「守?おい、守?」

心に染みわたるような低い声に、先輩が帰ってきてくれたのかと思って目を開ける。
男らしい目鼻立ち、高い背、気持ちのいい声。
けれど、先輩じゃない。
よく似ているけど、先輩じゃない。

「………」
「起きてる?」
「………起きてる」

心配そうに俺を覗き込む鷹矢がほっとしたようにため息をつく。
俺は居間に倒れ込んだまま、目をつぶっていただけ。
眠っていたのか、眠っていなかったのか、それすら分からない。

「何してるの?」
「何も、してない」

それしか答えようがない。
ただ、何も考えないで、横になっていただけ。
今は何時なんだろう。
部屋の中は電気もつけてないのに明るいから、そう時間はたっていないのかもしれない。
トイレに行く以外動いてない。
何も考えたくないし、何もしたくないって思っても、体は自然の欲求のままに動く。

「………大丈夫か?」
「大丈夫だよ」

俺は大丈夫だ。
ただ、疲れただけ。

「………」
「………」

ああ、疲れたな。
ひどく、疲れた。
鷹矢をもてなさなきゃって思うけれど、起き上がる気になれない。
指一本ですら動かすのがおっくうだ。
鷹矢が話しかけてくるのに、答えるのすら苦痛だ。

「何が、あったんだ?」
「何も」

何もない。
本当に何もなかったんだ。
何も変わっていない。
誰にも何もされてない。
悩んでいたのも、苦しかったのも、辛かったのも、全部全部俺が馬鹿でしつこかっただけ。
俺のことは、誰も何も、気にしていなかった。
俺はただ一人でじたばた、暴れていただけ。

「何もなかったんだ」

目を閉じると、真っ暗な世界。
このまま、何もかも、真っ暗になってしまえばいいのに。
何も何も、なかったのだ。
この7年間、母さんも和樹も義父も、ただ幸せに暮らしていただけ。
俺のことなんて忘れて、一つの家族として頑張っていただけ。
家族に会える、分かりあえるかもって期待も、でもまた拒絶されるかもっていう葛藤も、何も必要なかった。
俺には、何もなかった。

「………守?」

考えたくない。
これ以上考えたくない。

「ねえ、鷹矢」

目を開けると、優しい鷹矢はやっぱり俺を心配そうに見ていた。
先輩によく似た面差しに、先輩とは似つかわしくない表情を浮かべている。
ああ、鷹矢は、本当にいい奴だな。

「何?」
「セックスしよう」
「は!?」

俺の提案に、鷹矢は驚いて身を引いた。
ごろりと寝がえりを打って横を向きながら、鷹矢の目を見つめる。

「目瞑って、寝てればいいから。俺が全部やるから安心して」
「ちょ、ちょっと待って!何言ってんだ、お前!」
「俺、結構うまいらしいから、気持ちよくするよ?」
「いやいやいやいやいやいや!」
「つっこむだけなら、多分女と一緒だよ」

女と違っておっぱいも柔らかさもないけれど、穴はついてる。
突っ込むだけなら、きっと一緒だろう。
舐めて勃たせて自分でつっこむだけなら、男も女も変わりはない。

「待て、この馬鹿!!」

鷹矢は俺からずりずりと遠ざかりながら、顔を赤くして怒鳴る。
そういえば、鷹矢は先輩と違って結構純情だった。
もしかして、童貞なのかな。
それなら俺が童貞奪ってしまうのは申し訳ない気もする。

「嫌?」
「嫌だ!てか無理だ!」
「なんで?」
「生理的に!」

生理的に、か。
まあ、それも当然だ。

「そっか。それは無理だ」

男が生理的に駄目な人もいるだろう。
それはいたしかたない。
可愛い鷹矢に無理をさせる訳にはいかない。
無理矢理襲う気もない。

「峰兄はどうしたんだよ!」
「先輩、してくれなかった。頼んだのに。呆れられた。捨てられた」
「え!?」

先輩が、抱いてくれればよかったのに。
前にしてくれたみたいに、縛って殴って無理矢理つっこんでくれればどれだけ気持ちよかっただろう。
殴って切って、人形みたいに遊んで欲しかった。
それなのに、置いていった。
先輩が、俺を置いていった。

「………そうだ、工藤に頼もう」
「え!?」
「携帯、どこだっけ」

確か、投げつけたんだっけ。
のろのろと体を起こして、辺りを見回す。
鷹矢の隣に、携帯が落ちていた。

「ストップストップストップ!!」

手を伸ばそうとすると、その前に鷹矢が携帯を取りあげた。
行動を阻止されて、少しだけイラっとする。

「何?」
「工藤って誰!?」
「大学の友達」
「何を頼むんだ!」
「セックスしてくれって頼む」
「アホか!」

言った瞬間、頭を殴られた。
いっそもっともっと強く殴ってくれればいいのに。
全然痛くない。
鷹矢は、どこまでも優しい。

「お前な、そういうことはやめろ!」
「そういうこと?」
「簡単に誰とでも寝たりするな!」
「だって鷹矢がしてくれないから」

だから、仕方ないじゃないか。
先輩も鷹矢も、セックスしてくれない。
ああ、亜紀さんでもいいかな。
でも、柔らかい女性に包まれるより、堅い体に乱暴につっこまれたい。
工藤も優しいしな。
誰か、SM趣味の奴でも知らないだろうか。

「守、落ち着け、ちょっと落ち着け、いいか落ち着け」

鷹矢が俺の携帯を奪われないように握りしめながら、深呼吸をしている。
顔を真っ赤にしている鷹矢の方が倒れてしまいそうだ。

「鷹矢が落ち着いた方がいいよ」
「誰のせいだと思ってる!」

もう一度軽く頭をはたかれた。
どうして、止めるんだろう。
どうして、俺のすること、皆嫌がるんだろう。
そんなに、俺は、変なのだろうか。

「………そんなにヤりたいの?」
「うん」
「なんで?」
「ヤりたいから」

ヤりたいことに、理由なんているのだろうか。
ただ、ヤりたいのだ。

「だからなんで?たまってるの?」
「なんでって」

けれど、鷹矢は納得せずにもう一度聞いてくる。
たまってるのか、と言われれば、たまってるかもしれない。
先輩とはもう一月寝ていない。
自分で処理はしているものの、それ以上の快楽を知っている体は物足りなさを覚えていた。
でも、それを今、処理したいのかと言われれば、違うかもしれない。

「………そういう、訳じゃないと思う」
「じゃあ、なんで?誰とでもいいの?」
「もう、誰でもいい」
「なんで?もう、ってことは本当は誰でもいい訳じゃないんだよな。本当は峰兄がいいんだろ?峰兄じゃなくていいの?峰兄に断られてまでやりたいの?なんで?」
「………」
「守」
「………何も考えたくないから」

疲れた。
楽になりたい。
問い詰めないで。
考えさせないで。
俺の中を暴かないで。

「セックスしてる間は、何も考えなくて、いいだろ?理性が吹っ飛んで、ぐっちゃぐちゃになれる」

頭が真っ白になって、内臓を掻きまわされて体を揺さぶられて痛みと快楽に溺れる。
そうしていれば不安も苦しみも、何も感じなくて済む。
何も考えなくて済む。

「………」
「セックスが嫌なら、俺を殴らない?何をしてもいいよ、殴っても蹴ってもお湯をかけようが首をしめようが」
「おい、守」
「痛い時って、痛いってことしか、感じられない。そうしたら、何も考えなくて済む」
「守!」

痛みを与えられている間は、俺は必要とされている。
サンドバックとしてでも、誰かの役に立てる。
誰かと関わっていられる。

「ふざけんな、いい加減にしろ」

鷹矢が目を吊り上げて、鋭く叱る。
その押さえた怒気をはらむ声に、体がびくりと震える。
その不快そうに眉を顰める顔は、あの人によく似ている。
鷹矢に、怒られた。

「………怒らないで」

先輩も、怒っていた。
今度は鷹矢も怒らせた。
俺は皆を怒らせる。

「怒らないで。ごめんなさい、怒らないで。ごめん、ごめんなさい」

どうして俺は人を不快にさせることしかできないんだろう。
皆を笑わせたいのに。
皆に笑っていてほしいのに。

「………はあ」

呆れたようにため息をつく鷹矢。
鷹矢に見放される。
先輩みたいに、鷹矢もどこかへ行ってしまう。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
置いていかないで。
もう、置いていかないで。

「鷹矢も、俺に呆れた?ごめんなさい。どうして、俺はこうなのかな。どうして人を不快にしかさせないんだろう。俺、皆に迷惑をかけてばかりだ。どうしてかな。ごめんなさい」

哀しい。
寂しい。
哀しい哀しい哀しい。

「ごめんなさい。鷹矢、ごめんなさいごめんなさい」

なんでもするから、置いていかないで。
俺を見捨てないで。
いや、置いていって。
もう見捨てて、俺に関わらないで。
もう期待するのは疲れた。
いやだ、置いていかないで。
一緒にいて。

「よし」
「………ごめんなさい」

鷹矢は立ち上がると、俺の腕を引っ張った。
されるがままに、だらだら立ち上がる。
怒られるのだろうか。
殴られるのだろうか。
殴ってくれるなら、嬉しい。
呆れてどこかに行かれるよりは、ずっといい。

「ご飯を食べにを行こう!」

けれど鷹矢はそのどれでもなく、明るい顔で笑った。
予想外の反応に、どうしていいのか分からなくなる。

「え」
「何も考えたくないなら、ご飯を食べて遊ぼう!」
「………鷹矢?」

着たままだった俺のエプロンを外して、壁にかけてあったコートを持ってくる。
そして俺に笑顔で差し出した。

「はい、コート」

優しくて、明るい笑顔。
先輩とよく似た顔。
けれどいつも人を馬鹿にしたようなシニカルな笑い方しかしない先輩と違った、明るくて朗らかな、人を安心させる笑顔。

「ほら、行くぞ!」
「………あ」

どこへ、とかどうして、とか聞くことも、拒絶することもできない。
腕を引かれて、俺はコートを持ったまま、ただその後をついていった。


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