咄嗟に、声が出てこなかった。 ぐるぐると、頭の中が掻きまわされるような感触。 景色がぐにゃりと曲がって、体が振り回される。 体温が、一気に下がって、血の気がひいていく。 指先の感覚がなくなって、持っていたスーパーの袋を取り落とす。 「………」 高い背、義父によく似た、男らしい精悍な顔立ち。 金に近い茶に脱色している髪と、整えられた眉、雑誌で見るような服装。 パッと見て、女にモテるだろうな、と思った。 そういえば昔からモテていたっけ。 あの頃は、やんちゃなガキ大将って感じで、もっとあどけない顔立ちだった。 髪型はもっとざっくりしていて、服を汚して走り回っていた。 いや、中学の頃は色気づいてきて、髪を染めたりしてたっけ。 そんな、どうでもいいことが思い出される。 「久しぶりだな、守」 和樹は、煙草を投げ捨てて親しげに笑う。 腹の火傷の跡が、ずくずくと疼く。 「お前も随分背が高くなったな」 まるで久々に会った仲のよかった旧友に接するような親しみに満ちた、壁のない態度。 目の前の人間に、そんな態度で接されたことなんて、なかった。 いや、あったのかもしれない。 けれど、思い出すことはできない。 「な、んで、こんなところに」 「ん?」 下がりそうになる足に力を込めて、なんとか口を開く。 喉がわずかに引きつって、声がみっともなく震えた。 男は、不思議そうに首を傾げて、それからちらりと笑った。 「ああ、お前この前雑誌載っただろ?それで学校が分かったからさ。お前と一緒に同居してる人って、随分有名人なんだな。人に聞いたらすぐに分かった」 「………雑誌?」 「ああ、経済誌。お前の同居人と一緒に載ってただろ?池さん、だっけ」 混乱する頭で必死になんのことだか考えようとするが、思い至るまでしばらくかかった。 そういえばこの前先輩の家に行った時に、雑誌の取材だかが来ていたのだ。 結構大きな会社を経営している先輩の家の紹介ってことだった。 静子さんが半ば強引に芸術家の孫と言うことで、作品の写真と先輩のインタビューを求めた。 先輩は最初渋面を見せていたが、鳴海さん許可済みということと、宣伝になるということで最終的に承諾した。 そしてなぜか俺は先輩の友人ってことで一緒に写真に写ったのだ。 でもたった一枚きり。 後で鷹矢に雑誌を見せてもらったが、俺の写真なんてほぼ全員素通りするだろう。 それなのに。 いや、そうじゃない。 どうやってここに来たか、じゃない。 それが、重要なんじゃない。 「違う。どうして、なんの目的で、ここに?」 そうだ、どうやってここに来たか、じゃない。 なぜ、ここに来たか、だ。 あの家を出て、もう7年だ。 その間、一度も会うことはなかった。 なぜ、どうして、今更。 「目的って、単に懐かしくなっただけだよ。お前の顔、久々に見て。俺も今大学でこっちの方に来てるから近いと思ってさ」 和樹は、邪気なく、整った顔に懐かしさを浮かべて笑う。 さっきからずっと、楽しげに笑っている。 そうだ、和樹は、俺の義弟は、よく笑う奴だった。 友達の前で、親の前で、俺の前で。 友達と遊びながら、親と話しながら、俺を罵りながら、俺を殴りながら。 「………」 「元気だったか?」 和樹が、笑う。 吐き気が、止まらない。 体が震えないように拳を握るのが、精一杯だ。 忘れたと思っていたのに。 もう、思い出すことはないと思っていたのに。 耕介さんに出会って、先輩に惹かれて、友人達に囲まれて、もう過去はどうでもいいと思っていたのに。 それなのに、こんなにも生々しく痛みが蘇る。 「………俺に、近づくなって、言われてる、はずだけど」 大学を卒業するまで俺が望まない限り、近づかない。 新堂さんが、両親にそう約束してあるとと、言っていた。 念書ももらっている、だから、安心しろと。 「なんのことだ?」 不思議そうに、和樹が首を傾げる。 義父と母から、聞いていないのだろうか。 ぶるりと、和樹が大きく震える。 「なあ、それより入れてくれない?寒いんだけど」 こいつが何を言っているのか、分からない。 なんでこんなに、何事もなかったように、話せるんだ。 「守?なあ、入れてくれよ」 その言葉で、少しだけ正気が戻って来る。 落ち着け、落ち着け。 今はもう、あの頃とは違うんだ。 和樹の言うことを聞く必要は、何一つない。 この家に、入れる訳にはいかない。 「ここは、俺の家じゃない。話があるなら、どこか、別のところ………、ファミレスでも行こう」 「なんだよ、お前ここに住んでるんだろ?」 「そう、だけど、ここの家主は別の人間だ」 そうだ、ここは、先輩の家。 先輩と、俺の、家。 和樹を入れて、いい場所じゃない。 「池さんだっけ?随分金持ちなんだよな。それにしてはボロっちい家住んでるな」 和樹は俺の言葉を聞いているのかいないのか、家を撫でるように見る。 その視線が、なぜだか酷く不快だった。 「あの人は、家の援助は受けてないから」 「嘘、金持ってるんだろ?」 大学の友人達にもよく言われる言葉。 けれど和樹に言われると、ガラスに爪を立てた時のような気持ち悪さが背筋を這う。 先輩は、自分の力で身を立てられるようになるのが、美大に通う条件だったらしい。 そしてそれを悠々とやってのけた。 それがとてもあの人らしく、呆れてしまうと共に、羨ましくて誇らしい。 そんな気持ちを、汚された気分になる。 「とにかく、ここだと迷惑になる。荷物置いてくるから、場所を移そう」 「えー、別にいいじゃん。お前だって住んでるんだから、弟入れるぐらいなんでもないだろ?」 「駄目だ」 俺が短く切り捨てると、和樹はわずかに眉を顰めて不快そうな顔をした。 けれどすぐに朗らかな笑顔になる。 「ふーん。ま、いっけど」 「とりあえず、荷物置くから」 木枠にガラスがはまった古臭いドアの前に立って、鞄から鍵を探る。 指先が震えて、なかなか鍵を取ることが出来ない。 なんとか取りだして、いつもの倍の時間をかけ、扉を開く。 「中もボロっちいなー」 いつの間にか俺の後ろにいた和樹が、中を覗き込んでくる。 髪に息が触れて、身が竦む。 「………っ、入るな、つってるだろ」 「なんでそんなに冷たい訳?」 「だから、ここは俺の家じゃないって言ってるだろ」 ああ、もう、何がなんだか、分からない。 どうしたらいいのか、分からない。 自分が何をすればいいのか、分からない。 なぜ、和樹がここにいるんだ。 なんで、こんな風に話してるんだ。 「守?」 その時、通りのいい低い声がして、全身の力が抜けそうになった。 一瞬先輩かと思う。 けれど、すぐに似てはいるが、先輩のものより若干高い声だと、分かる。 「鷹矢」 和樹を家に入れないように一度扉を閉める。 後ろを振り向くと、そこには先輩の弟の姿。 その先輩によく似た姿に、大きく息をつく。 「えっと、誰?お客様?」 鷹矢が俺と和樹の顔をきょろきょろと見比べながら、遠慮がちに聞いてくる。 和樹と、鷹矢。 どっちを優先させるかなんて、考えるまでもない。 「違う。………和樹、今日は帰ってくれ。客が来た」 鷹矢の姿を見て、平常心が戻ってくる。 風の強い日の湖にみたいに波打っていた心が、凪いでくる。 「俺も客なのに?」 「ちゃんと前もって言ってきてくれ」 そうだ。 こんな突然の来客に丁寧に接することはない。 和樹に視線を合わせ、静かにけれど強く断る。 義弟は、一瞬沈黙してから、ため息をついて、肩をすくめた。 「ふうん?じゃあ、携帯番号教えてくれる?あ、あとメアド」 嫌だ、と即座に返しそうになった。 なんでこんな奴と、メアドの交換なんてしなければいけないんだ。 けれど、鷹矢の前で揉めるのも避けたかった。 嫌で仕方なかったが、どうしたらいいか分からなくて、結局携帯を取り出し交換してしまう。 自分の携帯に和樹の名前が刻み込まれたのが、気持ち悪くて仕方なかった。 「じゃ、またな。今度は連絡してから来るわ」 最後に和樹は朗らかに笑って、手をひらりと振って去って行った。 その姿が見えなくなるまで見送ると、一気に体の力が抜ける。 「あ………」 体を支える余裕もなく、玄関のすぐ前で座りこんでしまった。 ガシャガシャと、扉がうるさく鳴く。 鷹矢を家にいれなきゃ、と思うのに足に力が、入らない。 「守!?」 石塀の前にいた鷹矢が慌てて駆け寄ってくる。 すぐに立って、家の中に入れなきゃ、いけないのに。 体の震えが止まらない。 眩暈がして、世界が回る。 鷹矢の顔が歪んで見える。 吐き気がして、胃液がこみ上げてくる。 腹の火傷の跡が、ずくずくずくずくと、疼く。 「おい、どうした!?大丈夫か!?」 鷹矢がしゃがみこんで、顔を覗き込んでくる。 駄目だ、鷹矢に迷惑をかけちゃいけない。 俺はなんとか呼吸を繰り返して、頷く。 「だいじょう、ぶ。大丈夫。は、あ」 なんで、こんなことになっているんだ。 またな、ってことは、また来るのか。 家を、知られたのか。 近くに住んでいるってことは、すぐ傍にいるのか。 和樹が? 傍に? 「ぐっ」 「あ、おい。え、ちょっと?マジで、大丈夫か?トイレいくか?」 こみ上げてくるものを口を抑えてなんとかこらえる。 苦しくて、痛くて、涙が出てくる。 叫び出してしまいたい。 忘れたと思っていた。 もう乗り越えたと思っていた。 どうでもいいと思っていた。 けれど、あいつはこんなにも簡単に、俺を過去へと引きずり戻した。 |