先輩に抱きついて泣いていると、困ったような声が、恐る恐ると割って入った。

「………あのさ、二人とも、とりあえず、さっさと手当てしようよ」

鷹矢の冷静なつっこみに、真っ白だった俺の頭も一気に冷える。
今俺を抱いているこの手には、ざっくりと大きな傷が刻みつけられているのだ。
大事な大事な俺の手に、俺がつけた傷が、あるのだ。

「そうだ!先輩の手、手当てしないと!」
「舐めときゃ治るだろ」
「駄目です!」
「そうだよ!結構切ってるだろ!病院へ行くの!」
「大げさだな」

先輩の面倒そうな言葉に、俺と鷹矢が同時に非難する。
先輩の腕からもがいて抜け出して、その手を掴んで確かめて、もう一度泣き出しそうになってしまう。
手の平に刻まれた生々しい傷は少し血が固まり始めているとはいえ、肉がさらけ出されて痛々しく血を溢れさせている。
すでに先輩の手は腕まで真っ赤だ。
ああ、この手で和樹なんかを殴らせてしまうなんて、俺はなんて馬鹿なことをしてしまったんだろう。
もっと早くに止めるべきだった。

「駄目です先輩!すぐに病院いきましょう!とりあえず止血しますね!」

急いで救急箱の元へ行こうとするが、何かに引っ張られてつんのめる。
後ろを見ると、鷹矢が怖い顔で俺の服を掴んでいた。

「お前もだ!鼻血出っぱなしだろ!後、顔も腫れてるから!」
「あ、そっか。服が汚れる」
「そうじゃない!ていうか服はもう手遅れだろ!二人して血まみれすぎなんだよ!」

まあ、そう言われれば俺の血と先輩の血で俺の服も先輩の服もところどころに血が染みついている。
少し血のシミ抜きをすればいいって問題じゃないレベルだ。
しかもセーターだ。

「ああ………、血って、落ちないんだよな」

セーターを掴んでため息をつくと、先輩が馬鹿にしたように鼻で笑う。
こっちは俺よりも高そうなシャツを着てるが、動揺する様子はない。

「服の一枚や二枚ケチケチすんな」
「先輩はいいかもしれないけど、俺は貧乏なんです」
「そんなもん、コウスケさんにねだればダース単位で貢ぐだろ」

間違いなくくれるだろうが、そんなことする訳にはいかない。
本当に金持ちは傲慢だ。

「そういや、さっきのあいつ誰?」

先輩がふと思い立ったように首を傾げる。
俺が答える前に答えたのは鷹矢だった。

「知らないで殴ったの!?」
「人の家荒らして、人のもんに手を出してる奴がいりゃ殴るだろ」
「いやいやいやいや。えっとあいつが前に話したこいつに酷いことしてた義理の弟で」
「へー」

ああ、鷹矢、俺のこと先輩に話したんだ。
別に話しても話さなくてもいいんだけれど、鷹矢は本当にいい奴だ。

「違う!そうじゃなくて!」

鷹矢が痺れを切らしたように、顔を真っ赤にさせて怒鳴る。
乱暴に、部屋の片隅に置いてあったティッシュを付きだす。

「とりあえず守は鼻にティッシュつめて安静にしておく!峰兄は止血!救急箱どこ!」
「これででいいだろ」

先輩は軽く言うと、血まみれの服を脱いでそれで手首から手を圧迫して止血を行う。
鷹矢はそれを見て一つ頷く。

「えーと、じゃあ」
「タクシー呼ぶ。ちょっと待ってろ」

結構タクシーを利用する先輩の携帯にはタクシー会社の番号が登録されている。
携帯を取り出し、慣れた様子で一台回してもらうように手配する。
その冷静な対応に、鷹矢がまた癇癪を起したように握りこぶしを作る。

「全くもう!出来るなら最初からそうしてよ!二人ともどうしてこんなに手がかかるんだよ」

上半身裸のままの先輩は、携帯をポケットに突っ込むと鷹矢を見て目を細める。
人を従える強い視線に鷹矢がびくりと怯えたように肩を跳ねさせる。

「お前、俺に平気で発言するようになったなあ」
「あ、ご、ごめん、ごめんなさい」

敬愛してやまない兄の嬲るような言葉に、鷹矢がみるみるうちに真っ青になって小さくなる。
先輩はなんて酷いことを言うんだろう。
鷹矢をいじめる酷い人に文句でも付けようと思ったが、その前に先輩はにやりと笑う。

「お前はそっちの方が面白い」
「………」

その言葉に、鷹矢はまた顔を真っ赤にさせた。
青くなったり赤くなったり、なんとも器用だ。
喜びを隠しきれないように頬をぴくぴくと引きつらせて、手をぐーぱーさせる鷹矢がとても可愛い。
可愛すぎて、なんだかムカっとした。

「………鷹矢、俺と先輩、どっちが好き?」
「え、は、峰兄」
「そんなん当たり前だろ。アホか」

鷹矢に即答された上に、先輩に馬鹿にされて、ますますムカムカしてくる。
先輩は、なんでこんな可愛い鷹矢に、こんなに好かれているんだ。
思わず鷹矢をじっと見てしまうと、可愛くて格好いい年下の友人は怯んだように身を引く。

「なんでそんな目で睨むんだよ!ていうかおかしいだろ!俺より峰兄の女関係に嫉妬しろよ!」
「先輩の女なんてどうでもいい。鷹矢、あんな人のどこがいいんだよ。間違ってる」
「やっぱりお前らおかしいよ!」

鷹矢の悲痛な叫び声と、俺の追及はタクシーが来るまで続いた。



***




ようやく顔の腫れも引いてきて、平穏な日々が戻ってきた。
困ったことと言えばバイト先で、度重なってまった俺の顔の腫れに、店長とバイト仲間に不審な目で見られるぐらいだ。
接客だから、顔の怪我は気をつけないといけない。
先輩は相も変わらず忙しく、俺は体の熱を持て余している。
亜紀さんか工藤にでも頼もうかと思ったのだが、ここまで来ると先輩でたまりにたまった性欲を解消したい気がする。

「おい、明日出かけるぞ。二泊ぐらいするから用意しとけ」

そして二日ぶりにふらりと帰ってきた先輩が、洗濯物を畳んでいる俺にそう告げた。
先輩が遠出することはたまにあるので、準備は慣れている。

「いつものだけでいいですか」
「ああ。お前の分もな」
「は?」

意味を問おうとするが、先輩はそのまま風呂に向かい、風呂を出たら話す暇なくまた出かけてしまった。
幸い、バイトはこの四日間空けてあるが、先輩と遠出したことなんて、今までない。
一回耕介さんの家に連れて行ってもらったぐらいだ。
俺は疑問で頭を一杯にしながら、一応荷造りだけはしておいた。
そして朝方、誰のものとも分からない車と共に帰ってきた先輩にその話が本気だったのだと理解する。

「………本当に出かけるんですね」
「ちゃんと言っておいただろうが」
「どこに行くんですか?」
「着いてからのお楽しみだ」
「はあ」

まあ、先輩がこういう態度を取ってる時は何を聞いても無駄だろう。
さっさと助手席に乗り込んで、シートベルトをつける。
車には詳しくないのでなんの車なのか分からないが、シートも座り心地がよく、エンジン音も静かなため眠くなってくる。
しかし助手席で眠るというのはマナー違反だとは思うので、眠気を覚ましがてら先輩に話しかける。

「最近本当に忙しいですね。個展の準備進んでるんですか?」
「ああ。もう少しで形になる」
「楽しみにしてますね」
「当然だ」

先輩の個展、それは想像するだけで心が躍る。
展示方法すら先輩の色に溢れた、先輩の世界に浸ってられる空間。
俺だけに許された場所で見る先輩の作品もいいが、多くの人に見せるために展示された先輩の作品も最高だ。
前の時は暇があれば行っていたが、君は他のお客さんに迷惑なるから営業時間外に来てくれと鳴海さんに言われてしまった。
今回も、営業時間外に好きなだけ見ていいと言われている。
鳴海さんには迷惑をかけてしまうが、自分の粘着さがこんなところで役に立つとは。

「怪我、もう大丈夫ですか」
「なんともない」
「制作の時、不便じゃないですか?」
「不便だったように見えるか?」
「いえ」

ついこの間、三日間アトリエにこもって彫刻を作り上げたところだ。
一時スランプに陥っていた先輩は、すっかり復活して以前よりも旺盛な制作欲を見せている。
出来あがった作品は、いつもと同じくらい、いやそれ以上の凄みを持っていて、俺を惹きつけてやまなかった。
作品を見れるのは何よりも嬉しい至福の時間。
けれど、先輩に構ってもらえないのもそろそろ辛くなってきた。

「余裕、当分出来ませんか?」
「あ?」
「俺、先輩とセックスしたいです。もう一か月以上してないです。すごくしたいです」

最後にしたのは、先輩の家でだっただろうか。
もう二月の終わりだ。
そう考えると、もうそろそろ二月になる。
先輩は馬鹿にしたように鼻で笑う。

「SM強要はごめんだぞ」
「SM、興味がないですか?」
「プレイならいいが、自傷の道具にされるのはごめんだ」

確かにあの時の俺は、先輩を道具にしようとした。
それ以上の痛みを貰ったら、心の痛みも分からなくなるんじゃないかと思って、先輩に縋った。
先輩の意志も、先輩の人格も、先輩の快楽も何もかも考えなかった。
まあ、この人が俺の道具になる訳もなく、簡単に振りほどかれてしまったが。
あの時先輩が俺の望みを叶えていたら、きっとずっと、痛みに縋るようになっていただろう。

「もう、しません。あんたを道具になんて、恐れ多くて出来ないです」

俺は先輩の道具だけれど、先輩は俺の道具じゃない。
あんな風に利用する気は、もうない。

「でも、縛られたり罵られたり命令されたり軽く傷めつけられたりするのは、普通に結構好きです」

俺は先輩の言うとおり、どうにもマゾっけが強いらしい。
あの時はまた別だが、先輩に乱暴に扱われて罵倒されると、どうにも興奮するようだ。
自分が道具のように扱われると、安心して快楽に耽っていられる。
優しく甘く扱われると、逆にどうしたらいいのか分からなくなってしまう。
先輩は呆れたように肩をすくめる。

「大概だな、変態ドM野郎」
「そうしたのは先輩です。責任取ってください」
「お前のは生まれながらの才能だ」

そう言いながらも、先輩はハンドルを握る左手を離し、俺の喉をつっと撫で上げる。
それだけで熱い息を漏らすぐらい、感じてしまった。

「全部片付いたら、三日は足腰立たなくなるぐらい抱いてやる。サービスでお前の希望通り縛るも殴るもしてやるよ」
「楽しみにしてます」

その約束があるなら、俺はいくらでも楽しみに待っていられる。
先輩は約束を破ったりは、しない人だから。

そんなことをしばらく話しているうちに、俺は結局寝てしまったらしい。
ふと目を開くとそこはまだ高速で、俺は1時間近く寝てしまっていたらしい。
通り過ぎた看板に掲げられた地名に、馴染んだものが混じっている。

「………耕介さんの家に行くんですか?」
「夜にな」
「はあ」

なんでいきなり耕介さん。
あんなに耕介さんのことを嫌っていたのに。
それに、朝早く出たので、このままだと地元に付くのはお昼頃になるだろう。
となると、夜までの時間はどうするのだろう。
見学とかかなと考えて即座にそれを否定する。
あり得ない。
疑問符が頭を一杯にするが、答えを知ってる人は答えてくれる気がないようなので成り行きを見守ることにした。

サービスエリアで軽く昼食を取ってから、先輩は想像通り俺の地元で高速から下りた。
けれど耕介さんの家とは違う方向に車を走らせる。
地名だけは知っているが踏み入れたことのない、近くて遠い場所。
先輩はナビを見ながら車を走らせ、俺を住宅街のど真ん中で下ろす。

「どこですか、ここ」
「そこで待ってろ。車止めてくる」
「はあ」

やっぱり疑問には答えてくれず、さっき目星をつけておいたコインパーキングに行ってしまう。
俺は全く見知らぬ場所に、小さくため息をつきながら辺りを見回す。
まさか置き去りにされたりしないよな。

「………」

周りを何気なく見渡して、俺の視線は一点で止まる。
ざわりと背筋に寒気が走り、全身総毛立つ。

「………な、んで」

思わず出た言葉は、掠れていた。
口の中が乾いて、ぺたぺたと貼りつく。
一歩後ずさると、その背に何かが当たって踏みとどまる。
肩を掴む手は、よく知ったもの。

「………せんぱ、い。ここ」
「全部片付けるぞ」

笑い交じりの言葉で言われて、俺は離せなかった視線の先をもう一度確かめる。
こじんまりとした、二階建ての一軒家。
隣の家と同じ形をしているところを見ると、建売住宅なのだろう。
その玄関先には、ステンレスタイプのスタイリッシュな表札が飾ってあった。

『黒幡』

そこには、そう刻んであった。


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