「はい、大丈夫か?」

鷹矢に抱えられるようにして家に入った俺は、そのままトイレで結局吐いてしまった。
台所で口をゆすいでいると、鷹矢が冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して差し出してくれる。
喉が、酷く渇いていた。
ひったくるようにそれを受け取って、一気に半分ぐらい飲み干す。
そして、ようやく、一息ついた。

「………悪い、ありがとう」
「いや、平気か?具合悪いのか?」
「もう平気。マジ、悪い。迷惑かけた」
「それは平気だけど………」

鷹矢は俺の顔を見て、少しだけ眉を顰める。
先輩によく似た面差しに、先輩が見せることのない心配を浮かべている。
それがなんとなく、不思議だった。

「………その、さっきの人と、なんかあったのか?」

鷹矢が遠慮がちに聞いてきたので、少しだけ考える。

「………いや、何も、なかった。今は」

そうだ、別に、今は何もされてない。
ただ、友好的に接してきただけで、今日は何も嫌なことをされてない。
俺が過剰反応しただけだ。

「さっきの人って、その………」
「うん?」

躊躇ったようで、一回鷹矢が言葉を切る。
じっと見ていると、意を決したように恐る恐る言葉をつなげる。

「その、守の、昔の、恋人、とか」
「ぶっ」

予想もしなかった言葉に、思わず噴き出してしまった。

「は、ははは!あっはははは!」
「な、何笑ってんだよ!」
「ご、ごめ、あまりに予想外だったから。あは、あははあは」

あまりにもあり得ない想像に、久しぶりに大声で笑う。
涙すら浮かべて笑う俺に、鷹矢は拗ねたように口を尖らせた。
先輩と違って、本当にその仕草は少年のようでなんだか可愛らしい。

「………もういいよ」
「いや、本当にごめん。俺、今まで人と付き合ったことないから、そういうトラブルはないよ」
「そう、なのか?」
「うん」

恋人なんてものが今までいたことはない。
中学も高校も、色恋沙汰とは一切無縁だったし。
先ほどまでの重い気持ちが嘘だったように、すっかり心が軽くなる。
鷹矢と一緒にいると、なんだか落ち着く。

「とりあえず、お茶淹れる」
「あ、ああ」

居間に座らせて、忘れていたヒーターをつける。
鷹矢は日本茶が好きなようなので、とっておきの玉露を出して注意深く淹れた。
その頃には、ヘドロのような腐った重い感情も、火傷の疼きも完全に払拭されていた。

「前に、話したことあったっけ。あれが仲の悪い義弟」
「あ、えっと、お母さんの再婚相手の、息子、だっけ」
「そう」

お茶をちゃぶ台に置きながら言うと、鷹矢が曖昧に頷いた。
自分の分のお茶を啜ると、甘みのある香ばしい味に冷たかった体が温まって行く。

「えっと」

鷹矢がお茶を冷ましながらちらちらとこちらを見てくる。
まあ、そうだよな。

「気になるよな。でも多分聞いて楽しい話でもないけど」
「う、ん」

目の前で何やら不穏なやりとりをされていたら、気になるだろう。
別に言うのはいいのだが、言われても反応に困るだけだ。
誰も、たいして親しくない人間の重い事情なんて、立ち入りたくない。
野次馬根性で根ほり葉ほり聞きたがるような人種は別として。
鷹矢もそれは分かっているのか、好奇心と心配とためらいでくるくると表情を変えている。
とても素直で、善良な反応。
思わず、少し笑ってしまった。

「守?」
「でも、よければ聞いてくれる?感想とか、そういうの別に必要ない。反応に困ったら困るって言ってくれればいい。聞きたくなかったら遮ってくれ」
「あ、うん」

鷹矢はやっぱり困ったように、頷く。
なんとなく、だからこそ聞いてほしい気分になった。
俺から遠いところにいる、けれど信用できる人間。
そんな立場だったからかもしれない。
耕介さんや新堂さんに言ったら、俺を全力で守ってくれるだろう。
なんとかして、和樹を遠ざけてくれるに違いない。
松戸や大川に言ったら、きっと二人ともあの時のように怒ってくれる。
俺の味方でいてくれる人達。
けれど、今はまず、自分で自分の気持ちを、整理したかったのかもしれない。

「俺の両親が離婚してるんだよね。で、母さんに引き取られた。それで、小学校四年の、頃だったかな。もう、10歳になってたかな。母さんが再婚してさ。新しい義父さんと、義弟が出来た。最初は、嬉しかったかな。兄弟欲しかったし。義父さんは、スポーツが好きで男らしい人だった。あいつも、義弟、和樹って言うんだけど、あいつもスポーツが好きで頭もよくて明るくていつも人の中心にいるような奴だった」

今はもうほとんど覚えていないけれど、優しくて線の細かった父さん。
父さんとは全く違う男らしい義父さんと、俺の友達にはいないタイプだった、明るくて元気な義弟。
戸惑いながらも、喜んでいた気がする。
母さんを取られる寂しさはあるものの、学校でも一目置かれているような人間が、自分の家族になることが素直に嬉しかった。

「ただ、俺って、暗いし、運動神経そんなよくないし、基本インドアだし、残念ながら二人とは合わなかった。母さんは女手一つで俺を育ててくれたしさ、苦労してたんだろうな。すごい二人に気を使ってた。それで、皆から言われた。もっと男らしくしろ、絵なんて描くな。外に出ろって。でも、俺もどんなに義父さんや母さんに言われても、スポーツ好きになれなかったし、絵を描くのが好きなの、やめられなかった。まあ、反抗的だよな。言うこと聞いてればよかったのに。そんなこんなで、どんどん家族の中で余り物って感じになってった」

徐々に徐々に、黒幡の家では、俺の存在が、なくなっていった。
家でも学校でも、透明人間になったみたいだった。
誰も俺の存在に、気付かない。
知らない。

「俺も、家族に溶け込む努力、足りなかったんだろうな。どんどん険悪になっちゃってさ、絵を描くのを取りあげられて、食事を一緒にとらないようになって、存在を無視されるようになって。でもよかったんだ、無視されるなら、よかったんだ。俺も関わるの、疲れてたし」

会話にいれてもらえない、視線をそらされる、そのうち一緒にメシを食わなくなっても、誰も何も言わなかった。
気付かれなかった。
その頃には、打ち解けるのを完全に諦めていた。
二階で、よく三人の笑い声を、聞いていた。

「でもさ、あいつさ、和樹さ。俺のこと、本当に嫌いだったんだろうな。今になっても、なんであそこまで嫌われたのか、分からない。俺の性格、合わなかったのかな。なじられるのは当たり前。学校であいつ、人気者だったから、徹底的にハブられるようにされたり、物壊されたり、その他小さいのも大きいのも取りそろえて嫌がらせされた」

家でも学校でも、物を壊され、失くされ、オカマだ、乞食だと罵られ、嗤われた。
そのうち、周りの人間は、俺は近寄ったら面倒なもの、罵っていいものだと認識した。

「………お母さんは」
「怒られたよ。和樹を怒らせるような真似するなって」
「そんな!」
「母さんも、きっと必死だったんだ。和樹に、義父さんに嫌われないように」

父さんから養育費なんかをもらっていたかは知らない。
どうであれ、女一人で子供を抱えて生きて行くってのは、並大抵ではない苦労だろう。
成長して、バイトとはいえ自分でお金を稼げるようになって、よりそれは分かる。
だから、母さんのことを一概には責められない。
鷹矢が、苦しそうにくしゃりと顔を歪める。
ああ、なんていい奴なんだろう、鷹矢は。

「なんか、周りの人、先生とか、なんか、してくれなかったのか?」
「してくれたよ。イジメも止めようとしてくれた。児童相談所とかにも言ってくれたみたいだ。ただ、俺がイジメとか虐待とか知らないって否定した」

先生達は、頑張ってくれていた。
和樹を注意してくれたし、母にも言ってくれた。
あの人達の出来ることはしてくれた。
今でも感謝しているし、あの人達の好意を無にしたことを、謝りたい。

「正直に言ったら、何が起こるのか分からなくて、怖かった。それに、母さんと離れるのは嫌だった」

相談所の人が来て、母と俺に別々に事情を聞いた。
でも俺は、必死に否定した。
母や義弟に疎まれている、なんて認めたくなかった。
それに、もし正直に言った時に、母さんがどうなるか、なんか怖いことが起こるんじゃないかって思った。
何が起こるか分からないのが、恐ろしかった。
それに俺は、家族を失いたくなかった。
自分が家族に愛されてない、邪魔ものだってことは、薄々気づいていた。
でも、形ばかりの家族とはいえ、失って一人ぼっちになるのは、嫌だった。
帰る場所がなくなるのは、怖かった。

「母さん、あの後半狂乱になって、暴れて大変だった。馬鹿だよな。あの時隔離でもしてもらっておけば、あんなことにならなかったかも」

あんたが言ったのかと怒り狂い、何回もぶたれた。
泣きながら、どうして分かってくれないのかと繰り返し言われた。
お前は我儘だ、お前のためにやってるのに、どうして分からないんだと。
頬を打たれ、丸まってうずくまる俺の背中を何度も叩いた。
それほど強くない母の力は、肉体的にはあまり痛くなかったが、母を泣かせたこと、母を失望させたことが、心に突き刺さって痛かった。

「最終的に、和樹が中学受験失敗した頃から暴力が始まった。それまでは小突かれるぐらいだったんだけど、どんどんエスカレートして、血尿でるまで腹蹴られたり、髪切られたり、風呂場で水に顔つっこまれたり、煙草押しつけられたり、顔が腫れ上がってメシ食えなくなるぐらい顔殴られたりとか。うわ、あいつドSだな。ほんと」

最初は、周りにばれないぐらいの暴力だった。
腹や胸や背中や腕、服で隠れる場所を殴られた。
煙草の火を嗤いながら何度も何度も、腹に押し付けられた。
必死に声をこらえたが、痛みに呻くと、更に嗤って、目に近づけられたり、口の中に入れられそうになった。
防げない場所を狙われる恐怖はどうやら染みついているらしく、普段はなんともないのだが、たまに夢に見て真夜中に目が覚める。
和樹は、楽しそうに笑っていた。
反抗しないで反応も示さなくなっていた俺がさすがに涙を浮かべて謝るのが、とてもとても楽しかったらしい。

「その時も、誰も………?」

鷹矢が今にも泣きそうになっている。
反して、俺の感情は静まり返って行く。
あの時のことを思い出しても、まるで古い映画を見ている時のような現実感のなさ。
ただ淡々と、白黒の無音のフィルムを流しているように、過去の映像が流れる。

「最初の頃は、気付いてなかったんじゃないかな。あいつ、すごい巧妙にやってたし。でも、途中で気付かれても、義父さんも母さんも、俺が和樹のサンドバックであることを望んだ。俺があいつに殴られてれば、家庭円満だから。義父さんと喧嘩することもなく、母さんが責められることもない。平和だろ?」
「そんな、ありえない!………ひどい!」
「ありがと」

両親公認になって、夏休みに入って、暴力はますます加速した。
顔を殴られ、口の中が血だらけになって腫れあがった。
歯がぐらついても歯医者に行くことはできなかったので、二本差し歯になった。
メシも食えなくて、水分を取るにも苦労した。
手当てしても癒える暇のない傷が膿んで臭い匂いをはなったら、風呂に入れてやると言われて熱湯をかけられ、水を張った風呂に何度も何度も頭を突っ込まれた。
痛みに叫ぶと時には不様だと嗤われて、時にはうるさいと更に殴られた。
そういえば、よく骨とか折れなかったな。
まあ、あのまま行けばどうなっていたか分からない。

「まあ、最高にひどかったのは、夏休みに入ってからの一週間程度だったからなんとか無事だった」
「………どうやって、逃げたんだ?」

言われて、自然と頬の筋肉が緩んだ。
和樹に言われて外に出た時に出会った、耕介さんの姿が脳裏に浮かぶ。
その後抱きしめられた温かさが、まざまざと蘇る。
心の中が温かさでいっぱいになる。
和樹に与えられた痛みはもうリアリティがないのに、耕介さんにもらった温かさは胸に今も息づいている。

今思えば、すごい奇跡だ。
和樹は暴力が始まってから俺を外に出すことはなかった。
それなのに、なぜあの時外に出したのだろう。
なんであれ、あの時外に出れたことが、何よりの奇跡だ。

「小さい頃に出会って、ずっと俺を大事にしてくれた人がいるんだ。俺が絵を描くのを支援してくれて、家に呼んでくれて、ご飯食べさせてくれて、心配してくれた人。その人が、助けてくれた」
「助けて、くれたんだ」

鷹矢がほっとしたように、表情を緩める。
ああ、暗い話を聞かせてしまって、申し訳ないな。
本当に鷹矢は先輩と違って、すごく優しい性根のようだ

「うん。その人が今の俺の保護者。俺を引き取って、守ってくれて、色々なこと教えてくれて、大学まで行かせてくれた。すごくすごく大切で、大事な人」
「そっか」
「うん」
「よかった。助けてくれる人が、いたんだな。その人のこと、大事なんだな」
「うん、すごくすごく、大事な人だ」
「そっか、よかった」

よかったと何度も繰り返す鷹矢に、こちらもなんだか胸の温かさの温度が増す。
自分のことを気遣ってくれる人がいるというのは、こんなにも嬉しくて、温かい。
鷹矢へ対する好意が、どんどん増して行くのを感じる。

「それで、実家とは完全に縁を切った。切ったつもりでいた」

俺の傷が癒えて、ようやく普通のメシが食えるようになった頃に、新堂さんに言われた。
家とは、完全に君を切り離した、会いたくなったら言ってくれ、君が会いたいと言わない限り向こうが接触することはない、今後君に対する全ての責任は、柏崎耕介が負うことになった。
そして、これからは耕介さんの家で住むことになったこと、学校を転校することになったことを告げられた。
友達と離れることは寂しかったが、耕介さんの家からは通えない距離だったので受け入れた。
俺には、耕介さんと一緒に暮らすことが、何よりも大切だったから。

「忘れたと思ってた。今が幸せで、すごい幸せで、満たされていて、過去なんてどうでもいいって思ってた」

耕介さんに守られて、癒されて、千代さんや新堂さんと過ごして、過去を忘れて、大切な友人に出会って楽しくて、先輩と出会って、色を取り戻した。
幸せで幸せで幸せで、夢なんじゃないかと思うぐらい満たされていた。
だから、すっかり思いだすことなんて、なかった。

「なのに、あいつがいきなり現れて、すごい動揺した。会っても、多分平気だって思ってたんだけど、こんなにテンパるとは、思わなかった。今、落ち着いてみるとなんであんなに動揺したのか、分からない」

今思い返せば、なんであんなに動揺したのか、分からない。
身が竦んで、体が震えて、声が出なくなって、眩暈がして、吐き気がした。
もう、あいつのことなんて、怖くない。
あいつの言うことを聞く義理はない。
我慢する必要なんてない。
それなのに、あんなにも、ぐちゃぐちゃとした泥水のような感情が体を支配した。

「という、事情でした。悪いな、返答に困るだろ、こんなの」

もうすっかり、憑き物が落ちたように落ち着いている。
今、和樹と会っても、きっとさっきほど動揺することはないだろう。
不意打ちだったから、かもしれない。
鷹矢はしばらく困ったように視線を彷徨わせ、そして小さく頷いた。

「………うん」
「鷹矢は、正直でいいな」

その叱られた犬のようにうなだれた様子が可愛くて、つい笑ってしまう。
ひとしきり話して、大きくため息をついた。
混乱してとっちらかっていた感情が、きっちりと整理されてあるべきところにおさまったような感じだ。
あれは過去のこと。
思いだす必要はなく、終わったこと。
今の俺は、大切な人達に囲まれて、とても幸せなのだ。

「はあ。なんかすっきりした。落ち着いた。メシ作るけど、食ってく?今日先輩帰ってこないけど」
「あ、うん」

立ち上がって、いつものペースを取り戻すべく放っておいたスーパーの袋を取りあげる。
鷹矢は丼ものが好きだってことなので、かつ丼か親子丼にしよう。

「あのさ、さっきの、あの、和樹って奴のこと、峰兄には言わないのか?」
「なんで?」
「なんでって、だって………」

台所へ向かう俺を、鷹矢が見上げている。
俺は小さく首を横にふった。

「特に言うことはない。先輩、今、珍しく煮つまってるみたいだし、余計なこと言いたくない。というかこれは俺の事情で、先輩には関係ないし」
「………関係、ないって」
「鷹矢にも関係ないのに話したのは、ごめんな」
「そんなのは、いいんだよ!別に話すのはいいよ!でも!」
「ありがと。本当に鷹矢っていい奴だよな」

頭を撫でたくなるが、ぐっと我慢した。
一つしか変わらない男にそんなことをされても嫌なだけだろう。
でも、鷹矢本当にいい奴で、可愛い。

「峰兄は、その、お前の義弟とか、お前の事情のこととか知ってるのか?」
「どうなんだろ。俺は言ったことは、ないと思うけど。どうだったかな。特に隠してもないけど、聞かれなきゃ言わないし、多分知らないんじゃないかな」
「………」

俺は確か言った覚えはないし、先輩が聞いたこともない気がする。
耕介さんや新堂さんが話した可能性もあるが、特にそれについて触れられたことはない。
あの人は自分の損得に関わらない話に興味はない。

「さて、と、親子丼でいい?かつ丼とかそぼろ丼とかでも出来るけど?」
「………俺が、口出すことじゃないかもしれないけどさ」
「うん?」
「峰兄には、言った方が、いいと思う」
「うーん」
「だって、一緒に住んでるんだしさ」

そういえば、そうか。
この家は、先輩のものだ。
俺は一つ頷く。

「そうだな。また押しかけてきたら迷惑かけるし、言っておく」
「………」

さあ、鷹矢のご飯を作ろう。
そうだ、和樹のことは、また後で考えればいい。


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