君の着飾る姿に惑い、
君が語る言葉を信じ、
君が紡ぐ夢を見る。

君がそれを望むなら、何より優しい偽りを。
けれど歪つな真実の、甘美な味で俺は酔う。



***




緑を失い、そして俺は睦月をも失った。

最初、叔父から電話を受けたときは、何かと思った。
いつも冷静な叔父が、焦った様子で支離滅裂な発言を繰り返している。

『睦月が、今からそちらに行くと思う。頼む、こちらに連れてきてくれ』
『……睦月がどうかしたんですか?』
『睦月が、いや、緑が、違う、睦月が……』
「叔父さん?」

その時、チャイムが鳴り響いた。
混乱している叔父にひとまず断って、俺はインターフォンに視線を送る。
ぞっとした。

「み、どり……?」

そこにいたのは、紛れもなく緑だった。
なんの、冗談だ。
緑は、もういないはずだ。

『省吾、開けて』

甘く、高い声。
なんだ、なんなんだ。
これは一体、なんなんだ。

頭の片隅では、分かっている。
これが、何を指しているのかは分かっている。
けれど、心が受け付けることを拒否している。

震える手で、エントランスの鍵を開ける。
俺は、恐怖していたのだと思う。
とびきりの、悪夢だ。
あの時からずっと続いている、悪夢がまた終わらない。

そして、部屋のチャイムがなる。
何も考えられずに、ふらふらと玄関に向かい、鍵を開ける。

「省吾!」

華やかな笑顔で、俺の首に巻きつく細い腕。
体型の目立たない緩やかな服は、どうしても女性としか見えなくて。

なんで、こんなに狂ってしまった。
どこから、壊れてしまった。
何より愛しい存在が、おぞましく俺の罪を突きつける。

そして、そこには、やはり、『緑』がいた。



***






そうだ、俺がすべてを壊した。
緑を利用し傷つけ失い、そして睦月をも、壊した。

叔父さんと叔母さんは、緑を失ったばかりの混乱の中にいた。
失った娘のふりをする息子を、どうしたらいいか、分からなかった。
それが似ていれば似ているほど、二人は余計に失った現実を強くする。
二人には、睦月を受け入れられなかった。
悪い言い方をすれば、壊れた睦月まで見ている余裕がなかった。

だから、俺が睦月を引き取った。
緑を失って壊れてしまった睦月と、親父の別荘で二人で暮らしている。

それは精神をすり減らすような痛みを伴う生活。
日々、自分まで壊れていく感覚がする。

「省吾」

そう言って笑う『彼女』は、緑そのものだ。
大輪の花のように華やかに笑う。

甘えて媚を含んだ声で、俺を呼ぶのは、緑。
化粧の味のする唇で、キスをするのは緑。
甘い匂いのする体で、腕を巻きつけるのは、緑。

密やかに控えめに笑って、臆病に人を伺っていた従弟は、どこにもいない。
俺の欲しかった、睦月が、いない。
ここにいるのは、緑のふりをした、誰か。

睦月ではない。
けれどやはり、緑でもない。

緑を追い詰め、そしてお前もそこまで追い詰めたのか。

いつでも姉の言うことを聞いて、姉の影に隠れていた睦月。
姉を失ったことが、耐えられなかったのか。

その行動の、一つ一つがまさしく緑で、どれだけ睦月の中で緑が大きかったのか、分かる。
たまに、耐え切れなくなって、お前は睦月だと訴える。

けれど睦月は認めない、それでも突きつけると癇癪を起こして暴れる。
半狂乱になって泣き叫ぶ。

「睦月はいない!睦月なんていらない!緑だけいればいい!」

自分を否定し続ける睦月を見ていられなくて、俺はそれを仕方なく認める。
すると安心したように首に腕を絡める。

「大丈夫よ、省吾には緑がいるから、そんな悲しい顔をしないで」

無理をして作った高い声で、優しく俺を慰める。
緑は俺が追い詰めた。
睦月は俺が壊した。

その両方を、常に突きつけられ続ける。

腕の中に収まる細く華奢でしなやかな体は、何よりも誰よりも愛しいのに。
愛しい人間が、それを認めない。
拷問だ。
これが、俺のやってきたことへの、罰か。

「省吾は、緑が好きでしょう?」
「………俺は、お前が好きだよ」

けれど、俺は絶対に睦月を緑とは呼ばなかった。
せめてもの抵抗。
告げたくて、でも告げられなかった想いを、こんな形で口にする。
俺は緑ではなく、お前が好きだった。
それが、すべての始まりで終わりだった。
でも、捨てられない、諦めきれない想い。

「省吾は、緑が欲しくないの?」
「俺は、今のお前を抱く気はない」

俺が抱きたいのは、緑ではなく睦月。
緑を愛そうとして、それでも捨て切れなかった衝動。
それが間違った欲望だとよく知っていたのに、諦めきれなかった想い。
今更、覆せるはずもない。

抱きしめ、キスをして、同じベッドで寝る。
睦月としたかったそれを、今している。
でもこれは、睦月ではない。
俺の愛した従弟は、どこにもいない。
誰よりも愛しい人は、俺に別の人間を愛することをねだる。
苦しくて、少しづつ少しづつ本当に自分が病んでいくのを感じる。

時折、もうこのままでいいのではないのかと、思う。
緑は帰ってこない。
睦月も帰ってこない。
だったら、今の緑の形をした睦月を、愛せばいいのではないのか。

細く白い首も、しなやかな硬い体も、赤い唇も。
それは全部俺の愛した睦月のもの。
だったら、もういいのではないだろうか。
欲望のまま睦月を抱いて、緑と暮らせばいいのではないのだろうか。

それが、幸せなのではないだろうか。
睦月も緑も、二人を幸せに出来る。
むしろ、睦月が元に戻ったら、俺の手には入らない。
想いを告げたところで、軽蔑されて、嫌われて、緑を追い詰めたことを罵られるのがオチだ。
だったら、今のままでいいのではないだろうか。
そうしたら、睦月を手に入れられる。

こんなこと、考えること自体、病んでいる。
けれど、緑のふりをする睦月を暮らしていると、もはや何が現実か分からなくなってくる。
二人きりの閉ざされた空間で、何が正しいのかが分からない。

無性に逃げ出したくなる。
自分が狂う前に、逃げ出してしまいたい。

でも、俺は、逃げられない。
俺の罪を、償わなければいけない。



***




睦月が作る食事を食べて、睦月の語る話を聞いて、睦月を腕に抱いて寝る。
緑が好んだ食事を食べて、緑が好んだ話を聞いて、緑の姿をした誰かを抱いて寝る。

俺が今一緒にいるのは、誰だ。
睦月だ。
それは、睦月。
緑ではない。

大丈夫、まだ俺は、正気でいる。
ここにいるのは、睦月だ。

壊れてしまった、可哀想な睦月。
元に戻るまで、一緒にいなくては、いけない。
辛くて、逃げ出したい。
けれど、逃げ出してはいけない。

それにしても、なぜ睦月はここまで緑に固執するのだろう。
仲の良くない、姉弟だった。
よく似た面差しをしていた双子だったのに、中身はまるで正反対で。
緑は睦月を嫌悪し、睦月は緑を畏怖していた。
二人の不和の原因は、もしかして俺にあったのかもしれないけれど。
二人はもう、幼い頃からお互いを倦厭していた。

いつも言うことを聞いていた姉を失って、頼るところをなくしたからかと思った。
だが、睦月は確かに姉を恐れ、機嫌をいつも伺っていたけれど、姉に頼るようなことはなかった。
緑がいなくなっても、睦月が失うものはほとんどない。
なぜ、そんなにも、緑になりたがる。

まるで別々の人間だった二人。
興味も、振る舞いも、何もかもが別々だった。
それなのに、睦月はこんなにも、緑にそっくりに振舞える。
ずっと、緑を見ていたのか。

『綺麗なのは、緑だ』
『緑は、明るくて可愛くて、皆に好かれるから』
『俺は、情けなくて、どうしようもない』
『俺がいてもいなくても、一緒だ』

いつも必要以上に、緑を理想化し、自分を卑下していた。
卑屈で臆病で、明るく社交的な姉をいつも羨んでいた。

憧れていたのか、緑に。
睦月は、緑になりたかったのか。
だから、今緑になっているのか。

緑に、成り代わろうとしているのか。
睦月を捨てて、緑に成り代わろうとしているのか。
そこまで自分が嫌いだったのか。
緑が羨ましかったのか。

『緑がいれば、皆幸せだわ。いなくなったのが睦月でよかった』

この家で、そんなことを言っていた睦月。
自分がそこまでいらなかったのか。
愚かで卑怯で、哀れで弱い睦月。
睦月がいなくなって、緑が帰ってくればすべてよくなると、思ったのか。

それなら、俺はお前を緑として扱うべきだろうか。
緑として、愛するべきだろうか。
今度こそ、緑を愛するべきだろうか。

そうしたら、お前は幸せになれるのだろうか。
緑は幸せになれるのだろうか。
もう、辛いことはなにも、なくなるのだろうか。

分からない。
もう分からない。
何が正しくて、何が間違いなのかも、分からない。



***




正直、半月もした頃、俺は壊れかけていたと思う。
睦月をあくまでも緑として扱わないと誓ったのに、それも崩れかけていた。
ふとした瞬間、睦月を緑と呼びそうになる。
緑として、話しかけそうになる。

これは睦月だ。
これは睦月だ。
これは睦月だ。

何度も何度も繰り返す。
繰り返していないと、睦月がいなくなってしまいそうだから。
それでももう苦しくて、辛くて。
こんなに苦しいなら、認めてしまえばいいのではないかと思った。
目の前の『彼女』を、緑だと。


それを、見る前では。


ある日買出しから帰ると、睦月の姿が見えなかった。
自室にいるのかと、探して歩き回る。
なんとなく、足音を忍ばせて驚かせようかと思った。

辛い暮らしだけれど、緑も睦月も、俺は愛していたから。
だから少しだけ、楽しかった。

わずかに開いた、睦月が自室として使っている一室のドア。
静かに近づくと、部屋の中で座り込んだ睦月の姿が見えた。

無表情で、しかし大事そうに胸に抱えた小さな木箱を見つめていた。
この家に睦月が持ってきたのは、ほとんどが緑の持ち物だ。
けれど、そのなんの装飾もない木箱は、緑の持ち物としてはふさわしくない。
緑のものは、すべて可愛らしく愛らしいものばかり。
どちらかというと、それはシンプルなものを好む睦月のもののように感じた。

一瞬切なそうに眉を寄せると、そっと手の中に収まる木箱に口付ける。
何よりも大切なものだというように、優しく唇で触れる。
愛おしさが溢れるような、そっと触れるだけの長いキス。

無表情だからなのか、その時の睦月は『睦月』に感じた。
黙っていても、華やかな緑、穏やかな睦月。
二人の違いは、明らかだったから。

その箱に興味が湧いたが、声をかけるのが躊躇われて、そっと離れる。
しかし開きかけのドアが、キイと小さく軋む音がした。
ぼんやりと、座り込んだままこちらを見上げる睦月。
悪戯が見つかった子供のように、決まりの悪い焦りを覚える。

「……だれ、省吾、兄さん……?」

その瞬間、見つかった気まずさなんて一瞬で消え去る。
今の言葉が信じられなくて、何度も何度も反芻する。

今、なんと言った。
省吾、兄さん?
それは、緑の呼び方ではない。
緑は、そんな呼び方はしない。

では今、部屋の中にいるのは。
あそこにいるのは、誰だ。

けれどそれはほんの一時で、睦月は緑へとすぐさま変わる。
ぼんやりとした無表情は、喜怒哀楽のはっきりとした緑のものへ。

「省吾、お帰りなさい!」

艶やかな笑顔で、俺に向かって駆け寄ってくる。
細い腕を、俺の首に絡めてくる。

でも、今確かに、あそこにいたのは、睦月だった。
確かにあれは、睦月だった。
俺が睦月を、見間違えるはずがない。
ずっとずっと見ていた、睦月。

では睦月は、まだいるのか。
まだ睦月は、ここにいたのか。
睦月を抱く腕が、震える。

食事の用意をしにキッチンへ向かった睦月の背中を見て、俺は部屋に滑り込む。
部屋の隅の置かれたサイドテーブルの上に置かれた、小さな木箱を手に取る。

期待と、不安で焦って一度取り落としそうになる。
ここに、睦月の大切なものが、睦月が正気に戻る何かが、あるのだろうか。

恐る恐るそれをあけると、そこにはグリーンの古びて汚い布の切れ端。
想像していたようなものではなくて、拍子抜けする。
睦月は、なんでこんなものをあんなにも愛おしそうにしていたのだろう。

そっと取り出して何かないか、眺める。
布の切れ端には、ボタンがついていた。
これは、服か?
服が何かで切り取られたものか。
誰の服だろう。
睦月のものだろうか。
もう随分痛んでいて、古いもののようだ。
どこかで、見た気もする。

『あれ、そのシャツ』

その時、唐突に、ある光景が浮かんだ。
本当に唐突に、脳裏に蘇る。
今まで忘れ去っていたなんでもない会話が、鮮明に再生される。
部屋の中で、胸に、服を抱いた睦月の姿。

『あれ、そのシャツ』

そうだ、そんなことを言った気がする。
睦月のものにしては、明るすぎる色のシャツ。
着ているところを見たことがなかったが、確かに見覚えがあって。

『なんか見覚えあるな。お前のだっけ?』
『あ、いや、その……』

慌てたように目をそらす。
けれどその時の俺は、それに気付かず、シャツがなぜ見覚えがあるのかを考えていた。
そしてうっすらと、そのシャツを昔着ていたことを思い出した。
明るいグリーンを気に入っていて、なくなった時探した記憶があったのだ。

『ん?あ、もしかして、俺のか?ああ、だから見覚えあったのか。お前にやったんだっけ?』
『う、うん……』

どこか気まずそうに頷く睦月に、気付けなかった。
それきりその話は終わった。
思い出しもせず、今の今までずっと忘れていた、会話。

よく考えろ。
なぜ、睦月が俺のシャツをずっと持っていた。
なぜ、あの時、手に抱いていた。
どうして、今ここにある。
どうして、あんなに愛おしそうに口付けていた。

緑として?
いや、違う。
これは緑のものではない。
このシャツは、睦月が持っていたもの。
では、これは睦月のもので。
そして、この箱に口付けていたのは、緑ではなく睦月で。

では、睦月はなぜ、俺のシャツを、まるで宝物のように扱う。
まるで想い人にするように、愛おしそうに抱きしめる。

睦月に、嫌われてはいないと思っていた。
俺を避けるようになって、懐かなくなって。
それでも、触れると嬉しそうにしていたから、嫌われてはいないと分かっていた。
もう立派な男になって照れくさいのと、緑に言われたから避けられていたのかと思っていた。

緑が、睦月を嫌悪する理由。
睦月が、急に俺から離れていった理由。
緑が、睦月を執拗に俺から遠ざけようとした理由。
睦月が、俺を避けるのに、そのくせずっと見ていた理由。

緑があんなにも激昂した理由。
睦月が、緑になりたかった理由。

それは、もしかして、たった一つの理由なのか。
俺は、ものすごい、勘違いをしていたのか。

ぼやけていた真実が、俺の欲していたものが、すぐ手の届くところに、あった。



***




「俺は、睦月が好きだよ」

ふとした瞬間に、俺はそれを口にした。
緑のように化粧をして、緑の服を着て、髪を巻いた睦月の表情が凍る。
その頼りないあどけない表情は、たとえ緑の格好をしていても、確かに睦月だった。

「………な、んで…」

目の中の光が、揺れる。
何かを言いたげに、赤い唇が開き震える。
けれど、その一瞬後に、睦月は緑に戻る。

「緑は、睦月が嫌い。嫌いよ。あんな子いなくなって、清々する」

でも、それだけで十分だった。
今一瞬、睦月は帰って来た。
やはり、目の前の人間は、睦月でしかない。
緑には、なりきれない。
緑になれるはずがない。

お前は、睦月なんだから。

ああ、やっぱりお前はそこにいた、睦月。
お前が戻ってくるのは、きっと簡単なことなんだ。
ずっとそれは、そこにあった。

なら、俺ももう迷わない。
もう、こんな悲しい生活は、いらない。
一生罪を背負って生きていこう。

さあ、そろそろ目を覚まそう、睦月。
この残酷で優しい夢から。





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