夢だ。 これは、夢だ。 はっきりと分かる、明晰夢。 赤い赤い世界。 夕暮れの中、赤いアスファルトに長く伸びた影が二つ並ぶ。 一つは長く、一つは短い。 ちくはぐな影は、けれど真ん中で結ばれている。 「守、お誕生日何が食べたい?」 母さんが、俺を見て目を細めて笑っている。 つないだ手が、ちょっとだけガサガサしていて、でも温かくてふっくらとしていて気持ちがいい。 休日もなく忙しく働いていた母さんと歩く、たまにあるゆったりとした夕暮れ。 ただスーパーへ行くだけの短いお出かけ。 でもこの日だけは好きなお菓子を買ってもらえる。 そして何より、母さんとずっと一緒にいれる。 嬉しい時間。 俺の大好きな時間。 「焼きそば!」 「もうちょっと、いいものでもいいのよ?」 母さんがちょっとだけ呆れたようにくすくすと笑う。 見上げると、夕暮れの赤の中、母さんがとても優しげに笑っていて、俺は胸がいっぱいになる。 「でも、僕、お母さんの焼きそばが一番好き!」 母さんの焼きそばは、天かすときゃべつがいっぱい入っていて、とても美味しい。 日曜日には必ず作っておいて置いておいてくれた、定番の料理。 それを食べるのが楽しみで、外で遊んでいたっていつだって駆け足で家に帰った。 「ありがとう、守」 「わあ!」 母さんが笑いながら俺をぎゅっと抱きしめてくれる。 柔らかい腕といい匂いに包まれて、俺も嬉しくて嬉しくて自然に笑ってしまう。 「あのね、お母さんは、守のことが一番好きよ。守が大好き」 「僕も、僕もね、お母さんが一番好きだよ!お母さん大好き!」 俺もお母さんに抱きついて、一生懸命教える。 母さんのことを大好きだってことを。 くすぐったくて、気持ち良くて、温かくて、嬉しくて。 嬉しくて嬉しくて嬉しくて。 胸がいっぱいになって、ズキズキと痛む。 嬉しいのに、胸が痛い。 痛くて痛くて、泣き叫んでしまいそう。 どうして嬉しいのに、こんなに、苦しいほど痛いのだろう。 そんなの、簡単だ。 それは、これが夢だって分かってるから。 いつか、こんなことがあった。 いつかあった風景。 でも、これは、過去の風景。 今はもうない、風景。 「お母さんの方が、守のこと、もっともっと大好きよ!」 母さんが、優しく優しく笑っている。 柔らかい腕が俺をぎゅっと、抱きしめてくれる。 優しいいい匂いに、包まれる。 早く夢から覚めたい。 覚めたくない。 駄目だ、目を覚まさないと。 目を覚ませ。 覚ませ。 覚ませ。 ここにはもう、いたくない。 いたくないんだ。 「………あ」 目を開くと、見慣れた煤けた天井が視界に飛び込んでくる。 優しい匂いは過ぎ去って、古い家の埃臭さと油の据えた匂いが鼻をつく。 心から安心して、大きく呼吸をしてもう一度その匂いを吸い込む。 懐かしくて、落ち着く匂い。 ここが、俺の今の場所。 「………」 窓の外はまだ夜が明けきってないらしく、部屋の中は薄暗い。 ゆっくりと体を起こすと、軽く頭痛がして頭を抑える。 狭い五畳半の部屋には、本が積み上がり、課題が置いてある。 ここが俺の今あるべき場所。 急速に蘇るリアリティ。 あれは、ずっと過去の話。 とっくの昔になくなった、現実。 あれは夢。 ただの夢。 分かっている。 それなのに、痛みが消えない。 「黒幡、また顔色悪いな」 松戸が心配そうに男らしい太い眉を顰める。 期末の試験とレポートで追われている中、今日も時間があったので三人でメシを食っている。 松戸はサークルに入ってて友達も多いし、大川も同じ学科の子と食べる時もあるし、他にも仲のいい奴らが入ってくることもある。 でも、三人でいることが一番多い気がする。 「そう?」 「うん」 眠れないし、あまり食欲もない。 夏バテした時のような症状だ。 確かに最近、体がだるい。 今日は栄養のあるものを食べて、バイトが終わったら早めに風呂に入って寝よう。 少しウォーキングしてもいいかもしれない。 疲れたらよく眠れるだろう。 「本当だ、大丈夫?」 「大丈夫」 大川も心配そうに顔を覗き込んでくるので、軽く笑って首を横に振る。 体は資本だ。 体調管理は基本中の基本。 こんなクソ忙しい時に、倒れている暇はない。 「また池センパイとヤりまくってるんじゃないの?」 「やめなさい大川」 にやにやしながら聞いてくる大川に、松戸がすかさずつっこむ。 二人は本当に息がぴったりだ。 松戸と大川ののやりとりを見ていると、自然に笑いがこぼれてしまう。 「先輩、今忙しそうだから全然ヤってない」 「へえ、院に行くんだよね?院試ももう終わってるよね?」 「うん、制作でね」 「あー、なるほど」 納得したように、うんうんと頷く大川。 先輩とは正月明けに一回先輩の家に行った時以来、まともに話してない。 セックスもあの時以来していない。 「あ、明日さ、黒幡も大川もバイトないよな?なんか予定入ってる?」 「私は大丈夫だけど、何?」 「俺も平気」 大川と俺が答えると、松戸はにかっと歯を見せて笑った。 邪気のない、ほっとするような笑顔。 同じ子供のような笑顔でも、あいつは全然違う。 「鍋しようぜ、鍋!俺の家で!黒幡も栄養つけようぜ!」 「何、唐突に」 突然の申し出に大川は不思議そうに首を傾げる。 すると松戸は途端に眉を垂れ下げて、困ったように短い髪を掻きまわす。 「なんかさ、実家からものすごい量の白菜が………」 「あ、なるほど。実家からの贈り物ってたまにものすごいよね」 ガタイのいい男の情けない声に、大川も似たような苦笑を見せる。 松戸がふっと、ため息をつけて肩を落とす。 「うちじいちゃんの家が農家だから大量に野菜送ってくるんだよなあ。俺料理下手だし、食べきれないって毎回言ってるのにさ。缶詰とかレトルトの方が嬉しい。母さんにいっつも言ってるのに大量に詰めてくる」 「生ものは本当に困るよね。うちもお母さん栄養心配してるのかなんなのか知らないんだけど、この前豆乳のパック3ダース送ってきた。皆に配ってるんだけど、全然減らない」 「豆乳ってなんで」 「分からないよ。その前はめかぶを一ダース」 「なんの嫌がらせだよ!」 「なんかテレビで吹き込まれてるんだと思うんだよねえ」 「あー、うちの母さんもそんなだ。この前テレビで見たとか言って日本茶を段ボール一杯に送ってきてさ。飲めないって!」 「主婦にテレビって、危険だよね」 「健康番組を廃止してやりたい」 ぶつくさと文句をこぼす二人だが、しかしその顔は苦笑が浮かんでいる。 その言葉の端々に、隠しきれない親愛の情が滲みでている。 困るといいながら、愛情溢れる贈り物は嬉しいものなのだろう。 二人の話はだんだんと実家からの贈り物から、母の話に移っていく。 「そうそう、この前お母さんからメールが来たんだけど、全部濁点がなくてさ」 「濁点?」 「そう。『お元気ですか?食べ物送ったので食べてください』が、『おけんきてすか?たへものおくったのてたへてくたさい』になってた」 「ぶ」 「しかもメッセージ欄じゃなくて件名に書いてるの」 「やばい、母ちゃんかわいい!萌える!」 「腹筋崩壊するかと思ったよ!」 「そういや、うちの母ちゃんもさ、この前関ジャニ∞を、せきじゃにむげんって読んでさ」 「ぶはっ!!!!やばい、松戸母ちゃんレベル高い!」 二人は楽しそうに、うちの母ちゃん自慢を始める。 中学の頃も、高校の頃も、大学に入ってからも、こういう会話はしょっちゅう繰り広げられる。 いつもは周りの母の話を聞いていて、俺が思い浮かべるの千代さんだ。 母性に溢れる、老年の女性。 背筋をぴんと伸ばしてきりきりと動く女性だから、皆の言うお母さんとはイメージが違うが、俺にとっての母性は、彼女だ。 けれど、今日は別の人が脳裏に浮かぶ。 「黒幡のお母さんはどんな感じなの?」 「え、と」 大川が楽しそうにこちらに聞いてくる。 普段だったらここで、俺は千代さんの話をする。 料理もおいしくて、家事は万能で、完璧な人だよ、と。 マザコンなんだと言われても、俺は保護者が大好きなのだと胸を張って言える。 「俺は」 けれど、なぜか、今日口から出てきたのは違う言葉だった。 「俺は、母さんとは家を出てから話してないな」 あの日、耕介さんに助けてもらってから、母さんの声すら聞いていない。 最後に聞いたあの人の言葉は、なんだっただろう。 あの人の顔は、どんな表情を浮かべていただろう。 「何?反抗期?」 「………そんなものかな」 「反抗期もほどほどにね。もう成人もしたし、親は大事にしなきゃ。ここまで育ててくれて大学まで入れてくれたんだから」 大川が、軽い口調ながらも、少しだけ真面目な顔で諭してくる。 俺は、曖昧に頷いた。 それは、確かに感謝はしている。 中学のあの時点まで、俺を育ててくれたのは、実父と母さんと黒幡の父。 黒幡の家に引き取られてからは、少なくとも必要最低限の生活で困ったことはない。 小遣いは貰えたし、学校にも行かせてもらったし、家にある物を使っても両親に文句を言われることはなかった。 「俺も、一人暮らし始めてから母さんのありがたみ分かったなあ。何よりメシがうまい」 「毎日帰ったらご飯が出来てるって本当によかったよねえ」 松戸と大川が、今度は困った母ちゃんネタから、ありがたい母ちゃんネタに話を移行させる。 母さんのご飯で好きだったのは、天かすと野菜がいっぱい入った焼きそば。 日曜日の昼は必ず作って置いておいてくれた。 黒幡の家に行ってからは、食べることはなくなってしまったけれど。 毎日帰って、冷凍食品を温めて食べた。 完全に食事が別になってから、千代さんがおいしい和食を食べさせてくれた。 「黒幡もたまには、お母さんに電話してみたら?ありがたみが分かるかも」 「そうそう。うざいけど、やっぱり懐かしいんだよな」 「え、松戸マザコン?」 「違う!」 男は皆マザコンなんだから、と大川が笑う。 俺もマザコンなのだろうか。 だから、いまだに、あの人のことを忘れられないのだろうか。 いや、忘れていた。 忘れていたと思っていたのに。 ついこの間まで、思いだすことなんて、なかった。 「二人は、母さんのこと好きなんだな」 聞くと、二人は戸惑うように、視線を彷徨わせる。 「好きっていうのは、なんか、照れるん、だけ、ど」 「なんかそれこそマザコンぽいよなあ」 照れてもごもごと言葉を濁らせる大川と松戸。 けれど、大川がはにかみながら可愛く笑って、答えた。 「でも、やっぱり家を出てからよく分かる。親って私のこと、大事にしてくれたんだなあって」 子供を愛さない親はいない。 家を出てから分かる、親のありがたみ。 何度か聞いたことのある言葉。 『親父と義母さんも会いたがってたよ』 それなら俺は、愛されていたのだろうか。 今なら俺も、彼らを愛することが、できるのだろうか。 |