「弁当、無駄になるな。重かったのに」

彼が口を尖らせて、持っていたバッグをぶらぶらと振り回す。
そんなことしたら弁当の中身が寄ってしまいそうだが、その仕草が微笑ましかったので黙っておいた。
今日のはかなり手が込んでるんだぞ、と朝に胸を張って言われた。
楽しみにしていたが、この天気では外では食べれないし、弁当を食べれるような屋内の場所もない。

「帰ってから食べよう。お昼はどこかで何か温かいものを食べよう」
「くそ、美晴とラブラブランチだったのに」
「それは残念だ」

彼と二人で食べる弁当は、きっと美味しかっただろう。
でも、家に帰ってから食べればいい。
寒い中無理をして、彼が風邪を引くのは望ましくない。

傘をさして歩く桜並木は、雨のせいと朝早いせいもあって人が少ない。
雨に濡れる桜は、それはそれで風情があって美しかった。
もう葉も混じって終わりの時期だが、桜は散り際が一番美しいと思う。
彼と一緒に見れてよかったと思った。

真冬に逆戻りしたかのような冷たい風が吹き付ける。
健気に木にしがみついていた桜が枝から引き離され、一斉に視界を薄紅に染める。

「見て、超綺麗!」

彼が傘を放り出して駆け出す。
薄暗い空の下、薄紅の霧雨に視界がはっきりせず、彼の姿が一瞬消える。

「美晴、ほら!」

満面の笑みを浮かべて、両手を広げ、僕を振り返る。
その笑顔がとても綺麗で、とても眩しくて。
そして、とても遠く儚く感じて、どうしようもなく不安になった。
胸が締め付けられるような切なさと、街中で迷子になったような心細さを感じる。

そして突然、堤防が決壊したように、感情が一気に溢れ返った。

「な、どうしたんだ!?」

彼の表情が、瞬時に驚きに変わる。
気がつけば泣いていた。
ぼろぼろと、自分の目から熱いものが流れていくのが分かる。
けれど、止める気にもならない。

今までため込んできていた感情が、溢れていく。
熱くて、苦しくて、辛くて、でも大事な感情が、胸を溢れていく。
心の中でギリギリに保たれていた感情が、ついに零れて、僕の全身を飲み込んでいく。

「美晴、どうしたの!?」

彼が駆け寄ってきて、僕のすぐ前に立つ。
少しだけ低い位置にある視線が、心配そうに僕を見上げている。
愛しさがこみあげて、胸が詰まって、息ができない。

「嫌だ」
「へ?」
「嫌だ」
「何が?」

彼が怪訝そうに眉をひそめる。
伝えたいことが沢山あるのに、うまく言葉にできない。
彼を前にするといつもそうだ、意思を形にするのが難しくなる。
ただ、子供のように、それしか口に出来なかった。

「美晴?」

彼の口から紡がれる僕の名は、宝石のように綺麗なものに感じる。
名前を呼ばれるだけで、彼に見られるだけで、涙と想いが溢れてくる。
愛しい、愛しい、愛しい。
感情の波が大きすぎて、自分がコントロールできない。

「君がいないのは、嫌だ」
「は?」
「嫌だ、君が、僕の側にいないのは嫌だ」

ああ、我儘だ。
僕はとても我儘だ。
聞き分けのいい、手のかからないいい子でなんか、いられない。
そんなものに、なりたくない。

彼を失いたくない。
彼がいないと嫌だ。

「君が、僕ではない誰かを好きになるのは、嫌だ」

不思議そうに僕を見ていた目が、揺らぐ。
驚きと理解に、感情が揺らぐ。

「君が幸せで、笑っていられればいいと思った。でも、僕の前で笑っていないと嫌だ」

僕のいないところで君が笑うなんて嫌だ。
君が笑うのは、僕のためであってほしい。
僕のこの手で、君を幸せにしたい。
君の幸せは、僕と一緒であってほしい。

「君の一番好きな人が、僕でないと、嫌だ」

喉がひきつれて、変な声が出る。
君が他の人間を見たら、嫉妬で狂ってしまいそうだ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
彼女にも誰にも、彼を渡したくない。

「本当に馬鹿だなあ、お前」

彼が、困ったように眉を寄せて笑う。
その呆れたような声に、心が竦む。

「ばーか」

呆れられただろうか。
彼に嫌われただろうか。
思わず入った力に気付いたのか、彼が労わるように僕の頬に手を伸ばしてきた。
さらっとした感触の手は、雨にぬれて今は湿っている。

「何度も言ってるだろ。ちゃんと覚えておけよ。好きだよ。美晴が好き。一番好き。側にいる。大好き」

何度もねだってもらった言葉。
今もけぶるように笑いながら、与えられる貴重な言葉。
それは温かくて優しくて、冷え切った体に熱がともる。
苦しくて、息が出来ない。

彼の存在が怖い。
彼の存在が尊い。

何も言えない僕を見上げて、彼は悪戯ぽく笑った。
そして大きく手を広げる。

「美晴、雨に濡れて寒い」
「………あ」
「俺のお願い。あっためて」

促され、何かを考える暇もなく、その体を腕の中に閉じ込める。
僕よりもずっと頼もしく強い人なのに、壊れもののように儚く感じる。
壊れてしまわないように、そっとそのしなやかな体を抱きしめる。
小さく笑った気配がして、彼の腕が僕の背中を強く抱く。

「美晴の一番は俺がいい」

楽しげに、歌うように彼が言う。
その言葉が、どれだけ僕の心に影響をもたらすか、彼は分かっているのだろうか。

「美晴に傍にいて欲しい。美晴が笑うのは、俺の前がいい」

どうしてこの感情を見ないふりをできたんだろう。
熱くて苦しくて、制御できない。
一度堰き切った感情は、今まで抑え込まれていたのが嘘のように、止めることができない。

「好きだ…」
「うん」
「好き、好きだ………っ」
「うん、俺も好きだよ」

好きだ好きだ好きだ。
もう離したくない。
失いたくない。
愛しくて眩暈がする。
彼が僕を好きになってくれたことが、きっと天文学的な奇跡。

「………君が、一番好きだ」

彼の体が小さく震える。
それをなだめるように、手に力を込めた。

「………うん、俺も、好き」
「好き、好き、好きだ。君が好きだ。誰よりも何よりも好きだ」

彼の言葉が震えている。
その震えさえ愛しくて、彼の全てを僕だけのものにしてしまいたい。
自分の独占欲に、呆れさえする。
吐く息すらも逃したくなくて、腕に力を込める。

「うん………、ありがとう、美晴。好き、大好き。美晴が好き。一番好き」
「傍にいて、僕を嫌わないで、僕は、我儘で馬鹿でつまらない人間だけど、それでも、傍にいて。駄目な人間だけど、僕を好きでいて」

聞き分けのいいことなんて言わない。
もう言えない。
僕に利用価値がないとしても、彼にとってなんの益ももたらさないのだとしても、それでも、傍にいてほしい。

「美晴は確かに鈍感でとろくてどうしようもない馬鹿だけど、でも好き。大好き。そんなところも好き。いいところも好き。頭よくて運動神経よくて、なんでも出来る美晴も好き」

彼が笑いながら、僕を抱く手に力を込める。
この手はどうして、こんなにも優しく、こんなにも頼もしいのだろう。

「君が我儘を言っていいって言ったんだ、君が教えたんだ、君が僕を我儘にした。だから、我儘な僕を嫌いにならないで。僕の傍にいて。ずっといて」

我儘を言っても、許されると、彼が教えてくれた。
我儘を聞いてもらい、そして叶えてもらえる喜びを、彼が教えた。
もう、知らなかった時には、戻れない。
もう、自分を誤魔化すことはできない。

僕はどこまでも彼に我儘を言うだろう。
彼が呆れて愛想を尽かすかもしれないほどに、我儘を言うだろう。
でもそれでも傍にいて。
お願いだから、傍にいて。

「うん、もっと言って。俺も言うから、もっともっと言って。もっと聞きたい。もっと我儘言って。俺を嫌いにならないで。俺を好きでいて」

いつかの聡さんの言葉が、蘇る。

本当だ聡さん。
恋とはなんて素晴らしい。
世界が色づき、視界が広がっていく。

許し、許される。
与え、与えられる。

ああ、ようやく理解した。
これが、恋だ。
この感情は確かに恋だ。
激しくて熱くて、飲み込まれてしまいそう。
そして優しく愛しく、指先まで温もりがともる。

ただ、彼に乞う。
ただ、彼を乞う。

「君に会えて、よかった」

ただひたすらに、感謝する。
この腕の中の存在に出会えたことを。
愛しい人を、抱きしめられるこの奇跡を。

君に恋した、この日々を。






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