俺が動揺して立ちすくんでいる間に、先輩はさっさとチャイムを押してしまう。
すぐにインターフォンから、中年の女性の声が聞こえてくる。

『はい』

つい、最近、聞いた、声だ。
もう二度と、聞くことはないと思っていた、声。
思わず縋るように先輩の服を握りしめてしまう。
先輩は気にすることも振り払うこともせずに、インターフォンに向かって穏やかに話す。

「はじめまして、先日ご連絡いたしました池と申します」
『………はい、少々お待ちください』

少しだけ躊躇ったように間が空いてから返答があり、インターフォンは切れた。
思わず隣の先輩を見上げる。

「………連絡、した」

どういうこと。
なんで。
どうして。
俺の家族のことなんて、興味がなかったのに。
焦る俺とは裏腹に、先輩は余裕たっぷりで俺の動揺を嘲笑う。

「ああ、連絡した。弁護士とコウスケさんに聞いてな」
「え」
「あいつらお前が黙ってたことに本気でキレてたから、覚悟しとけよ」

混乱して、何がなんだか分からない。
俺があの人達に相談しなかったと知ったら、耕介さんと新堂さんは確かに怒るだろう。
怒られるのはいいけれど、見捨てられたりはしないだろうか。
いや、あの人達が俺を見捨てる訳がないんだ。
そんなことがあるはずがない。
ああ、そうじゃなくて。

「そんなおどおどしたツラすんな」

先輩が俺の頭を軽く小突く。
けれど不安で怖くてどうしようもなくなって、先輩を見上げる。
吹っ切れたと何度思っても、この家はこの家の人達は何度でも俺を惑わせる。

「だって」
「お前は俺が横にいるのに、安心できないのか?」

先輩はいつもと変わらず落ち着いていて、傲慢で不敵な笑みを浮かべている。
その顔を見ていると、だんだんと心の中で荒れ狂っていた感情が、落ち着いていく。
強い視線と強い心と強い体を持つ人。
強い強い、俺を惹きつけてやまない魅力を持った、誰よりも傲慢な人。
この人に敵う人なんて、いないのだ。

「いえ」

体の震えが、止まった。
そうだ、この人が隣にいれば、何も恐れることはないのだ。
首を横に振ると、先輩はにやりと笑った。

「なら気合い入れろ。お前は俺のものだ。俺以外に壊させない」
「………はい」

そう、俺はこの人のもの。
この人が、自分以外に、俺に手を出されることを良しとする訳がない。
それなら俺は、この人に守られているのだ。

ガシャンと音を立てて、扉が開く。
続けて、ふくよかな中年女性が現れる。

「池さん、ですか?いらっしゃいませ」

記憶にあった時より、幾分か太ったようだ。
皺も増えた気がする。
服も、昔はもっと若々しかった気がする。
けれど年相応の、健康そうな、女性だ。

「どうぞお入りください」

実母は一回も俺に目を合わせないまま、俺たちを家の中に促した。



***




前の家よりは、狭くなった気がする居間に案内され、義父の向かいに座るように言われる。
母はすぐにお茶とお菓子を出してきて、テーブルに置き、自分も義父の横に座る。
手際良く用意されたもてなし。
本当に最初から俺たちはここに来ることになっていたのか。

「よく来てくれたね。池君、だったかな。守を連れてきてくれてありがとう」
「ええ。休日中に押しかけてしまい申し訳ございません」
「いやいや、構わないよ。こうして会えて嬉しい」

義父が鷹揚に笑いながら、先輩に礼を言う。
先輩はにっこりと愛想よく笑いながら頷く。
何度か見た、先輩が顧客を対応している時のようだ。
よく顔の筋肉ひきつらないな。
俺には出来ない芸当だ。

「守、久しぶりだな。すっかり大きくなった。元気そうで安心したよ」

義父が俺を見て、親しげに笑いかけてくる。
こみ上げてくる寒気と吐き気で、眩暈がした。
やっぱり和樹と似ている、男らしく明るい、魅力的な容貌。
しかし若干体はたるんでだらしなくなっているかもしれない。
髪も白髪交じりになって、生え際は後退している。
母の変化と共に、本当に7年経っているのだと思い知る。

「………皆さんも、お元気そうで、よかったです」

何を言ったらいいのか分からなくて、ただ、そう返した。
この人達に会う気なんて、もうなかった。
もう二度と会いたくなんてなかったのに、先輩は何を考えているんだろう。

「今は美大に通ってるんだって?お前は昔から絵がうまかったからな」
「ええ、おかげさまで」

その絵を否定して、和樹が破り捨てても当然だと笑っていたのは誰だっけ。
ああ、でも、俺が賞を取った時は、手の平を返したように愛想をよくしたっけ。
男らしくない、女のようでみっともないと、繰り返し言われては、哀しくて布団で泣いたのを覚えている。

「………」
「………」

俺の愛想のない態度に少しだけ鼻白んだように、眉を顰める。
そう、あなたはそうやって俺の顔を見るたびに、嫌そうな顔をした。

「本当に守来たの?」

居間の扉が開いて、先日会ったばかりの義弟が姿を現す。
その顔にはまだ痛々しい痣が残っていて、俺よりダメージが酷かったのが伺える。
俺が切りつけた腕にも包帯が巻かれていて、少しだけ気分が晴れた。
先輩に迷惑さえかからなきゃ、俺は本当にこいつを消しても後悔しなかった。

「和樹、お前も座りなさい。お前はあっちで守に会ってたんだろう」
「うん」

和樹は義父と母の後ろに置かれていたソファに一人座る。
客の前とか、考える頭はないのか、こいつは。
ああ、違う、俺たちはこいつにとって客じゃないのか。

「和樹も、向こうの国立大学に通っていてね。私に似ないで優秀だ。家も近いし兄弟でまた、仲良く出来るといいな」

自慢げに鼻を膨らませる義父。
国立に行ってるのか。
あの後、落ちこぼれから脱出出来たってのは素直に凄いかもしれない。
性根は全く変わらなかったみたいだけど。

「あの時は分かり会えなくて残念な結果になってしまったが、こうやって池君の取りなしでまた出会えたんだ。これからはまた昔のように家族としてやっていこう」

家族、家族家族。
和樹も母も義父も、まるで魔法の言葉か何かのように繰り返す。
ああ、なんて綺麗な言葉だろう。
そうだね、家族だ。
否定したくても仕方ない、戸籍上、俺は貴方達の家族だ。
今ほどこの言葉が嫌になったことはない。

昔のように家族としてやっていく。
それはまた俺にサンドバッグに戻れと言うことか。
なんでその条件を飲むだなんて、この人達は信じているんだろう。
この人達にとって、俺はどこまでも人間ではないってことが改めて思い知らされる。

「………」
「な、守」

機嫌を取るように笑いかける義父が醜悪すぎて、この場から立ち去りたくなった。
ああ、気持ち悪くて吐き気がする。

「………」

ぎゅっとテーブルの下で手を拳を握りしめると、その手に温かいものが触れた。
大きな手が、隣から俺の手を握りしめている。
いつのまにか俯いていた顔を上げて隣を見ると、先輩が愛想笑いではない嫌みな笑顔を浮かべていた。

そうだ、俺の隣には、先輩がいる。
何も怯むことはない。
何も恐れることはない。
恐怖と不安でいっぱいだった心が、違うもので溢れて行く。
俺は再度、義父の方に顔を向けた。

「………貴方達は、俺に何を求めているんですか?」
「ん?」
「俺と交流を持つことで、貴方達になんのメリットがあるって考えてるんでしょうか」

これまで一切連絡もなかった人達が、今更接触を持ってくる。
それも先輩と一緒の写真を見てから、だ。
何が目的かなんて、最初から薄々は分かっていた。
ただ、信じたくなかっただけだ。
いや、違う。
信じたかった、だけだ。

「メリットって、何を言っているんだ。家族なんだから、メリットだとか考えないのが普通だろう。ただお前ともう一度、家族としてやり直したいだけだ」

一杯になった嫌悪感と怒りで、思わず笑ってしまう。
精一杯穏やかに、俺は義父に笑って見せる。
俺はもう、貴方達の道具ではない。
もう、貴方達の顔色を伺って生きて行かなきゃいけない理由なんて、ない。
俺に、貴方達は必要ない。

「どうして貴方達はそこまで厚顔無恥になれるんでしょうね。不思議です。俺、まだ若いですけど、今までそれなりに多くの人を見てきました。それでも貴方達ほど常識知らずで恥知らずな人達見たことありません」
「なっ」
「どうやったらそこまで自分に都合の悪いことを忘れて、自分に都合のいい記憶に塗り替えられる幸せな頭を持てるんでしょうか。いっそ見習わせてもらいたいです」

ゆっくりと話す俺の言葉に、義父はみるみるうちに顔色を変えていく。
真っ赤になった顔をてからせて、唾を飛ばす勢いで声を荒げた。

「お前は、親に向かってなんて言い草だ!柏崎さんとやらはどんな教育をしてきたんだ!」
「貴方達よりはよっぽど素晴らしい教育を。罵る代わりに褒めてくれました。殴る代わりに頭を撫でて抱きしめてくれました。俺を人間として見てくれて、愛してくれました」

耕介さんとこの人達を比べるのも忌々しい。
そもそもあんな馬鹿を作り上げておいて、教育云々言える幸せな頭が羨ましくすらある。
俺は義父の隣でおどおどとしてお茶を何度も飲んでいる母さんにも笑いかける。
精一杯優しく聞こえるように、なんとか声を和らげる。
普段からあまり感情が出ない顔と声なので、出来ているかどうかは分からないけれど。

「ねえ、かあ、黒幡さんの奥さん。貴方は本当に俺がここに家族として戻ってくることを望んでいるんですか?」
「………っ、あ、当たり前でしょう。あなたは、私の息子なのよ」
「へえ」

母さんは俺とは一切視線を合わせない。
この前、この家に関わるなと言ったその口で、今度は俺の機嫌を取ろうとするのか。
その態度に、酷く落胆した。
いっそ私には今のこの家庭が大事だから近寄らないでと言われた方が、尊敬も出来ただろうに。
これ以上、俺の幸せな過去の思い出を壊すのは、やめて欲しい。
俺は確かに貴方の息子だった。
優しい貴方が、大好きだったんです。
でももう、諦めるしか、ないんですね。

「お前って、本当に変わらないよな。粘着質でうじうじしてて最悪にキモい。義母さんを責めて何が楽しい訳?」

予想外に和樹が母さんを庇うように口を出す。
俺をなじるためなのか、それとも本当に母さんを守ろうとしているのか、どっちなんだろう。
俺は何を言っているんだか分からないと言うように首を傾げる。

「今のって責めたことになるのか?単に質問しただけなんだけど。何かやましいことがあるから責められたって感じるのかな」
「ほんっと、女々しいオカマだな」
「女々しいオカマって褒め言葉なのかなじってるのかよく分からないな。うん、まあ、俺は粘着質でうじうじして気持ち悪いオカマだから、お前達の家族には向かないと思うよ。それで執念深いから、お前達にされたことをいつまでも忘れられないんだ」

どこまでも執念深くて、どこまでも恨みがましいから、いつまでたっても記憶は薄れない。
お前たちを心底許すことなんて、今後一切ないだろう。
それなのに家族になんて、なれる訳がない。

「ねえ、黒幡さん。あんなに存在を無視した俺に今更家族ヅラしようって自分で笑えてきませんか?」
「お前は、まだあんなことを根に持っているのか!お前があることないこと言いふらしたせいで、俺たちは引っ越ししなきゃいけなくなったんだぞ!会社でも変な噂が立つし、お前が俺たちの生活をめちゃくちゃにしたんだ!それを忘れてやろうって言ってるのに、この恩知らずが!」
「あることないこと?あることあることでしょう。そもそも俺が言いふらした訳でもないんですが。自業自得って言葉、ご存じですか?」

俺の言葉に歯切りせんばかりに義父が憤る。
すでに顔色は真っ赤を通り越してどす黒い。
確かに、サンドバックにここまで言われたら人間様は怒って当然だ。

「どちらにせよ確かに恩知らずです。三年と少し、家に置いてくれてメシを食わせてくれたことは感謝しています。学費も給食費も小遣いもきちんと貰いましたしね。あ、ちゃんと食わせてもらったのは最初の一年かそこらでしたっけ。でも養育してもらったのは事実です。例え罵られようと殴られようと無視されようと絵を破り捨てられようと、貴方の世話になっていたのだから文句は言えませんね。貴方に飼われてた家畜ですから、生かされようと殺されようと貴方に従わなきゃいけません」

養ってもらっていたのは、確かだ。
それだけはこの人達に感謝しなければいけないだろう。
けれども、さっさと捨ててくれていれば、もっと感謝していただろう。

「でもすいません、俺、実は人間だったんです。法律で生存権が認められてたみたいなんです。びっくりですね。知らなかったでしょう。あの時は自分でも忘れかけてたんですが、貴方達と離れて思いだすことが出来ました。捨ててくれてありがとうございます、お義父さん。貴方にあれ以上育てていただけなかったのが、俺の何よりの幸運です」

義父が机をたたいて立ち上がり、空っぽになったティーカップを持ち上げ俺に叩きつけようとする。
その一連の動作がスローモーションで見えた。

「このっ」

ああ、当たるなと思ったが、目を閉じることも身じろぐこともしなかった。
当たるなら当たればいい、もう貴方達に傷つけられることはない。
けれどティーカップは俺に当たる直前で、大きな手が受け止めた。

「暴力はよくありませんよ、黒幡さん。さすが和樹さんの親御さんですね。気に入らないことがあるとすぐ手が出る」

ティーカップを丁寧にテーブルに置く手が濡れていたので、俺のハンカチを差し出す。
先輩は黙って受け取って美しい俺の大事な手を拭った。
それから楽しむような表情を浮かべて俺の顔を見る。
全身から力が抜けて、息が軽く上がっていたことに気づく。

「珍しくよくしゃべったな」
「………しゃべりすぎて疲れました」
「じゃ、休んどけ」
「はい」

久々に感情を荒げて長くしゃべったので、疲れてしまった。
興奮したせいか、頭ががんがんする。
いつの間にか、体中に力が入っていたようで、どこもかしこも強張っていた。

「とりあえずお座りください、黒幡さん」

まだ立ち上がって憤っている義父を、先輩が穏やかに促す。
俺の仲間であるところの先輩を上から忌々しく見つめる義父。
けれど先輩は勿論気にすることなく、にっこりと愛想よく笑う。

「この前の和樹さんの守君への暴行と言い、訴えられても文句は言えませんよ。もう少し理性的に動いたらいかがですか?」

先輩の言葉に反応したのは、義父ではなく和樹だった。
ソファから身を乗り出して、抗議する。

「なっ、それならお前が俺を殴った方が酷かっただろうか!」
「何か証拠があるんですか?」

けれど先輩は鼻で笑い飛ばす。
そのふてぶてしい態度は、もしやられたら腹が立って仕方ないだろうなと思う。

「こちらはきちんと貴方に殴られ首を絞められた痕の写真も撮ってありますし、医者から診断書も貰っています。貴方がうちで暴れて物を壊した形跡も取ってあります。しかるべきところに出せば貴方の指紋だとか色々出てくるでしょうね」
「………ふ、ざけんなっ」
「勿論7年前の虐待の記録もまだ取ってあるんですよ?それを提出すればどちらを有利かなんて火を見るより明らかでしょう。軽率な発言は慎んだ方がよろしいかと思います」
「この、変態野郎っ」

先輩は酷いだけで変態ではないと思うけど、口を挟む隙はないので黙っておいた。
和樹は今度は俺に視線を向けて、精一杯俺の優位に立つように馬鹿にして笑う。

「柏崎ってじじいも、こいつも、そのケツで喰らい込んだんだろ、このオカマ。せいぜい具合のいいケツなんだろうな」
「耕介さんは違うけど、確かに先輩は俺の体で手に入れた」

そこで俺はふと疑問に思って隣の人を見上げる。

「んですかね、先輩」
「まあ、それでいいんじゃね?」

先輩も少しだけ首を傾げて頷いた。
そういえば結局どの辺が先輩にとってよかったんだろ。
俺たちのやりとりに、いまだに突っ立ったままだった義父がまたテンションを上げ始める。

「男同士でなんて、気違いが!こんなカタワになるなんて、柏崎って男の方こそ虐待じゃないか!あの男が、守をカタワにしたんだろう!」
「すごいレトロな言葉ですね。懐かしい。それも侮辱で訴えられても文句は言えませんよ?」
「………っ」

冷静な先輩のつっこみに、義父はそれこそ血管が破けそうなほど顔を真っ赤にする。
その義父を見て呆れたように肩をすくめ、先輩はもう一度座るように手で促す。

「落ち着いてください。俺は貴方達を責めるつもりはないんです。そんな暇でもないですし。さっさと本題に入りますね。率直に言います。ずっと放置してたこいつにもう一度近づいたのは、金目当てですよね。この不況で黒幡さんの会社も大分苦しいとか。減給にボーナスカット。ローンも残ってるし、国立とは言え大学生の息子に、まだ幼い娘さん。辛いですよね。なんとかしてこいつを利用してその保護者や俺から金を引き出したかったんでしょう」

義父と和樹は、先輩の言葉に悔しそうに顔を赤らめながら何かを口の中で呟いていた。
なんだ、本当に図星なのか。
心底呆れる。
ふと見ると、母さんはずっと俯いて青い顔をしていた。

「でも、柏崎さんから引っ越しや家の売却、購入の際に大分面倒見てもらって、融通してもらっているって記録があるんですけどね。どうしたんですか、あの時の金」

それは、初耳だ。
その言葉に、ますます俺の中でのこの人達への嫌悪感と怒りが増して行く。
耕介さんにあの時、そんなことをしていて、今もまたいけしゃあしゃあとたかりに来ているのか。
今すぐにでも殴り倒して、耕介さんから盗み取った金を返却させてやりたい。
それから、耕介さんに土下座して謝りたい。
そんなことしても、あの人は困ってしまうだけなんだろうけど。

「それがあるから今回もうまく金をせしめられないかとか思ったんですかね。ああ、いいんですよ。その代わりにこいつに直接近づくなって約束も破っていることも気にしてませんから」

先輩が穏やかで冷静な口調で、けれど嫌みたっぷりに追いつめる。
苛立ちとムカつきが止まらない。
俺がこいつらの家族だったせいで、耕介さんにこんなにも迷惑をかけていたなんて。
先輩にも迷惑をかけている。
それなのに俺はこいつらに甘言に乗せられ迷った、大馬鹿野郎だ。
和樹の言葉を聞き入れそうになった時の俺を、殴ってやりたい。

「少なくともこいつを3年と少し、でしたっけ?養育していただいた恩はあります。お金をお貸しいたしますよ。勿論無利子で」
「え」

先輩の続く言葉に、義父と和樹と、更には母まで顔をあげた。
目を光らせて、先輩を食い入るように見ている。
金は確かに大事だろうけど、余りにも浅ましくて笑えてくる。
先輩はハイエナ共を軽蔑する様子すら見せずに、あくまで穏やかに笑う。

「言い分でお貸ししますよ。本当は贈与してもいいのですが、税金関係が面倒ですから。借用書を作って年にいくらかでも返済している形跡があれば問題はありません。いくら欲しいですか?ああ、自分からは言い出しにくいですよね。ではこの程度でいかがでしょう」

先輩はジャケットの胸ポケットから、いつの間に入っていたのか小切手を取り出してサラサラと金額と記載する。
宝くじの一等賞とまでは行かないが、貧乏人の俺には見たこともないゼロの数で、思わず俺までビビって黙ってしまう。

「………」
「………」
「………」

座り込んだ義父も、いつの間にか義父の後ろに来ていた和樹も、母も、みんなその小切手を見つめる。
誰かがごくりと唾を飲み込む音を聞いて、俺はようやく我に返る。

「先輩」
「お前は黙ってろ」
「でも」
「うるさい」

なんでこんな馬鹿なことをするのか問いだしたくても、先輩はすげなく俺の方を見ようともしない。
俺のためにこんな金を出させる必要はない。
ていうかそもそも、先輩はここまで金を持ってないはずだ。
いくら作品が高値で売れてきているとは言え、ここまでの資金を用意できるはずがない。
この金は、どこから出てきてるんだ。

「………そういう、ことでしたら」
「まあ、俺の家でそいつメシ食わせてやったし、学費とかも出してやってたし」

最初の衝撃から立ち直ったのか、義父と和樹が嫌らしく笑う。
ああ、本当に気持ち悪くてゾワゾワと鳥肌が立つ。

「そうですか。それではお貸しするに当たって、いくつかの条件がありますので聞いていただけますか?」
「なんでしょう」

急に愛想がよくなり揉み手をせんばかりの義父の態度に、心底うんざりした。
本当にすっきりと、これで思い入れをなくすことが出来そうだ。

「まずは、今後一切柏崎家、池家、こいつへの接触は控えてください」
「まあ、それは、はい」
「細かい条件は書面化してありますので、後でご確認の上署名をお願いします」
「はい」

あっさりと義父は頷いた。
和樹も異論はなく、母もただ黙っていた。
一度だけ視線があったが、慌てて逸らされる。
分かってはいた。
貴方達が、金さえ手に入れば俺のことなんてどうでもいいってことは分かってた。
それでも胸の痛みは、まだくすぶっている。
けれどこれは必要な痛み。
未練の最後の一つまで、綺麗に断ち切ってくれてありがとう。

「ではもう一つ」
「はい、なんでしょう」

先輩は、更に言葉を続ける。
義父はにこやかに、返事をする。
愛想よく穏やかに笑ったまま、先輩は優しくすら聞こえる甘い口調で言った。

「土下座してください。いますぐここで。家族全員で貸してくださいお願いしますと哀れっぽく頭を床になすりつけて懇願してください」


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