きっとこれからも、俺の世界は広がり続ける。 - 黒幡 -先輩の言葉は、体が震えるほど魅力的だった。 すぐにも飛びついてしまいたいぐらい、破格な条件。 想像して唾を呑む自分の喉の音が、嫌に大きく響いた。 縋りついてしまいたい、言葉。 けれどぐっとこらえて、首を横にふった。 「………いりません」 先輩の命と、死後に残った作品全て。 一見、それはものすごい魅力的な、条件。 もうこの人を失うことはない。 この人の遺した作品は全て、俺のもの。 それは足元に縋りついて乞うてしまいそうなほど、素敵な条件。 「俺は、あんたの遺言状も養子縁組も、命もいらない」 けれどそれは俺が真実欲しいものではない。 廊下に立つ先輩が、面白そうに片眉を吊り上げて笑う。 薄暗い室内ですらなお、輝いて見える人。 「いいのか?せっかくの機会だぞ?」 「いいんです」 「ふーん?」 「俺はもう、もらっています」 そう、俺はもう貰っているんだ。 だから、これ以上のものは、必要ない。 「あんた最初に言いましたよね。その手は、俺の物だって」 先輩の作品を作り出す、俺の何より大事な手。 触れるだけでイってしまうほどに、愛しい手。 全てを持つあの人の中でも、とっておきの神様からのギフト。 「ああ」 俺を見て楽しそうに笑っている先輩は、嫌になるほど綺麗だった。 絶対の自信。 絶対の存在。 運命から、愛された人。 「じゃあ、それでいいです」 「随分欲がないことだな」 いいえ、先輩、それは違う。 俺は誰よりも欲張りです。 耕介さんは、俺の帰る場所。 そして、あんたも、俺の帰る場所。 それを失う気は、ないんです。 「あんたが俺に飽きて捨てたら、その手、貰いますね」 俺は唇を持ち上げて笑いながら、先輩を見上げる。 よく考えれば、俺はもう貰っていた。 何よりも、欲しいものを。 「その手を貰って、先輩が手使えなくなったら、俺が世話します」 先輩が面喰ったように、目を丸くする。 ああ、この人にそんな顔をさせることが出来るのは、とても嬉しい。 俺は自然と笑ってしまう。 「手が使えなくなった先輩を世話するような粘着質な奴、そうそういないでしょう?だから俺が世話します。あんたが俺を嫌おうと憎もうと罵ろうと、ずっと傍にいます」 足でも口でも使って、先輩は何があろうと創作は続けることだろう。 そうしなければ、生きていけない人だ。 この人にとって創作とは、息をするのと同じこと。 呼吸を止めれば、人は死んでしまう。 「安心してください。傍にいて、先輩が作品を作るのをサポートします。ずっとずっと世話します」 ああ、考えてみれば、きっとそれはとても幸せなことだろう。 憎まれようとも殴られようとも、この人の全てを支配し、作品を作るこの人を手助けする。 むしろ今すぐ実行したい気もしてくる。 「そうしたら、あんたの傍にいるのは、俺だけです。あんたの作品を一番初めに見る権利は、やっぱり俺のものです」 考えてみれば、簡単なことだった。 迷う必要なんてなかった。 すいません、先輩。 やっぱり俺は、馬鹿でした。 こんな簡単なことに、すぐに気付くことが出来なかった。 「だから俺は、手だけでいいです」 廊下に立つ先輩は、いまだ玄関先に立つ俺をじっと見据えた。 俺もその強い視線に負けないように、睨みつけるように見つめ返す。 しばらくの沈黙。 「く、はは」 先輩は、犬歯を覗かせて、息を吐きだした。 そのまま、体を振わせ始める。 「くっくくく、あ、っは」 それが哄笑に変わるまでに、時間はかからなかった。 腹を抱えて、心底愉快だというように、端正な顔を歪ませて笑う。 「あっははははははは、あはは、あっは」 涙さえ滲ませ笑い続けて、しばらく痙攣したように震え続けた。 それから赤くなった顔で、指先で目尻を拭いながら上機嫌に言った。 「さすが突き抜けた変態は言うことが違うな」 それはいっそ褒め言葉。 あんたの関心を買うために、俺はこれからもあんたに執着し続けるだろう。 俺の執着が、あんたをなにより満足させるのだから。 自分でも、イカれたことを言っていると分かっている。 こんな感情を抱くのはこの人だけ。 耕介さんにだって、こんな執着は抱かない。 「最初に言った通り、この手はお前のものだ。だから、俺が飽きるまではお前はずっと傍にいろ」 「勿論です。先輩の食事を作って、先輩の雑用をして、先輩の性欲を処理します」 あんた好みの食事を作り、あんたの言いつけをこなして、あんたの精液を飲み干そう。 先輩の傍にいることが出来るなら、それはなんて安いもの。 むしろありがたくさえある。 あんたのために存在しているってことだけで、俺は立っていられるのだから。 「あんたが飽きても、飽きなくてもずっと」 「お前が飽きたら?」 「そうならないように、これからもいい作品作ってください」 あんたが作品を作り続ける限り、俺はきっとあんたに惹かれ続ける。 どんなに苦しくても逃げたくても、あんたに執着してやまない。 「っは、そうだな。お前に飽きられないように、せいぜい創作活動に励むとするわ」 先輩は満足そうに、上機嫌に頷いた。 作品だけでも、あんただけでも、俺は満足できない。 だって、あんたの作品は、あんたそのものなのだから。 「ねえ、先輩」 「うん?」 きっと、これからも俺は苦しくなって、逃げ出したくなるだろう。 あんたは身勝手な酷い人。 自由で気ままで縛られない人。 自由なあんたを繋ぎとめることに、疲れる時も来るだろう。 あんたの手を貰えば、あんたはずっと俺のもの。 自由なあんたを檻に捕えて、俺が飼う。 それはとても魅力的。 でも、やっぱりそれは嫌だ。 それは、追い詰められてからの最終手段。 自由で傲岸こそが、あんたの魅力。 そんなあんたにこそ惹かれるんです。 それを消すことなんて、出来やしない。 「あんたは、色なんです」 苦しんで苦しんで、けれど俺はそれすら喜びと感じる。 先輩に与えられる痛みだったら、きっとそれは快感だ。 だって、あんたは、俺の感情の源。 「俺の世界は、一回真っ黒になりました。世界にどんな色を塗ればいいか、分からなくなりました。俺のキャンパスは真っ黒になって、破れてしまいました」 幼い頃、ゆっくりと、徐々に毒を流し込むように、真っ黒にされた俺の中のキャンパス。 色を失った日に見えたのは、ただひたすらに真っ黒な世界だった。 心の中にあった描きたいものを、全て失ってしまった。 「でも、耕介さんが新しい真っ白なキャンパスを用意してくれました」 耕介さんが、そんなキャンパスを、綺麗なものに貼り替えてくれた。 焦らずに丹念に、癒し守ってくれた俺のキャンパス。 そして、好きな絵を描けと言ってくれた。 幼い頃にもらったスケッチブックと、36色の色鉛筆のように。 「それで、新堂さんや千代さんや松戸達が、それに下塗りをしてくれました」 沢山の人が、俺のキャンパスに、色を重ねてくれた。 中学の頃の友人も、高校の頃の友人も、きっと色を重ねてくれた。 それはきっと隠されていたから、分からなかっただけで。 「それで、あんたがそこに色を塗りました」 そしてあの日、あのアトリエに入った日、そこでもう俺は色を取り戻していた。 描きたい絵を、手に入れていたのだ。 俺の世界に飛び込んできた、鮮やかな色。 一瞬にして、心の奥底まで刻み込まれた、強烈な色彩。 「あんたが、俺の色なんです」 ああ、本当に、きっとこれは決まっていた。 あんたにのめり込むことなんて、1年以上前に決まっていた。 あの日、あそこで、俺はもう一度生まれ直した。 赤ん坊のように、産声を上げていた。 俺を生み出したあんたから、逃げようというほうが、馬鹿な話。 「馬鹿か。俺の色は俺のもんだ。お前の色じゃない」 先輩が鼻で笑って、否定する。 それはそうかもしれない。 あんたはあんただけのもの。 あんたは誰にも侵せない。 けれど俺はゆっくりと首を振る。 俺の中の色は、それでも先輩にも奪うことは出来ない。 あんたが与えたこの色は、もうすでに俺のもの。 「白いキャンパスの上に、俺はあんたって色を塗るんです」 あんたは、俺の色。 真っ暗な世界の果てに見つけた強烈な色。 それは真っ黒なクレヨンの下に隠れていた虹色。 それは名画の下に隠されているかもしれない美しい絵。 それは黒の画家が50歳にして見つけた鮮やかな色彩。 「先輩」 「ん?」 目を伏せて、一度息を大きく吸って、吐く。 そして、目を開いて、靴を脱いで、上がり框に乗り上げる。 安心する、油の匂いと、埃の匂い。 いつからか、馴染んでしまった、古い家。 耕介さんを大事に思うことと、この人に執着することは両立できる。 欲張りな俺な、その二つを手に入れる。 「ただいま」 廊下に踏み入れると、みしりと軋んだ音がした。 先輩は、いつものように皮肉げに笑って、手を差し伸べる。 「おかえり、守」 傷だらけで堅い愛しい手に、自分の手を重ねる。 帰ってきたと、そう、自然に思った。 この手はずっと、俺のもの。 ここは、俺の帰る場所。 俺はもう、色を失わない。 この色は、誰にも奪わせない。 世界はこんなにも、色彩に溢れ輝かしい。 俺の世界は、これからも色を重ね続ける。 きっとこれからも俺の世界は広がり続ける。 それはきっと、そう。 あなたにその手がある限り。 |