまだ聞こえてくる。 隣の部屋に人がいるようだ。 知らない男の人の声と、もう一人は、大事な大事な人の声。 「こう、すけさん」 体を起こすと、ギシギシと軋んで痛みが走った。 けれどなんだか朝よりずっと楽だった。 体を見下ろすと、自分のものではない手当てが施されていた。 着ているものも、違う。 耕介さんだろうか。 そういえば、そうだ。 コンビニの帰りに、耕介さんにあったのだ。 痛む体を騙し騙し動かし、なんとかドアまで辿りつく。 小さくドアを開いて、隣の部屋を伺うと、二人の声がクリアに聞こえてきた。 ソファに影になっていて、耕介さんと話しているのがどんな人だかは分からない。 どうやら二人話しているのは、自分のことだと言うのは分かった。 「ひどい怪我だったな」 「………あんな、火傷まで」 「早いところ家から引き離さないと危険だろうな」 「すぐにでもやってくれ」 「分かった分かった」 いつになく苛立ったような耕介さんの声。 いつも穏やかで優しくゆっくり耕介さんとは思えない。 相手の人は困ったように笑って宥めている。 「前から頼まれてた通り、小学校の方とか、近所の証言は取ってある。学校の方は児童相談所にも連絡していたようなんだが、本人が否定したらしい。どうして、ああいう子供ってのはあんなにも健気なんだろうなあ」 「あの子は、本当に優しい子だから」 「近所でも、三人で出かけたり旅行行くのは見かけるのに、一人家に残ってるあの子を心配していたそうだ。馬鹿息子が殴っているのを見た人もいるそうだしな」 ドンッと何かを叩きつけるような音がして、驚いて飛び上がる。 ドアが少しキイと音を立てて気付かれると思ったが、それは耕介さんの悲痛な声で打ち消された。 「私は、馬鹿だ………っ」 「仕方ない。ここまでひどくなったのはここ最近のようだしな。中学校の方は楽しそうに過ごしていたらしいし」 「けれど、暴力は恒常的に続けられていたようだ。どうしてもっと早く気付けなかったんだろう」 それは、だって、俺が耕介さんに気付かれたくなかったからだ。 そんな風にあなたを心配させたかった訳じゃない。 「父親の方は」 「新しい家庭があるから引き取りたくないってさ。なんとも似合いの夫婦だな。あ、元夫婦か」 それはきっと、俺の父さんのことだろう。 もう5年は会っていない父親のことは、俺はほとんど覚えていない。 だから引き取りたくないと言われても、特に感慨は沸かなかった。 「なら、私があの子を引き取るのを邪魔する人間はいないな」 「あんたのそんな怖い顔、久々に見たな」 くっくと、男の人は楽しそうに笑っている。 耕介さんが、怖い顔なんて、するのだろうか。 いつも優しく笑っている人なのに。 「医者の診断書はとったんだろ?」 「ああ、勿論だ」 「じゃあ、後は任せろ。俺が話をつける。大丈夫だ、あの両親はちょっと脅せばなんとかなるさ。大事にしたくないだろうしな」 「………頼む」 「じゃあ、さっさと行ってくるわ」 ガサガサと部屋の中で誰かが動く音がする。 帰るのかなと思っていたら、いきなりドアが開かれた。 部屋の中の明りが目に飛び込んできて、眩しくて目を閉じる。 慌てて開くと、そこには背の高いがっしりとした体つきの男性が立っていた。 耕介さんよりも幾分若い。 ちょっと怖い、なんだかヤクザみたいな感じを受ける人だ。 「あ………」 俺が戸惑って立ちすくんでいると、男の人はにやりと笑った。 笑っても何かを企んでいるかのように見える。 「こんにちは」 「こんに、ちは」 慌てて頭を下げると、ぽんぽんと大きな手が俺の頭を軽く叩く。 そして耕介さんに聞かれないようにか、耳元でそっと囁かれた。 「あのな、あのおっさんは君のことをすごく心配している。黙っているっていうのは心配させないってことじゃないんだぜ?」 「あ」 「たまには助けてって言ってくれた方が、相手を想うってことなんだ。君は耕介が困っていたら、助けてあげたくないか?」 それだけ言うと、男の人はもう一度俺の頭をポンと叩く。 俺が見ていたことに、気付いていたのか。 「じゃあな」 そして、ゆったりとした肉食獣を思わせる凛々しさと優雅さで廊下への扉から出ていった。 それから奥のソファに座っていた耕介さんが駆け寄ってくる。 「守君!!」 耕介さんは見たこともない泣きそうな顔をしていた。 そして俺の頬を痛まないようにそっと撫でる。 「大丈夫なのか?痛くないかい?無理はしないで、まだ寝ていなさい」 「あ、の」 「ごめんね、ごめん、どうして気付かなかったんだろう。ごめんね」 「ごめん、なさい」 謝ると、耕介さんはきゅっと眉をつりあげた。 少し怒ったように声を強くする。 「どうして君が謝る必要があるんだ。謝るべきは私だろう」 「俺、絵、描こうとしたんだ。でも、描けないんだ。何も描けないんだ。何を描いたらいいのか、分からないんだ。ごめん、俺、もう、絵が描けない」 家にいる間、何度か絵を描こうとしてみた。 それでも何も浮かんでこなかった。 今までは描きたいものがいっぱいあって、描いても描いても終わらないぐらいだったのに。 それなのに、今はもう、何を描いたらいいのか分からない。 「だから、俺、耕介さんと一緒にいられないよ」 一緒に絵を描く時間が、一番好きだった。 耕介さんのアトリエで、書斎で、絵を描いて、絵の話をする時間が、宝物のようだった。 ぎゅっと、少し乾いた手が俺の手を握る。 温かい手の感触に涙が出そうになってくる。 「なんでそんなこと言うんだ。君は私のことが嫌いかい?絵を描く時しか一緒にいたくないのか?」 「そんなことない!そんなこと、ないけど、でも………」 耕介さんとは、何があっても一緒にいたい。 一緒にいたかった。 でも、もう一緒にいられない。 俺は、耕介さんを裏切った。 「もう、俺、耕介さんの夢、叶えられない」 画家になりたかった、耕介さん。 俺も、画家なんて言わないから、せめて絵に携わる仕事をしたかった。 耕介さんの夢を叶えたかった。 でももう、絵は描けない。 何を描いたらいいのか、分からない。 「馬鹿だな。本当に君は馬鹿だ」 「こうすけ、さん」 馬鹿だと言われて、心がぎゅっと竦み上がる。 しかし勿論優しい人は俺を罵ったりはせず、その代わりに優しい抱擁をくれる。 傷に触らないようにそっと頭を撫でて、にっこりと笑う。 「私の大切な守君。私は君が傍にいてくれて、君が伸び伸びと生きていてくれれば、それでいいんだ。君が笑っていてくれればそれでいいんだ」 そしていつものように、大切な守君と言ってくれる。 もう、絵は描けない俺に、大切だと言ってくれる。 耕介さんの夢を叶えられない俺を大切だと言う。 「こうすけ、さん」 耕介さんは俺を見下ろして、視線を合わせた。 出会った時はもっともっと背の高い人に見えたけど、すっかり近づいた視線。 けれど、変わらず大きい人。 「ねえ、守君、お願いがあるんだけど聞いてくれないか?」 「………何?」 耕介さんが俺の両手をぎゅっと包み込んで握る。 「私と一緒に暮らしてくれないか?」 「え」 何を言われたか分からなくて、ぽかんと口が開いてしまう。 耕介さんの目は、冗談を言っているようには見えない。 「本当は君が辛いって言うまで見守ろうと思っていたんだ。でももうそんなもの待っていられない。君は賢い子だから限界が見極められると思っていた。でも違う。賢くて優しい子だからこそ限界以上に我慢してしまう。もう無理なのに、それ以上に頑張ってしまう」 そういう、訳じゃない。 ただ俺にはあそこしか帰る場所がなかった。 だから、我慢していただけだ。 一人で逃げ出す勇気もなかった。 何よりも母から離れる、勇気がなかった。 まだ母が俺を愛してくれると、信じていたかった。 「それに気付けなかった私が愚かだった。どうか許してほしい」 「許す、なんて」 「それとも私となんか暮らしたくないかい?」 どこか拗ねたような言葉に、思い切り頭を横に振る。 そんなことがある訳がない。 「そんな訳ない!俺、ずっと、耕介さんとずっと一緒にいれたら、いいなって、でも」 それが、夢だった。 ずっと、耕介さんの子供だったらなって、何回も思った。 耕介さんの傍で、千代さんと一緒にずっと一緒にいられたら、どんなに幸せだろうと、思っていた。 大人になったら、頑張って耕介さんの隣にいられるようにしようって、思っていた。 「でも、俺、まだ中学生だし、お金、ないし、俺、帰るところ、あそこ、だけだから」 「もう絶対にあそこには返さない。君が帰りたいって言っても、絶対に、許さない」 ぴしゃりと切り捨てるように耕介さんは言った。 初めて、俺の意志を無視するようなことを言う。 その顔は珍しく無表情で、どこか怒っているようで、知らない男の人のようだった。 「こうす、けさん」 「私は君に頼ってもらえないような、駄目な男だろうか」 けれど、その強い言葉は、全然怖くない。 胸から、熱いものが、こみあげてくる。 「………こうす、けさん」 もう、我慢が出来なかった。 もう、無理だった。 ずっと胸の奥底に閉まって、見ないようにして、目を瞑ってきたものが、浮かびあがってくる。 苦しくて、息が出来なくなる。 「俺、俺ね」 「うん」 「俺、嫌だった」 「うん」 一度、言ってしまったら、もう止められなかった。 言葉が、涙と共に後から後から溢れてくる。 ずっとずっと、本当は、耕介さんに聞いてもらいたかった。 言いたかった。 「俺、俺が悪くないのに、謝るの、嫌だった。母さんが、俺が殴られてるの見てるのに、目を逸らすの、嫌だった、嫌だった!義父さんが俺が絵を描くのを反対するのが、嫌だった!和樹に謝るの嫌だった!和樹が俺のものを壊すの、嫌だった!オカマって言われるのも、母さんのことけなすのも、嫌だった!」 本当は嫌だった。 仕方ないんだなんて知った顔して言っていたけど、嫌で嫌でたまらなかった。 ごめんなさいって言うたびに、心のどこかが壊れて行く気がした。 どんどんどんどん、指先から腐っていく気がした。 「俺、財布なんて盗ってない!俺、悪いことしてない!してない、してないよ!俺、あいつらのサンドバックじゃない!あいつらの家畜じゃない!」 ぼろぼろと、情けなく涙が溢れてくる。 でももう、我慢はしない。 もう一方的に罵られるのは、嫌だ。 我慢するのは嫌だ。 本当はずっとずっと、嫌だった。 そうだ、嫌だった。 家族が、嫌で仕方なかった。 「嫌いだ!大っ嫌いだ!あいつら、大っ嫌いだ!」 「うん」 「もう、痛いのは嫌だ!謝るのは嫌だ!罵られるのも嫌だ!」 「うん………っ」 耕介さんの手が、俺の頭をそっと引き寄せる。 俺は痛みも忘れて耕介さんの胸に顔を埋めて、その背中にしがみつく。 温かい、少し早くなった鼓動を感じる。 「耕介さん耕介さん耕介さんっ」 「よく頑張ったね。頑張った。もういい。もう、頑張らなくていいから。これ以上頑張らなくて、いいから。君は十分すぎるほど、頑張った」 「こうすけ、さん」 もういいだろうか。 そうだ、もうあの人達には必要とされていない。 いや、違う、サンドバックとしては必要にされている。 けれど、もう俺は、あの人達の道具には、なりたくない。 俺は、ずっと、耕介さんといたい。 言っても、いいだろうか。 「もう………」 「うん」 どうにもならないと思っていた。 どうせ、中学生の俺には、どうにもできないと思っていた。 母さんを傷つけたくなかった。 母さんのために我慢してきた。 いや、違う。 母さんのせいにして、俺も痛みを感じるのを回避していたのだろうか。 帰る家を失いたくなかったのだろうか。 そうかもしれない。 もっと抵抗すればよかったのかもしれない。 我慢なんてしなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。 でも、もう。 もう、駄目だ。 「もう、あそこに、かえりたく、ない!」 もう、嫌だ。 嫌だ嫌だ嫌だ。 痛いのも怖いのも哀しいのも嫌だ。 「たすけて………っ」 耕介さんが、俺の背中を強く抱きしめる。 痣だらけの体は痛んだけど、それでもその温かさと頼もしさに、涙が止まらなくなる。 俺は押し付けるように顔を耕介さんの胸に埋める。 もう、この手を離したくない。 ここから、離れたくない。 「当たり前だよ。絶対に君をあそこに帰さない。何があろうと帰す訳がない。いや、君が帰るのは、ここだ。君が帰る場所は、私の家だ」 胸がいっぱいになって、苦しくて、息が出来ない。 安堵から、体中から力が抜けて行く気がする。 けれど耕介さんから離れたくなくて、俺はただその体にしがみつく。 「私の大切な守君」 「………耕介さん」 優しい優しい耕介さんの声が、俺の耳元で響く。 ずっとずっと言いたかった。 助けてって言いたかった。 でも、怖かった。 やっぱり、耕介さんは他人だ。 結局どうなるものでもないって、思っていた。 どうにかしてくれるものではないと思っていた。 それに耕介さんに面倒だって思われたくなかった。 呆れられたくなかった。 この手を失いたくなかった。 「もっと早く助けてって言ってほしかったな。君をもっと早くに助けたかった」 「ごめん、なさい」 俺は耕介さんを侮っていた。 耕介さんを馬鹿にしていた。 この人は、こんなに、俺を大事にしていてくれた。 「もう絶対に、君を誰にも傷つけさせない」 耕介さんはそう言って、更に強く抱きしめてくれた。 俺はただひたすら、耕介さんの胸で泣き続けた。 |