「春休みの間に、どっか行こうよ!」

今日も三人でメシを食っていると、大川がいきなりそんなことを言い出した。
後少しで始まる春休みをどうしようかという話をしていたところだった。
二人は帰省するらしいし、俺も新堂さんから年一回の制限が解除されたので耕介さんの元へ帰ろうと思っていた。
けれど、長い春休みは友達と遊ぶ時間だって十分ある。

「どこかって、どこに?」
「旅行行こうよー」

てっきりその辺かと思っていたが、思ったよりも遠出のお誘いらしい。
興味を引かれたのか、松戸がコーヒー牛乳をすすりながら聞く。

「どっか行きたいところあるのか?」
「私、直島行きたいなー」

それは有名な通信教育会社が主導した、島全体を使って主にコンテンポラリアートを展示している四国の島。
俺も前から興味はあったので、身を乗り出す。

「ああ、いいな」
「あそこかなり高いんじゃなかったっけ」
「でもいきたーい!大竹伸朗のお風呂はいりたーい!」
「四国なら、大塚国際美術館も行きたいな」
「あそこレプリカだろ?」
「でも結構いいらしいよ」

話し半分に聞いていたものの、徐々に乗り気になって松戸と俺も本格的に計画を立て出す。
四国となると少々懐は痛むが、耕介さんにももっと遊べ、バイト代は自分のために使えと言われてしまった。
もしお金を返そうとか、自分で学費を出そうとするようだったら承知しないとまで言われた。
それでも、出来る限りお金は貯めるつもりだけど。
しかし、お小遣いを何に使ったか次に会った時に教えてくれと言われると、もはや逃げようもない。
この旅行の話は、ちょうどよかったかもしれない。

「黒幡は予定平気?」
「あー、うん。多分平気。先の方ならシフト調整できるし」
「んじゃいこーよ!ベネッセハウス泊まるとはいわないからさー」

ある程度の日程なんかをきめてから、大川は次の授業の準備があると言って一足先に学食から出て行った。
残されたのは俺と松戸。
なんとなく静かになったので、俺は松戸の横顔を眺める。

「いいのか、大川と二人きりじゃなくて?」
「ぶはっ」

松戸が本気でコーヒー牛乳を吹きだした。
駅前で配っていたポケットティッシュを差し出すと、乱暴に掴み取って口を拭く。

「な、な、何言ってんだよ、お前!」
「大川と二人じゃなくていいのかなって」
「あ、アホか!」

大川と松戸は、とても仲がいい。
大川はさっぱりとしていた男にも女にも距離感がない感じで仲がいいのでよく分からないのだが、松戸がここまで親しげな女は大川だけだったので、好きなのだと思っていたのだ。
もし二人が好き同士とかだったりしたら、俺が割り込むのも申し訳ない。
三人で行くような話になっていたが、もしお邪魔だったら遠慮しようと思う。

「大川のこと好きなんじゃないの?」
「な、な、な、ち、ちが」
「違うのか?」

聞くと、松戸は口を閉じて黙りこんだ。
顔が真っ赤だ。
二人が付き合うとしたらとてもお似合いだし、心から応援するし、とても嬉しいのだが。
松戸は目を逸らして、ため息をついた。

「………微妙なところだ」
「そうなのか」
「いや、俺も好きなのかなーとか思うんだけどさ、でも今の友達のままの方が居心地いいとも思うし、下手にコクってぎこちなくなっても困る、とか」
「好きなんじゃん」
「………」

黙りこんで真っ赤になる松戸。
なんか、かわいいな。
松戸の話は告白することが前提となっている。
つまり、松戸はやっぱり大川が好きなんじゃないかと思う。

「まあ、恋ってのは難しいし、俺がとやかく言うことじゃないけどな。いや、邪魔じゃなかったらいいんだ」

松戸が相談してくるなら、以前俺がやってもらったように相談に乗りたいが、そうでないならそっとしておこう。
そもそも俺は人の色恋沙汰に偉そうに口に出せる立場ではない。

「そ、そういうお前はどうなんだよ!」
「俺?」
「そうだよ、池さんとどうなんだよ!」

松戸がなぜか怒ったように、俺に詰め寄ってくる。
なんだ、どうして怒っているんだ。

「どうって、普通だよ。今まで通り。メシ作って、作品見せてもらって、セックスして」
「そういう生々しいこと言うな!」

聞かれたから言っただけなのに、理不尽だ。
先輩と俺の関係は、想いを伝えた後も表面上は全く変わらない。
ただ、俺の気持ちが、少しだけ、違う。
それだけ。

「もう、浮気しようとかは、思わないのか?」
「浮気、ね。うーん、おっぱいはまた触りたいと思うけど、男はいいかな」
「だからお前は節操がない!」
「と、言われてもなあ」

聞かれたから言っただけなのに、理不尽だ。



***




「この前は助かりました」

今日も先輩の用事を済ませるついでに、バイトを紹介してもらってお礼を告げる。
企画展示のある美術館での短期バイトは、勉強にもなるしお金にもなるしで大変助かった。
教授は鷹揚に笑って頷いた

「ああ、向こうの評判もいいし、また紹介する」
「どうもありがとうございます」
「そういえば、柏崎さんと池の奴が会ったんだって?」

向かい合ってお茶を飲んでいると、ふと教授がそんなことを言った。
耕介さんと教授は、最近では手紙だけでなくメールでやりとりしているようだ。
この前の一件も聞いたのか。

「………耕介さんは、なんて?」
「よさそうな若者だと、作品が見れるような機会があれば来るから教えてくれってさ」
「………」

耕介さんらしい、言葉ではある。
言葉であるが、なぜか不穏な気配を感じる。
黙りこんだ俺に、不思議そうに教授が首を傾げる。

「どうした?」
「いえ、なんか、あの二人どうもあんまり合わないみたいで」
「池が合う奴がいるのかどうかが謎だが、柏崎さんも合わないのか?」
「はあ、耕介さん、誰にでも優しい人なんですけど」

なぜだか、先輩に対しては棘があるような気がする。
新堂さんも苦笑いして、おっさん大人げないとか言ってたし。
先輩の態度が悪いのはまあ、いつものことだけど。
俺の言葉に、教授は低くしゃがれた声を震わせて笑った。

「ははっ、嫁姑問題ってのは、いつの時代も苦労するもんさ」
「嫁姑問題なんですか?」
「ああ、大事な可愛い息子を取っていく憎い嫁を、姑は気に入らないものだ」
「俺が嫁なんじゃないんですっけ」
「じゃあ、一人娘を取られる父親でもいいぞ。まあ、俺が父親でもあんな男に取られるんだったら全面抗争だな」

一人娘は置いておくとして、耕介さんは養い子の俺があの傲慢な人に惚れているのが心配で、あんな態度になるのだろうか。
まあ、それなら分からないでもない。
耕介さんは、過保護なまでに、俺に甘い人だから。

「そういうもんなんですか」
「そういうもんだ」

したり顔で頷く教授に、俺も頷いておいた。
耕介さんには、もう一度、大丈夫だってことを伝えておこう。
先輩は、気に添わないことをしなければ、そこまで危険な人でもない。
あんまり心配させないようにしないと。

「それより、どうした、その顔」

教授が俺の顔を見て、眉を顰める。
そういえば、口の端のあざが出来てから教授に会うのは今日が初めてか。
大分薄くなったけれど、当初は会う人会う人に聞かれたものだ。

「ああ、まだ分かりますか?」
「ああ、なんだ、喧嘩か?」
「先輩にこの前殴られまして」
「………大丈夫か?」

教授が本気で心配そうに、声を顰めてくる。
まあ、あの人乱闘騒ぎも昔はちょくちょくあったらしいし、心配にもなるか。

「あ、喧嘩したとかじゃなくて、この前先輩が制作中に行き詰ったかなんかで、アトリエで暴れ出しちゃって。作品守るために止めたら、こんなことに」

ちょうど、居間にいてよかった。
突然大きな音がして慌ててアトリエに行くと、制作中で二日間アトリエにこもっていた先輩が手当たり次第にその辺りのものを破壊して回っていた。
あれを見た時は、血の気が引いて、その場に倒れそうになった。
力が強い先輩が暴れまわれば、簡単に彫刻や絵はめちゃくちゃになった。
慌ててしがみつき、必死に止めている間に、何発が殴られてしまった。
怪我はしたけれど、そんなことより、作品を守れなかった自分が悔しくて涙が出そうになる。
侵すことのできない先輩の制作過程で、先輩自身の作ったものを壊したのだから、先輩をなじる訳にもいかなかったし。

「………作品守るのもいいが、自分も守れ」
「先輩の作品が守れるなら、これくらい平気です」

むしろ、作品を壊すぐらいだったら俺を殴って欲しかった。
とりあえず、早急にアトリエから作品は移動させよう。
二階の一室が空いているからそこでもいいし、鳴海さんに相談してもいいかもしれない。
もうあんな思いをするのはごめんだ。

「お前はどうも、自分が傷ついても構わないってところがあるな」
「そう、ですか?」
「ああ、直しとけ」
「はあ」

そうなのだろうか。
普通だと思うので、曖昧に頷いておく。
その後ひとしきり話して、さっさと退座することにする。

「ああ、これ貰いもんだが、持って帰れ」
「あ、どうも」

手渡された高そうなクッキーの缶を手に、研究室を出る。
ドアを開けたところで、教授が声をかけてくる。

「黒幡、お前、今楽しいか?」

俺は振り返って、少しだけ考える。
そして、答えはすぐに出てきた。

「はい。俺、今すごく楽しいです」

いつだって見守ってくれる頼もしい保護者がいる。
楽しくて優しい友人がいる。
色を取り戻して、世界はとても綺麗だ。
絵を描くのが、再び楽しいと感じるようになった。

そして、それを取り戻してくれた人がいる。

だから俺は今、とても楽しい。



***




スーパーの袋を片手に、とっぷりと日の暮れた住宅街を早足で歩く。
最近は冷え込みが酷く、首から入り込む風が冷たくて一つ震える。
やっぱりマフラーをしてくるべきだった。

「………」

周りの家に比べて随分と古ぼけた小さな家の前に、人影がある。
結構背の高い、男性のようだ。
先輩の女ではないようで、少しだけ安心する。
ここで修羅場を起こされても面倒だ。

男性は石塀にもたれかかって煙草を吸っている。
割と長い間待っていたのか、足元には吸い殻が随分と落ちている。
どうやらマナーがなっていない人間のようだ。

「あの、その家に何か用事ですか?」

先輩の顧客か何かだろうかと思いながらも、近づいて声をかける。
俺の声に、玄関の前の人間は慌てて石塀から背を離しこちらを見る。

「あ」

俺の顔を見て、わずかに声を上げる。
街灯の関係で向こうから俺の顔は見えているが、俺は向こうの顔は見えない。
けれど、服はうっすらと見えてきた。
ジーンズにダウンジャケット。
思ったより若い人のようだ。

「………あの?」

俺はもう少しだけ近づく。
すると、その相手も、一歩こちらに近づいた。

「………守、か?」

その声を聞いた途端、ざわりと全身が総毛立った。
腹の奥が冷たくなって、軽く吐き気がする。

「守」

もう一歩、その人物が近づく。
過去の記憶よりも、随分低くなった声。
もう忘れていたと思った。
思いだすこともなかった。
でも、今鮮やかに、その声は、俺の記憶を引きずり出した。

「あ………」

高くなった背。
低くなった声。
角ばった顎、太い眉。
記憶にある姿とは、全然違う。

「………かず、き?」

けれど、一瞬で、その名前は蘇った。





TOP   NEXT