いつか飽きるかもしれない。
いつか捨てるかもしれない。

そんなの当たり前だろ。
人間の感情なんて移り気で気まぐれ。
一生一緒なんて言葉、馬鹿らしくて寝言でも言えやしない。



- 池 -




家のある地元に着いたころには日が落ちかけていた。
車を知人に返して、二人歩いて家まで帰る。
途中メールを受信したらしく、隣の男が携帯を取り出し眺める。

「新堂さんが、また先輩連れて来いって」
「ごめんだな」

即座に切って捨てると、小さなため息が聞こえた。
あのヤクザもどきの弁護士は、別に構わない。

「そんなに耕介さん、嫌いですか」
「好きに見えるか?」
「見えませんね」

あの家にいる間中舌戦を繰り広げていた俺たちに、親交なんてもんはあり得ないだろう。
弁護士は面白がって笑っていて、こいつは不思議そうにきょろきょろとしているだけだった。
幸い、取りなそうとするほど馬鹿ではないらしい。

「あのおっさんも、俺のこと嫌いだろう」
「………耕介さん、人のこと嫌ったりする人じゃないんですけどね」
「どっちかっていうと喧嘩売ってたのはあのあっちだろ」
「いえ、先輩も特売大セールでした」

一々言い回しが芝居がかっていて気障ったらしいところもウザい。
嫌みもまた廻りくどいのが、嫌らしくてムカつく。
最高にイラつくじじいだった。

「耕介さんは俺を心配してるんだとして、先輩は嫉妬ですか?」
「そうだな。それプラス、ああいう上から目線のじじいが根本的に気に入らない」
「………」

小池センセイや、うちのババアとはまた違った、あの気取った上から目線が心底ムカつく。
こいつの身内じゃなかったら万が一にも近づかない人種だろう。

「腹減った、メシ作れ」

鍵を開けてカラカラとうるさく音を立てるドアを開く。
昼を食ってあっちを出てからもうだいぶ経っている。
いい加減腹が減った。

靴を脱ぎ捨てて家に入り込むと、相変わらずテレピン油のきつい匂いがした。
けれど、何よりも落ち着く匂いだ。
油と木屑と色に溢れた場所が、おれのいるべき場所。

「………先輩」

呼ばれて振り向くと、同居人は玄関で靴を履いたまま突っ立っていた。
その黒目の大きい人形のような目で、俺をじっと見ている。

「なんだ?」

腹が減って若干面倒だったが、何か言いたげだったので付き合ってやることにする。
コウスケさんのせいで忘れていたが、そういえば半月の熟考期間を終えて帰ってきたところだった。
俺を身の周りを放り出すことを許して与えてやった時間に、こいつはどんな答えを得たのだろう。

「俺は、きっと、あんたに恋している」

目を逸らさないまま、俺をじっと見上げてぼそりと言った。
きっと、てところが気に入らないが、まあ及第点。

「ああ」

軽く頷くと、変態はそっと息を吐いた。
家に入る前にはディープマゼンダだった空は、きっともうインディゴになっていることだろう。
暗くなった家の中、ただ黒い目が光り輝いて俺を見ている。

「俺は、あんたの作品以外、どうでもよかったのに」

そっと、黒い目を閉じると、玄関の曇りガラスからの僅かな光しか入らなくなる。
突っ立ったまま、痩せぎすな男は、酷く不様な告白を始める。

「それなのにあんたが笑うと、嬉しくなる。あんたに優しくされると、切なくて哀しくなる。あんたと一緒にいる時間が楽しいと思うようになってしまった」
「当然だ」

この俺がここまでやってやってる。
俺に惹かれるのは、当然だ。
変態は、また目を開けて、苦々しく笑う。

「あんたは、本当に酷い人だ」
「なんでだ?」
「………どうして、優しくしたんですか。どうして、俺に、執着するようなそぶりを見せたんですか。そんなことされなきゃ、俺は今でも耕介さんだけを好きでいられたのに」

甘やかして、優しくして、抱きしめてやった。
快感を教え込み、時には手を引いてやって、俺がいなきゃ駄目な体に仕立て上げた。
お前の全てを食らい尽くすために、どろどろに溶かしてやった。

「なんて言ってほしいんだ?お前が好きだから?お前が欲しいから?」

からかうように言うと、男はゆっくりと首を振った。
どこか怯えたように、唇を震わせる。

「俺は、怖いんです」
「何がだ?」

冴えないデザインのシャツの胸元を握りしめ、背の高い男が子供のように怯えた顔を見せる。
その姿はみっともなくて、みすぼらしい。

「あんたにこれ以上のめり込んで、あんたなしじゃ立てないようになったら、どうしたらいいか分からない」
「結構なことじゃないか」
「だって、あんた絶対に飽きるでしょう」

なじるように、やや強い口調で言い捨てる。
そして俺に挑むように睨みつけてくる。

「あんたに執着して、あんたなしじゃいられなくなってから、飽きられて捨てられたら、俺はどうしたらいいか、分からない」

は、っとそこで一つ息をつく。
それから、ゆっくりと続けた。

「だから、先輩にこれ以上近寄るのが、怖い」

俺は思わず笑ってしまった。
自分でも分かるぐらい、人を馬鹿にした笑い方だった。

「馬鹿か」
「え?」

吐き捨てると、俯き加減になっていた白い顔があげられる。
その黒い目が、俺の真意を問うようにじっと見ている。

「あのさ、これ以上のめり込んだら怖いって、じゃあ俺が今お前を捨てたら、どうすんの?」
「え」

エンジンの音がして、家の中が一瞬だけ明るくなる。
家の前を車が通ったようだ。
気付けばお互いの表情がギリギリ見えるか見えないかぐらいの暗さになっていた。

「お前、今なら俺から離れられるの?」

見せつけるように、手をひらりと振って見せる。
変態は餌をお預けされたような犬のように、物欲しそうな顔でそれを目で追う。
舌を出して、今にもこの手にしゃぶりつきたいと言うように。

「俺の作品を、俺を、今なら諦められるのか?この手を、捨てることができるのか?」

いまだ家に上がっていない男を見下ろしながら、俺は挑戦的に笑う。
ごくり、と唾を飲み込む音が、静まり返った玄関に響く。

「………でき、ない」

つぶやいた言葉は、隠せない苦渋が滲み、俺を酷く興奮させた。
苦しげな顔で唇を噛む男を、押し倒してめちゃくちゃにしたくなる。
喉が枯れるまで鳴かせて、腹の中がいっぱいになるまで精液を注ぎ込みたい。

「先輩は、今なら、諦められるかも。でも、先輩の作品を、諦めるなんて、できない」
「可愛くねえな」

腕を組んで、鼻で笑ってやる。
怒りとも悲しみともつかない表情は、初めて突っ込んだ時と同じぐらい痛みに満ちていて、ゾクゾクする。
こいつの苦しむ顔も泣き顔も、みっともないぐちゃぐちゃなそれ全てが俺を発情させる。

「半月考えて出た答えがそれかよ。お前は本当に頭悪いな」

最初は及第点だったのに、すっかり落第点だ。
こいつは頭が悪すぎる。
コウスケさんってのは、よほど躾けが下手らしい。

「バーカ。俺の作品は、俺そのものだ。俺の作品に惚れた時点で、お前は俺に惚れてるんだよ」

俺の中の衝動。
俺の中の獣性。
俺の中の脆弱。
俺の中の聖性。

俺の中の汚いもの、綺麗なものを全て叩きこんだのが、俺の作品。
俺が生きるために必要なもの。
俺が呼吸するための術。

他の奴らは知らない。
けれど、俺の作品とは、俺そのものだ。

「お前が俺にのめり込むことなんて、もう1年以上前に確定してんだ」

それに惹かれた時点で、お前は俺からは逃れられないんだよ。
どんなに藻掻いて逃げ出そうとしても、結局それは敵わない。

「いい加減、無駄な足掻きやめろ」

あの一年前のアトリエで、俺の隣で泣いていた時から、それは決まっていたのだ。
どんなに苦しみ否定しようとも、お前は俺には勝てやしない。

「捨てられたくないなら、縋りつけ。這いつくばって、俺の情けを乞えよ」
「………」

嘲笑ってやると、放心していた男に、徐々にいつもの無表情が戻ってくる。
無防備だった顔が隠されて、いつもの静かな声で馬鹿にしたように言う。

「………あんたそんなことしたら面倒だって、捨てるじゃないですか」
「分かってんじゃねえか」

こいつに縋られるのは嫌いじゃない。
こいつに乞われるのは嫌いじゃない。
けれどいつもそれだけでは、つまらない。

「飽きられたくないなら、今まで通り俺を楽しませろ」

歯向かえ立てつけ、そして従って、組み伏せられろ。
頭を使って、俺の気を引け。
従順なだけじゃ、つまらない。
反抗ばかりでも、つまらない。

「この俺がこれだけ気を遣って優しくしてやってんだぞ。それでまだ不満か?」

すると変態は、小さく笑った。
いつもセックスの直前に見せる、誘う色を滲ませる。

「そう、ですね。それがただの一時の気まぐれだろうと、なんだろうと、あんたが今一番執着しているのは、俺だ。あんたの一番近くにいれるのは、俺だ」

ぺろりと唇を赤い舌で舐め、淫蕩に笑う。
快感に頭をイカれさせる、淫乱な雌犬の顔。
自分の言葉に興奮しているように、白い顔を上気させる。

「先輩が、惚れているのは、俺だ」

楽しくなって、笑ってしまう。
ああ、こいつは本当に面白い。
だから俺は上機嫌で、こいつを甘やかしてしまう。
全くおれはこいつに甘い。

「そんなに保険が欲しいなら、養子縁組でも遺言状でも書いてやるぜ?」
「遺言状?」

いつか飽きるかもしれない。
いつか捨てるかもしれない。
当たり前だ。
俺は俺の感情のままに動く。
だから、一生一緒だ、なんて言う訳がない。
そんな寝言にもならない言葉、誰が信じるんだ。

「お前に、俺の作品、全部遺してやる」

最初に契約をした。
俺の作品を一番に見る権利を与えるから、俺の傍にいろ、と。

「慰謝料代わりだ。俺がお前に飽きて捨てたら、俺を殺しでもすればいい。そうすれば俺の作品は全部お前のもんだ。俺も全部お前のものだろ?」

お前はこれで、俺から離れられない。
恐怖で逃げ出したくても、絶対に逃げられない。
いつか捨てられるかもと怯えながらも、俺からは逃げることなんて出来やしない。

「俺の最初と最後の権利を、お前にくれてやる」

目を見開く男の驚愕が、心地いい。

お前を全て、俺の色で染め尽くしたい。
お前を全部、食らい尽くしたい。
この獣欲を恋だと言うなら、恋のために馬鹿になるのもいいだろう。





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