優しい優しい夢を見た。
理想の自分がそこにいて、愛しい人が傍にいる。
愛しい人が自分を見ていて、それを自分は享受した。

なのに夢は醒めてしまう。
醒めたくないのに醒めてしまう。

汚い自分は見たくない。
ずっとこのまま理想でいたい。
あなたに傍にいてほしい。

しかし夢は終わりを告げて、そこにあるのは冷たい現実。
すべてを失い一人きり。



***




「睦月」

省吾が、兄さんが、俺を呼ぶ。
緑ではなく、睦月を呼ぶ。

鏡の中の俺は、みっともなく泣きじゃくり、似合わない化粧をして、似合わない服を着ている。
こんなのは、緑じゃない。
こんな汚いのは、緑じゃない。
いつでも綺麗で、まっすぐで、間違いのない、緑。
俺は、緑になれなかった。

俺は、睦月、だ。

「ど、うして……」

どうして、夢から醒ましてしまったのだ。
どうして、夢のままでいさせてくれなかったのだ。
どうして、緑でいさせてくれない。

そんなに俺が嫌だった?
緑でいても、嫌だった?
もう一緒に、いたくなかった?
こんな馬鹿げたことに、付き合いたくなかった?

「や、っぱり、だめだった…?俺が、緑じゃないから、一緒にいたくなかった…?」
「睦月。お前は、睦月でいいんだ」

睦月に戻してまで、離れたかった?
こんな出来損ない、やっぱりいらなかった?

「俺、みどりじゃ、ないから…、ごめんなさい、つき合わせて、こんなことに…」
「睦月睦月、違う、睦月、聞いてくれ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、緑じゃなくて、ごめんなさい」

謝罪を繰り返す俺を、後ろにいた兄さんが力強い腕で抱きしめる。
その懐かしい温もりに、兄さんの匂いに、こんな時ですらどうしようもない感情が突き上げる。
兄さんと、ずっと一緒にいたかった。
兄さんといれるなら、緑になりたかった。
緑で、よかった。

「にい、さん……」
「お前は緑じゃなくて、いい。お前は睦月でいい」

結局俺が緑になれないから、皆、俺がいらないのか。
皆、緑が必要だった。
緑が大切だった。
だから、俺なんていらないから、緑に帰って来て欲しかった。
緑じゃなきゃ、だめだった。
でも、俺は睦月でしかない。
だから、いらないのか。

「……皆、緑が必要だ。父さんも母さんも……兄さんも……」
「確かに、緑も必要だ。緑も必要だった。皆緑が好きだった」
「だから、代わりに俺が、消えれば……」
「でも、睦月も必要なんだ。叔父さんも叔母さんも」

兄さんは、そこで一旦言葉を切る。
鏡の中の兄さんを見ると、何かを躊躇うように眉間に皺を寄せていた。
苦しそうな、迷うような、仕草。
そして、睨みつけるように、まっすぐに鏡の中で視線を合わせる。

「それに、俺は緑よりも誰よりも、睦月、お前が必要だ」
「………え」
「俺は」

俺を抱きしめる力が増す、兄さんの吐息が耳にかかる。
兄さんが、俺を見ている。
後ろから伸ばされた手が、俺の手に重なる。
大きな温かい手。
昔から、俺の手を引いてくれた、頼もしい手。

「お前が誰よりも、好きだ。睦月」

何を、言われたか、理解できなかった。
兄さんは何を言ってるんだ。
なんで、そんな嘘をつくんだ。
俺は睦月で、緑じゃない。
だったら、兄さんが好きなのは、睦月じゃない。
兄さんは、緑のもので、兄さんは緑が好きだ。

「好きだ、睦月」
「俺は、緑じゃない…」
「ああ、緑じゃない。緑のはずがない。お前は、睦月だ」
「なら、なんで……」

折れそうなほど、抱きしめられる。
兄さんが鏡の中で、苦しげに顔をゆがめる。

「俺は、お前が好きなんだ。睦月。緑じゃなくて、お前が好きなんだ」

訳が分からない。
兄さんの言ってることが、理解できない。

「でも、兄さんは緑が好きで、兄さんは緑のもので…」
「緑を愛してた。可愛かった、大切だった。大事な大事な」

そこで空気を求めるように一度あえぐと、兄さんは俺の肩に顔を埋めた。
俺に、顔を見られたくないというように。

「妹だった」
「え……」
「俺は……」

それは、どういう意味だ。
兄さんは、緑が好きで、緑と付き合っていた。
緑とキスをして、緑を抱きしめていた。
兄さんが求めていたのは、緑だったはずだ。

「お前に、欲情していた。ずっとお前を抱きたかった。」

言葉が、出ない。
やっぱり、何を言われているのか、理解できない。
だって、そんなはずがない。
そんな訳がない。
俺の薄汚い欲望で、兄さんまでおかしくなってしまったのだろうか。
緑の言うように、俺のせいで兄さんまで汚れてしまった。

「緑がいなくなってしまった日、緑に言った」

俺の手に重なっている兄さんの手が、小さく震えている。
声が、上擦っている。
顔は見えない。
けれど、肩にかかる吐息が湿っている。
むき出しの肩に、濡れた何かが触れた。

「お前を抱く気になれないと。どうしても妹以上に見れないと。緑が消えたのは、その日だった」

兄さんが、震えている。
声も震えている。
俺の肩にずっと顔を埋めている兄さんが、痛々しくて、抱きしめたくなる。
でも、兄さんが俺をしっかりと拘束していたから、俺は重なった手に、指を絡めた。
兄さんが、これ以上傷つかないようにと祈りをこめて。

「あれは、事故だった。でも、今も緑が消えたのは、俺のせいではないのかと、思う」
「そんな……」
「俺は、緑を利用した。お前が欲しくて、でもそんな訳にはいかないから、緑を身代わりにした」
「……………」
「あいつの好意を利用した。けれど、結局あいつが望むように、あいつを愛せなかった」
「違う…」
「……俺が、緑を、壊した」
「違う、違う、兄さん、緑が消えたのは、俺のせいだ。俺が緑なんて消えてしまえと思った。邪魔だと、大嫌いだと、憎いと思った」

兄さんが顔をあげる。
目を赤く腫らしたその顔は、今まで見たことないぐらい頼りない。
いつでも強くて、大らかで、太陽のようだった兄さん。
苦しくて、息ができない。
抱きしめて慰めてあげたい。
自分を責める兄さんを見ていられなくて、絡めた指に力をこめる。
それが伝わったのか、兄さんは苦く笑った。

「違うよ、睦月。お前のせいじゃない。あれは事故だ」
「でも………」

眉間に寄った皺を戻し、穏やかな表情に戻ると、兄さんはつめていた息を吐いた。
鏡の中で視線を合わせたまま、絡めた指を玩ばれる。
指の間をなぞり、一つ一つ確かめるように丁寧に手を這わす。
俺の、緑の綺麗なものとは違う、庭弄りで荒れた手を、大きな手が包み込む。
その動きに、背筋に弱い電流のような感覚が走る。
俺は思わず、声を上げた。

「……兄さんっ」
「なぜ、睦月、なぜ緑が嫌いだった?」

兄さんは玩んでいた手を止めると、静かに視線を合わせる。
一瞬、躊躇った。
汚い自分を知られたくない。
明るく綺麗で華やかで、いつでも愛されていた姉を羨んでいた。
自分の不出来を緑のせいにして、何もせずにただ妬んでいた。
抱いてはいけない想いを抱いて、実らないのを緑のせいにしていた。
卑怯で卑屈で、臆病でちっぽけな自分。

でも、もう、緑はいない。
そして俺は緑に、なれなかった。
だから言い訳は出来ない。
もう、逃げられない。
潔く白状して、兄さんに懺悔しよう。
俺の汚い、心を。

「……だって、緑は全部奪っていった。緑がいるから、俺はいつも出来損ないだった」
「違う睦月、お前はお前だ。緑のおまけでも、緑の出来損ないでもない」
「でも、みんなみんな緑が好きだった。みんな緑のものだった」

兄さんはけぶるように柔らかく笑うと、耳元でそっと囁く。
優しく優しく、まるでそれが真実のように。

「けれど、俺はお前のものだ、睦月」
「………嘘だ」
「俺はお前だけしか、欲しくない」
「嘘だ」
「俺は、お前が抱きたい」
「嘘だ!」

でも、そんなのは嘘だ。
狂ってしまった俺を正気に戻すための、優しく残酷な嘘。
俺がもうお荷物だから、放り出したいだけだ。
でも、そんな嘘はつかないでくれ。
そんな、信じてしまいそうな、嘘はつかないで。
俺は期待なんてしたくない。

「嘘だ嘘だ嘘だ!聞きたくない!そんな嘘は聞きたくない!」
「睦月、なんで、嘘だと思う」
「そんなことあるはずがない!兄さんが汚い俺が好きなはずがない!俺は汚い、気持ち悪い、変態だ!」

涙が溢れてくる。
兄さんの顔が見ていられなくて、俺は俯いた。

こんな俺を、好きになってくれるはずがない。
汚い汚い汚い。
いつも意地汚く諦めきれず、未練がましく兄さんを見ていた。
兄さんを見て、その手が触れることを期待していた。

「兄さん、もうこんなことしない、もう緑の真似なんてしないから!あなたを縛り付けようなんてしない!緑のふりなんて、しないから!もう一人で大丈夫だから!ごめんなさい、もうしないから……」

そうだ、俺は、縛りつけようとした。
緑の真似をして、あなたを縛りつけようとした。
緑でいたら、あなたが傍にいてくれると、そう思っていたんだ。

皆が緑を必要としているから、なんて言い訳をして。
自分自身すら、偽った。
全部全部、俺のエゴ。
兄さんや、緑のためなんて、これっぽちも考えていない。

もう、縛り付けたりしない。
もう、緑の振りをしたりしない。

認めるから、その罪を認めるから。
だから、もう許して。
そんな嘘は、つかないで。

「そんな嘘で、責めないで。もう、解放するから……」
「睦月……」

けれど、兄さんは離してくれない。
俺を、まだ責めるのか。
俺を許して、くれないのか。

顔を上げないけれど、鏡の中の兄さんがじっと俺を見つめているのが分かった。
視線が刺さるようで、息が苦しくなる。
そんな息が詰まるような沈黙の中、兄さんの声が、静かに響いた。
それは穏やかで静かだけれど、嘘を許さない厳しさがこもっていた。


「なんで、俺を縛りつけようとした?」
「え……」

あなたに、傍にいてほしかった。

「なんで、緑になりたかった」
「それ、は…、だって、皆が緑が必要としたから」

あなたが、緑を必要とするから、緑になりたかった。

「あの緑の布の切れ端を、持っていたのは、なぜだ?」
「あ、れはっ」

俺は、あなたに、愛されたかった。

「お前は、俺が好きなんだろう?」
「しょうご、兄さん……」

でも、それは許されないことだった。

「お前が、あれを持っていたのを知った時、俺は嬉しかった」

あなたを諦めようと何年も努力して、それでも駄目だった。

「睦月が、俺のことを想っていたと知って、叫びだしそうなほど、嬉しかった」

だから、今、あなたの言葉が信じられない。

「お前を手に入れられると知って、俺は、喜んだ」

けれど、信じたいと、思ってしまっている。

「俺は、最低だ」

俺は最低だ。


伏せていた顔を、上げる。
兄さんは、静かな顔をしていた。
まっすぐに、泣きじゃくってみっともない俺の顔を見つめていてくれた。
緑にはとうてい見えない、情けない顔。

それでも兄さんは見ていてくれる。
緑ではなく、睦月を見ていてくれる。
本当に、緑じゃなくても、いいのだろうか。
睦月でも、いいのだろうか。

「残酷なことを言う。俺は最低なことを言う。どうか、嫌わないでくれ」
「にいさん…?」

少しの躊躇いの後、兄さんはやはり目をそらさず、鏡の中の俺を見る。
つないだ手に、力をこめる。

「俺は、緑じゃなくて、睦月が残ってくれてよかったと、そう思ってしまった」
「兄さん」

その先を言ってはいけない。
意地汚い俺は、期待してしまっている。
一度言ってしまったら、俺はもう、諦められない。
あなたから、離れられなくなってしまう。

「勿論、どちらも失いたくなかった。二人とも大事だった。でも、どちらかを失い、どちらかを選ばなきゃいけないのなら」
「省吾兄さん!!」
「俺は睦月、お前を選ぶ」
「あ………」

体が、震える。
涙が更に溢れてくる。

ごめんなさいごめんなさい。
緑、ごめん。
ごめんごめんごめん、緑、ごめん。
緑、ごめんなさい。

兄さんの言葉を聞いて。

俺は今、たまらなく嬉しい。

「俺は、兄さん……」
「ああ」

緑より俺を選ぶといった兄さんに、今にも達してしまいそうなほど、快感を覚えた。
残酷なその言葉に、喜びを覚えている。
もういないお前から、お前の何より大切なものを奪おうとしている。
それでも、俺は、それを告げようとしている。

最低だ、俺は最低だ。
でも。

「俺はずっと…、兄さんの傍に、いたかった」
「ああ」
「あなたを手に入れられる、緑が羨ましくて、大嫌いだった」
「…ああ」
「兄さんは緑のものだった。だから、諦めた。想うだけでも、身の程知らずだと、思った」

言っても、許されるだろうか。
優しい過去が壊れないだろうか。
あなたは、俺を軽蔑しないだろうか。
汚れた俺を、嫌悪しないだろうか。

「でも、俺はお前が、好きだ、睦月」
「………俺は、睦月だ」
「ああ、睦月が、好きだ」

あなたに触れても、許される?
あなたにこの想いを告げても、許される?
睦月でも、許される?
あなたは睦月を、見ていてくれる?

「……兄さんに、触れても、いい?兄さんの傍に、いても、いい?」
「俺も、お前に触れたい」
「……俺は」

言ってしまえば、もう終わりだ。
そうしたらもう、俺はあなたを手放せない。
あなたの重荷になるだろう。

それでも、兄さんは視線をそらさないから。
だから、もう、駄目だった。
言葉が、溢れていく。

「省吾兄さんが、好きだ」

言ってしまった。
ずっと、言わないでおこうと、しまっておこうと、そう誓っていたのに。
俺は何一つ、自分の誓いを守れない。
情けなくて弱くて、ちっぽけで汚い俺。

兄さんが腕を緩める。
俺は、振り返ると、その胸にすがりついた。
兄さんが、俺の貧相な体を抱きしめる。

ずっと、この匂いが、懐かしかった。
ずっと、この胸に、抱きつきたかった。

あなたに触れたかった。
あなたの傍に、いたかった。

「泣くな、睦月、泣かないでくれ」
「兄さん、兄さん兄さん兄さん」

兄さんが俺の顎を取り上向かせると、親指で涙でベタベタになった唇を拭う。
赤い色が、兄さんの指につく。
そしてそのまま掬い上げられて、鏡越しじゃない視線が合う。
ゆっくりと近づいてきて、兄さんの固い唇が俺の唇に重なった。

緑ではなく、睦月にされた、初めてのキス。

兄さんの吐息を、感じる。
不安が、何もかも消えていくような大きな安心感に包まれる。
小さい頃、兄さんの手に、引かれていた時のような。

長いように感じた、キスは一瞬。
でも、ずっと心にわだかまっていた黒くドロドロとしたものが、消えていく気がした。
俺は兄さんの背中に、腕を回す。
胸に顔を摺り寄せ、その鼓動の音を聞く。

「……きっと、緑は、許さないね」
「ああ、緑を失った痛みを、ずっと覚えてる。緑に謝り続ける」

俺たちはずっと、緑を傍に感じながら、生きていくのだろう。
罪の意識にさいなまれながら。

ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。
もういない、緑。
俺の理想、俺のなりたかった緑。
嫌いだった、憎かった。
でも、お前に憧れていた。

もういない、俺の片割れ。
きっとお前は、俺を絶対許さない。
俺の謝罪なんて、お前には意味のないものだろう。
罪の意識すら、お前にとっては苛立たしいものだろう。

それでも俺は、お前に謝り続ける。
罪悪感を兄さんと共有できることにすら、喜びを感じている俺。
お前の言った通り、俺は最低で汚くて気持ち悪い。

けれどもう、俺はお前になりたいと、思わない。
俺は睦月のままでいる。

俺は、兄さんが許してくれる限り、兄さんの傍にいる。
睦月のまま、手を伸ばす。



***




優しい夢から醒めたなら、そこは冷たい現実だった。
けれど、そこには光があって、愛しい温もりが傍にある。

罪の意識を抱えながらも、罪悪感すら快感で、自分の残酷さを思い知る。
勝者のおごりで君に涙し、そのおぞましさに吐き気がする。

それでもこの手を放せない。
それでもこの手を放さない。



あなたのために、夢を語り。
あなたのために、草木を育て。
あなたのために、笑いましょう。

あなたが欲しいというのなら、俺は俺のままでいる。
あなたが傍にいてくれるなら、俺のすべてはあなたのために。





あなたのために 終






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