これが恋だと言うなら、それはなんて恐ろしいもの。



- 黒幡 -




「おかえり」
「………お邪魔します」

バイトを終えて先輩の家に辿りつくと、先輩はすでに帰っていた。
嫌がらせのようにおかえりと言ってくる。
その言葉を俺が嫌がると知ってからは、執拗なまでに繰り返す。
どこまでも性格が極悪な人だ。
俺の顰め面に気付いて、楽しそうににやりと笑う。

「今日もつまらない面してんな」
「すいません。メシは?」
「食う」

顔を合わせているのが落ち着かないので、さっさと台所へ向かう。
前まではこんなことなかった。
この家がどんどん居心地の悪いものに変わっていく。
前まではあんなにも楽だった距離感が、分からなくなっている。
先輩との距離が、分からない。

「手伝う」
「………いいです。あんた変なところで凝り性だから時間かかります」
「貸せ」

ひったくられるように手の中の野菜が取られる。
先輩は最近、嫌に俺に構うようになった。
前はセックスの時ぐらいしか、まともに接することはなかったのに。
会話が増えて、一緒に過ごす時間が増える。
その度に、俺は苛立ち落ち着かなくなっていく。
息が、出来なくなっていく。
先輩は嫌がる俺に構うのを楽しんでいるようだ。
楽しそうに隣に立つ整った顔を、殴りつけたい。

「どうだ」

元々器用な人だ。
野菜を剥くのにはまって以来、みるみるうちに上達した。
今も無意味にじゃがいもの皮を器用に長く剥いていたりする。
意味はないが本人が満足げなので、おざなりに褒めておく。

「上手上手」
「かわいくねーな」

そう言いながらも上機嫌で、次々に野菜の皮を剥いていく。
その愛しい手が動く様は、やっぱり見とれてしまう。
何かを作り出すために生み出された、手。
天が彼に与えた、何よりのギフト。

「なんだ?」

じっと見ていたのに気付いたのか、先輩が横目でこちらを見てくる。
その手があれば、それでよかった。
その手と、この人の作品さえあれば、それでよかったのに。

「………楽しいですか?」
「楽しいな。お前の反応も、自分の感情の動きも」

前になんで構うのか、と聞いたら、実験とだけ返された。
どうやら先輩自身俺に構いたくなる心情がよく分からないらしい。
それを見極めるための実験、ということらしい。
大迷惑だ。
実験なら一人でやってくれ。
人を巻きこまないでくれ。

「俺は、疲れます」
「そりゃ御苦労さん」
「なんで、放っておいてくれないんですか」
「放っておきたくないからだろ」

くっと楽しげに喉奥で笑って、包丁を置く。
俺の包丁もとりあげて調理台に置くと、腰を引き寄せられる。

「ん」

抵抗する間もなく、厚い唇が重なってくる。
もうすっかり慣れてしまったキス。
すぐにこれまた厚めの舌が滑りこんでくるのを受け止める。
縮こまった舌を引きずり出され強く吸われると、腹の中が捩れるような気がする。

「んぅ」

執拗に口内を探る舌に、気が付けば自分の舌を絡めていた。
呼吸が間に合わなくなって息が荒くなる頃になって、ようやくつながりを解かれる。

「は、あ」

先輩は立ったまま、俺のシャツの中に手を這わせてくる。
あの手が俺の体に這っていると思うだけでゾクゾクと快感が走って何もかもがどうでもよくなる。
けれど、最後の抵抗のようにそっとその肩を押す。

「………メシ、作ってる最中です」
「お前が我慢できるの?」

くすくすと笑って先輩が、首筋を舐める。
腹の火傷の痕をなぞられて、びくりと体が震えてしまう。
脳裏に白い靄がかかっていって、何も考えられなくなっていく。

「あ、ん、はっ」

所詮先輩の手にかかったら、俺の抵抗なんてないに等しい。
ゆるゆるとその首に腕を回そうとすると、先輩の動きが止まった。

「おい、これ何だ?」
「え、あ?」

先輩の言葉に視線を自分の鎖骨の辺りに落とす。
シャツの隙間からは、赤い虫さされのようなものがいくつか散らばっていた。

「ああ、キスマークです」
「誰の?」

やや不機嫌そうな声。
先輩とは制作やパトロンとの付き合いが重なって、一週間以上寝ていない。

「工藤っていう同級生です」
「ヤったのか?」
「はい、一昨日」

先輩とは違って、ものすごく丁寧で優しいセックスだった。
むしろ俺の淫乱さに工藤がひいていたぐらいだ。
女の人もそうだったが、人によってこんなに違うのかと驚いた。
先輩ははっとため息をついて体を引いた。

「あ、先輩?」
「萎えた」

そう言うと、背中を向けて台所から出て行こうとする。
セックスを急にやめるなんて、珍しい。
一度ヤりはじめたら止まらない人なのに。

「どうしたんですか?」
「どこの誰とも知らねえ男と間接キスはしたくねえな」
「先輩も会ったことあると思いますよ。ほら、前に中庭で会った時に」
「アホか、死んどけ。それ消えるまで近寄んな。外に出てくる」

吐き捨てるような言葉に、身が竦む。
ぎゅっと、胸が引き絞られるような痛みに似た感情。

「先輩」

気が付けば俺は先輩を呼びとめていた。
先輩は面倒そうに、けれど振り返ってくれた。

「嫉妬ですか?」
「は?」
「俺が他の奴と寝るの、そんなに嫌ですか?」
「人の匂いが付いてるもんに手を出すほど飢えてないんだよ」

そりゃ、そうだ。
この人の相手なんて、列をなして順番待ちしているレベルだ。
でも、セックスの相手に貞操なんて求めたこと、ないじゃないか。
どんな相手だって、足を開けばつっこんできたくせに。
なんで俺にだけ、怒るんだ。

「嫉妬でしょう?」
「さあな。嫉妬なのかね。とりあえず俺のもんの癖に勝手なことしてんじゃねーよ。お前の体は一切お前が自由にできる権利なんてない。あの時から俺のもんなんだよ」

それだけ言い捨てると、もう振り返らずに台所から姿を消す。
ちょっとしてカラカラと玄関を開ける音がして、家から出て行ったのが分かった。

「………」

その音を聞いて、俺は自然と駆けだしていた。
エプロンをつけたまま、家から飛び出す。
石造りの門から左右を見回すと、先輩の背中はまだ見えるところにあった。

「先輩、待ってください!」

その背中を追いかけて、走る。
振り返らない背中に、なんだか迷子のような心細さを感じた。

「先輩っ」
「あ?」

もう一度縋るように呼ぶと、先輩は振り返った。
息を切らせながらなんとか辿りつくと、先輩のジャケットを掴む。
浅い呼吸を繰り返して息を整えながら、視線を合わす。

「ちょっと、いいですか?」

先輩は不機嫌そうに眉を寄せていたが、俺の足元を見て呆れた声を上げる。

「アホか。お前、なんで裸足なんだよ」
「先輩を追いかけてきたからです。靴下は履いてますよ」
「靴ぐらい履けよ」
「履く余裕がなかったです」
「どんだけ必死なんだよ」

そんなの、知らない。
ただ、あんたに置いていかれたくなかった。
そう思ったら、ただ駆けていたのだ。

「必死みたいです。あんたに出て行かれたくなかった」

ジャケットを掴んで逃げられないようにしながら告げると、先輩はじっと俺の顔を見下ろしていた。
そのまま睨みつけるようにしばらく黙っていたが、疲れたようにふっとため息をついた。

「とりあえず戻るぞ」
「はい」

俺のシャツを振り払って、踵を返す。
家に帰ってくれることにほっとして、俺もその隣に並ぶ。

「………」
「………」

呼び止めたはいいが、何を話したらいいのか分からず、黙り込む。
先輩も不機嫌そうに黙っている。
ただ、二人、並んで歩く。

「プリムローズイエロー」

後少しで家に辿りつくと言う時に、先輩がぼそりとつぶやく。
横を見ると、先輩は空を見上げていた。
その視線を辿ると、そこには細長い下限の月が横たわっていた。

「クリームイエローじゃないですか?」
「お前の色彩感覚はおかしい」
「色彩構成の成績はいいですよ」
「ばーか、俺以上に正しいカラー見本なんてないんだよ」
「なんですかそれ」

あまりにも先輩らしい言葉に、つい笑ってしまう。
ああ、そういえば、先輩といるようになって、笑うことも、増えたかもしれない。
耕介さんと一緒にいる時だって、笑っていた。
穏やかで、安心して、笑っていられた。
でも今は、もっと激しい感情に、振り回されている。
泣いて笑って怒って。

「………先輩」
「なんだ」

立ち止ると、先輩も一緒に立ち止ってくれる。
月明かりの下青白く照らされた先輩は、自分から光り輝いているようだ。
ひどく眩しくて、目を細める。

自分の色を持っている人。
何もかもを持っている人。
そして、愛されている人。

喉が渇く。
苦しい。
これは、なんなのだろう。

「先輩、俺、あんたに飽きられたくないみたいです」
「ああ」
「前から飽きられたくなかった。けど、今はもっと飽きられたくないみたいです。必死です。裸足で追いかけるぐらい」

先輩のまっすぐな強い目から視線を逸らして下を向けば、汚れた靴下が眼に入った。
汚れて、薄汚い俺。
何も生み出すことが出来ない、人に迷惑をかけるだけの存在。
耕介さんによってゴミだめのサンドバックから人間になれた。
耕介さんがいなければ、息もできない、出来そこないの人間。

「俺、耕介さんだけ、いればよかったんです。耕介さんだけで満たされてた」
「ああ」
「耕介さんは絶対裏切らない。耕介さんはずっと傍にいてくれる。だから、耕介さんと一緒にいれば、俺は安心なんです。立っていられるんです」

耕介さんだけが、俺を認めてくれた。
耕介さんだけは、裏切らない。
耕介さんは、俺を絶対に守ってくれる。

「だから、あんたなんて、いらないんです」

これ以上、感情をゆすぶられたくない。
あんたの人格なんていらない。
あんたの作品だけあればいい。
それ以上はいらない。
それ以上は期待しない。

「俺は臆病者だから、怖いのは、嫌なんです」

耕介さんのゆりかごの中でまどろんでいれば、全ては幸せ。
もう痛いものはない。
もう怖いものはない。
誰も俺を傷つけない。

感情はいらない。
期待はいらない。
笑顔なんていらない。

「だから、頼むから優しくしないでください。これ以上俺を縛らないでください」

先輩は黙り込んでいる。
俺はただ、長く伸びて並んだ二つの影を眺めている。
つかず離れず並んだ影が、ちょうどいい。
これくらいの距離で、いたいのだ。

「………っ」

それなのに、手が、大きくて堅くて熱いもので包まれる。
影に橋がかかって、繋がる。

「だったら追いかけてくんな、アホ」

心底呆れたような声。
その言葉に、目が熱くなってる。

「だって、あんたが、怒るから」
「そりゃ怒るだろ。俺のもんに勝手に他人がザーメンかけてんじゃねーよ」
「そんな風にあんたが、俺に執着するようなこと、言うから」

手が熱い。
目が熱い。
胸が、熱い。

「だから、嬉しく、なったんです」

頬を熱いものが、伝っていく。
耕介さんの前でだって、一回しか泣いたことがなかった。
耕介さんの前では、笑っていたかった。
幸せなのだと、あなたといれて嬉しいのだと、教えたかったから。
だから泣きたくなんてなかった。
あなたに救われたことを、いつまでも心配するあなたに、伝えたかった。

「あんたが、嫉妬してくれて、嬉しかったんです」

それなのに、どうしてこんなに簡単に泣いてしまっているんだろう。
最初からいけなかったんだ。
この人の作品に、惹かれてしまったから。
この人に出会ってしまったから。
だから俺は弱くなった。

「あんたを、追いかけたくなって、しまったんです」

今までは追いかけさせようと必死だった。
この人の作品と少しでも長くいられるように、この人の気を引こうとした。
それなのに、いつのまにか今は俺が追いかけてる。

「………あんたとなんて、出会わなきゃよかった」

ぎゅっと手が強く握られる。
そのまま引き寄せられて、影がくっついて二つの山になる。
繋いだ手が熱くて、火傷しそうだ。

「変態があれこれ難しく考えてんじゃねーよ。馬鹿が何考えたって無駄なんだから、黙って俺に所有されてろ」

完全に、人をモノ扱い。
モノ扱いには、慣れている。
何年も、俺は人間じゃなかった。

「………あんたは本当に、酷い人です」

それなのに、どうしてこんなに胸が熱くなるんだろう。
哀しくはない。
辛くはない。
でも、胸が、痛い。

「ねえ、これは恋でしょうか」
「さあな」

答えはなく、ただ影がよりよりそい一つになる。
ふらつく体を支えられ、俺はたくましい体に寄りかかる。
ああ、このままだと一人で立っていられなくなりそうだ。

これが恋だと言うなら、それはなんて恐ろしいもの。
これが恋なら、俺は恋なんてしたくなかった。





BACK   TOP   NEXT