黒を追及した画家は、新しい命の誕生に、その世界を色で充ち溢れさせた。



- そしていつか色が溢れる日を -





「ただいま」

広い家は玄関から叫んでも中々声が届かない。
だから俺はもう一回キッチンの前で、帰宅の挨拶をする。
中では老年の女性が割烹着を着てお茶の用意をしていた。

「ただいま、千代さん」
「おかえりなさい。守さん」

昔は守君と俺を呼んでいた千代さんは、高校に入学した時から守さんと呼ぶようになった。
大人扱いされているようで、それは俺の自尊心をくすぐった。

「耕介さんはいますか?」
「書斎にいらっしゃいますよ」
「ありがとうございます。後で夕飯の準備手伝います」
「お願いしますね。あ、今度の休日は掃除の練習をしますから、そのつもりで」
「………」
「これからは全部一人でやらなければいけないんですからね」

その言葉には返事をせずに、俺はそそくさとキッチンから逃げ出した。
千代さんはかなりなスパルタだ。
母性溢れる女性は、優しいけれど甘やかしてはくれない。
小さい頃はそれでも手加減してくれたが、今はもう本当に花嫁教育のように一から叩き込まれる。

でも、それはいい。
それはいいんだ。
千代さんが教えてくれるものは全て今後に役立つことばかり。
教えてくれるのは、とてもありがたい。
でも、その理由を、考えるのが嫌だった。

「ただいま、耕介さん」
「おかえり、守君」

書斎の扉を開けると、誰よりも大好きな人は画集を見ながらゆったりとコーヒーを飲んでいた。
一緒に暮らし始めてもうだいぶ経つのに、にっこりと笑って俺を出迎えてくれるのを見ると、今でも嬉しくなってしまう。
そんな風にくつろぐ耕介さんは俺がこれまで見てきたどんな人よりも大人の貫録を感じて、かっこいい。
俺は書斎に入り込み、耕介さんの傍らに立つ。

「ねえ、耕介さん、お願いがあるんだけど」
「どうしたんだい。珍しいね、君がお願いなんて」

耕介さんが優しい目で俺を見上げる。
出会った頃より随分白髪が増えたけれど、それでもどこまでも大きい、俺の大切な人。
俺はそのやや茶色い目を見て、言った。

「セックスしよ」

ぶはっ。
耕介さんがコーヒーを拭きだした。
そしてゴホゴホと咳き込み始める。

「大丈夫?」

その背中をさすって、画集が汚れないように耕介さんの膝から取る。
耕介さんはハンカチで口元を拭いながら、目を白黒させながら聞いてくる。

「き、君は一体何を」
「駄目?」
「駄目とかそういう問題じゃなくて」
「無理?男は嫌?勃たない?まだ勃つよね?」
「守君!」

厳しい声で名前を呼ばれて、言葉を飲み込む。
耕介さんは一旦大きくため息をつくと、自分の足元を指さす。

「ちょっとそこに座りなさい」
「はい」

俺は大人しくふかふかの絨毯に正坐して座る。
耕介さんは頭をしばらく抱えていたが、厳しい顔をして聞いてきた。

「一体なんで、いきなりそういうことを言い出したのかな」
「俺の若い体にメロメロになれば、耕介さん、俺を手放せなくなるかなって」
「………あのね」

そこで大好きな人は心底疲れた顔をした。
駄目だったのだろうか。
結構いい考えだと思ったのだが。
耕介さん、やっぱり男は駄目だったのかな。
俺、女だったらよかったかな。
そしたら耕介さんは恋人にしてくれただろうか。

「君にそう言うことを吹き込むのは新堂君だね」
「うん」

耕介さんが会社経営をしていた頃からの古い知り合いの新堂さんは、俺の相談相手でもある。
俺の身辺の整理を全てしてくれた、頼れる弁護士さん。
見た目ヤクザっぽいし、耕介さんが俺を引き取る時とか、かなり強引な手段で両親を丸めこんだみたいだし、胡散臭さがかなり漂う。
けれど、とても敏腕で、そしてとても優しい、いい人だ。

「で、どうしていきなり私をメロメロにしたくなったのかな」

耕介さんが頭痛をこらえるように頭を抑える。
耕介さんよりもだいぶ年下の新堂さんに、耕介さんは結構弱い。

「だって耕介さん、俺を捨てようとするから」
「捨てるって、そういう誤解を招くような言い方はやめなさい」
「だって、これ、なに」

我ながら拗ねた声だなって思う。
耕介さんの前では、いつだって子供のようになってしまう。
俺の部屋にこれみよがしに置いてあった、何冊かのパンフレットを取り出す。

「予備校のパンフレットだよ」
「俺、就職するから、予備校とかいかない」
「大学に行きなさい」

耕介さんは、いつもとは違う厳しい声で命令する。
諭すのではなく、命令だ。

「私の養い子なら、大学ぐらいは行きなさい」

いつもは優しい耕介さんだが、ここぞと言う時は厳しい。
そして、頑固で譲らない。

「………俺、馬鹿だから大学行けない」
「じゃあ、今すぐ予備校に行かせよう。まだ二年生だ。十分間に合う。バイトは辞めさせる。これは命令だ」

俺は慌てて首を横に振る。
バイトをやめたくはない。
生活費から学費から、何もかも世話になっているのだ。
これ以上お小遣いなんて貰いたくはない。
俺は必死で言い訳を考える。

「お、俺、やりたい仕事があるんだ!」
「なんだい?」
「えっと」

そんなの、考えてない。
三年になったら就職活動を始めて、入れてくれる所に入ろうって思っていた。
大学に行くにも、予備校に行くにもお金がかかる。
これ以上、耕介さんの世話になる訳にはいかない。

「ないのかい?じゃあ、別に専門学校でもいい。やりたいことがあるならそうなさい」
「………」

そんなに明確な未来なんて、考えていなかった。
ただ、近くに就職して、自活しながら、ずっと耕介さんの隣にいれればいいなって、そう思っていただけだ。
そして、耕介さんはそんなのは、お見通しだ。

耕介さんは、もう二度と俺の嘘には騙されないって、公言している。
事実、耕介さんに嘘をつき通せたことなんて、あの時から一度もない。

「何もないのなら、大学に行きなさい」
「だって」
「だってじゃない」

ぴしり、と叩きつけるように言う。
耕介さんにかなうはずもない俺は、黙り込む。

「………じゃあ、地元の大学、行く」
「どこの?」

俺はここから通学圏内の、県内の大学を口にする。
それでも耕介さんは追及の手を緩めない。

「何学部に?そこで何をするんだい?何を君は学びたいんだい?」
「考えてないよ。何もないから、そこでやりたいことを見つける」
「何も決まってないのなら、美大に行きなさい。これは私の希望だ」

そして、ついに、言われてしまった。
俺の足掻きなんて、儚いものだ。
パンフレットの一番上にあったのは、美大向けの予備校だった。

「………」

けれど、美大は、ここからじゃ通えない。
県内に美大はない。
どうやったって、一人暮らしをしなければならない。
そんなのは嫌だ。
けれど耕介さんは、最後の手段を持ち出す。

「君は、私の希望を聞いてくれないのかい?」

そう言われてしまったら、俺はどうやったって耕介さんに逆らえない。
俯いて、毛足の長い絨毯を握りしめる。

「………ずるい。耕介さん、ずるい」
「そう、私はずるいんだよ」
「俺、行ったって、何もできない」

未練がましく美術部なんて入ってるけど、描けるのはつまらない絵ばかり。
ただ、見たものをなぞるだけの、線の塊。
感動を生みだすものなんて、作れない。
俺に何かを作り出す才能は、ない。

「美大は絵を描くだけの場所じゃないよ。芸術を守る人間にもなれるんだ。修復作業、教師、キュレーター。芸術に携わる方法は、生み出すだけじゃない。それらを解明する人、守っていく人だって、必要なんだ」
「………」

確かに、それは素敵だ。
芸術に携わる人間になれたら、どんなに嬉しいことだろう。
どんなに楽しいことだろう。

「でも」

お金がかかる。
つぶしが効かない。
不経済な、学問だ。
好きだからと言って、簡単に選べるものでもない。

「君は、絵も音楽も映像も写真も、好きだろう」

耕介さんが、俯いた俺の頭を優しく撫でる。
望めばいつだって与えられた、優しい抱擁。

「………好き」
「そう、私は君がそれを失わなかったことが何よりも嬉しい。君が好きなものを失わなかった強さが、嬉しい」
「でも」

何よりも、耕介さんに迷惑をかけることよりも何よりも、この手を失うのが怖い。
この温かい家から、出ることが、怖い。

「俺、耕介さんの傍にいたい。働いて、ここにずっといたい。耕介さんの隣にいたい。離れたくない」

耕介さんの膝に、顔を埋める。
お香の優しく穏やか匂いが鼻孔をくすぐって、涙が出そうになる。
俺を守ってくれる、温かなゆりかご。
優しい手が、ゆったりと髪をかき混ぜる。

「前にも言ったね。私の大切な守君。世界は広いんだよ。世界は私だけじゃない。私は君の世界を広げて欲しい。もっともっと色々な人に出会い、色々なものを見て、色々なものを感じて欲しい」
「ここにいたって、出来る」
「君は私から離れようとしないだろう」

そんなことない、とは言えない。
どんなに友達が出来ようと、いい人に出会おうと、俺は耕介さんの傍を離れたくない。
彼女が欲しいと思ったことは、それなりにある。
けれど耕介さんとの時間が失われること、バイトが出来なくなること、そんなことを考えるといらないと思った。

俺の何よりも大切なのは、耕介さん。
誰よりも優先されるべきは耕介さん。

「私も君を手放したくないけどね」
「じゃあ、手放さないで」
「でも、それ以上に君の未来が、見たいんだよ」

それなら、耕介さんと一緒にいれる未来がいい。
どうして、それがいけないんだろう。

「耕介さんから、離れたくない」
「私とのつながりがなくて不安なら、養子縁組でもしようか?」
「それはいらない。前にも言ったけど、俺は耕介さんの財産目当てって、思われたくない。耕介さんの財産なんていらない。俺は、耕介さんがいればいい」

耕介さんの息子さんは、俺のことをよく思っていない。
当然だ。
財産目当てだと思われても、おかしくない。
だから俺は耕介さんに言われた時も、籍を入れて欲しいとは思わなかった。

「そうだね。そんなつながりがなくたって私たちは、つながっている」

あの両親と話をつけなきゃいけないのが面倒だっていうのもあったけれど。
養子縁組しようとも、どんなに疎遠になろうとも、義父はともかく実の親である母とのつながりは、断ち切れない。
俺と繋がりを持ったことで、万一耕介さんに迷惑をかけたら、俺は悔やんでも悔やみきれない。

「俺は、耕介さんだけ、いればいいのに」

耕介さんの温かい手。
優しく穏やかな声。
どうして、これから離れるなんてことが出来るんだろう。
俺が帰れる場所は、耕介さんの元だけなのに。
それを失いたくないだけなんだ。

「君のその真っ直ぐさが、私には危うく見えるよ。私への依存と、私への愛は、違うよ」
「どうして耕介さんは愛とか、恥ずかしいことを平気で言えちゃうかな」
「だって君を愛しているからね」

若い頃は海外に留学していたこともある人は、感情表現がストレートだ。
だから俺も素直になれるのだけれど。

「俺も、耕介さんを愛してる。大好き」
「ありがとう」
「だからセックスして恋人になる」
「ふざけない」
「本気です」
「余計に悪い」

だって、恋人だったら、こんな風に突き放されない。
いつまでも甘やかされて、傍にいられるだろう。
自立なんてしたくない。
依存でいい。
ただ、この人の傍にいられればいい。

「ほら、守君、ご覧」

耕介さんが俺がテーブルに置いた画集を取って、広げる。
俺は膝から顔を上げて、本の中に広がる美しい世界に惹きこまれる。

フランスの、黒を自分の色をとした、画家。
そのフランスの画家は幼少の頃に里子に出され、母の愛を知らず、孤独な少年時代を過ごした。
そのせいなのかどうなのか、彼の世界は、美しく黒く奇妙で歪なものばかりだ。

「彼は、次男が生まれて、世界に色を溢れさせた」

けれど彼は、50を過ぎる頃にがらりとその画風を変える。
長男が大きくなることなく失った彼は、次男の誕生に何を感じたのか。
黒く歪つだった世界は、色彩に溢れた温かいものに変える。
見ているこちらがその温かさに涙が出てくるような、優しい色の絵を描く。

「穏やかで優しい世界だ。黒い絵も好きだが、私は彼の晩年の絵が、大好きだ」

彼は、新しい命に、何を感じたのか。
黒く染まった世界は、光で充ちたのだろうか。

「君も、いつか出会うだろう。君の世界を色で溢れさせるものを」
「この人、50歳で画風変えたんだろ?俺も50歳までかかるかも」
「それでもいいよ。どれだけかかってもいい。いつか辿りつける。だからもっと世界を広げなさい」

この閉じた世界で、俺は構わない。
俺と耕介さん、その二つで、世界は十分なんだ。

「………耕介さんが言ったんだ、俺が帰るところはここだって」
「そう、君が帰るところはここだ。私はいつだって待ってるよ」

耕介さんの、俺の大好きな優しい手が、優しく髪を撫でる。
俺の守り、叱り、そして導いてきた頼もしい手。

「でもね守君、帰るところは別に一つじゃなくていいんだ」
「………」
「人のつながりは広がっていく。大切な人は増えていく。世界は、こんなにも広大だ」

俺の世界は一回真っ暗になって、一切の色を失った。
そこに耕介さんが明りを灯してくれた。
その明りを失わないように、俺はただそれだけを祈っている。

「私はずっと祈っているよ」

ここから、離れたくない。
ここから、動きたくない。
この明りを、手放したくない。

「私の大切な守君の世界が、色彩に溢れ輝かしいものであることを」

けれど、いつか俺はまた見つけられるだろうか。
この世界を彩る、美しい色を。





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