優しい優しい夢を見た。 理想の自分がそこにいて、愛しい人が傍にいる。 愛しい人が自分を見ていて、それを自分は享受した。 なのに夢は醒めてしまう。 醒めたくないのに醒めてしまう。 汚い自分は見たくない。 ずっとこのまま理想でいたい。 あなたに傍にいてほしい。 しかし夢は終わりを告げて、そこにあるのは冷たい現実。 すべてを失い一人きり。 「睦月」 省吾が、兄さんが、俺を呼ぶ。 緑ではなく、睦月を呼ぶ。 鏡の中の俺は、みっともなく泣きじゃくり、似合わない化粧をして、似合わない服を着ている。 こんなのは、緑じゃない。 こんな汚いのは、緑じゃない。 いつでも綺麗で、まっすぐで、間違いのない、緑。 俺は、緑になれなかった。 俺は、睦月、だ。 「ど、うして……」 どうして、夢から醒ましてしまったのだ。 どうして、夢のままでいさせてくれなかったのだ。 どうして、緑でいさせてくれない。 そんなに俺が嫌だった? 緑でいても、嫌だった? もう一緒に、いたくなかった? こんな馬鹿げたことに、付き合いたくなかった? 「や、っぱり、だめだった…?俺が、緑じゃないから、一緒にいたくなかった…?」 「睦月。お前は、睦月でいいんだ」 睦月に戻してまで、離れたかった? こんな出来損ない、やっぱりいらなかった? 「俺、みどりじゃ、ないから…、ごめんなさい、つき合わせて、こんなことに…」 「睦月睦月、違う、睦月、聞いてくれ」 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、緑じゃなくて、ごめんなさい」 謝罪を繰り返す俺を、後ろにいた兄さんが力強い腕で抱きしめる。 その懐かしい温もりに、兄さんの匂いに、こんな時ですらどうしようもない感情が突き上げる。 兄さんと、ずっと一緒にいたかった。 兄さんといれるなら、緑になりたかった。 緑で、よかった。 「にい、さん……」 「お前は緑じゃなくて、いい。お前は睦月でいい」 結局俺が緑になれないから、皆、俺がいらないのか。 皆、緑が必要だった。 緑が大切だった。 だから、俺なんていらないから、緑に帰って来て欲しかった。 緑じゃなきゃ、だめだった。 でも、俺は睦月でしかない。 だから、いらないのか。 「……皆、緑が必要だ。父さんも母さんも……兄さんも……」 「確かに、緑も必要だ。緑も必要だった。皆緑が好きだった」 「だから、代わりに俺が、消えれば……」 「でも、睦月も必要なんだ。叔父さんも叔母さんも」 兄さんは、そこで一旦言葉を切る。 鏡の中の兄さんを見ると、何かを躊躇うように眉間に皺を寄せていた。 苦しそうな、迷うような、仕草。 そして、睨みつけるように、まっすぐに鏡の中で視線を合わせる。 「それに、俺は緑よりも誰よりも、睦月、お前が必要だ」 「………え」 「俺は」 俺を抱きしめる力が増す、兄さんの吐息が耳にかかる。 兄さんが、俺を見ている。 後ろから伸ばされた手が、俺の手に重なる。 大きな温かい手。 昔から、俺の手を引いてくれた、頼もしい手。 「お前が誰よりも、好きだ。睦月」 何を、言われたか、理解できなかった。 兄さんは何を言ってるんだ。 なんで、そんな嘘をつくんだ。 俺は睦月で、緑じゃない。 だったら、兄さんが好きなのは、睦月じゃない。 兄さんは、緑のもので、兄さんは緑が好きだ。 「好きだ、睦月」 「俺は、緑じゃない…」 「ああ、緑じゃない。緑のはずがない。お前は、睦月だ」 「なら、なんで……」 折れそうなほど、抱きしめられる。 兄さんが鏡の中で、苦しげに顔をゆがめる。 「俺は、お前が好きなんだ。睦月。緑じゃなくて、お前が好きなんだ」 訳が分からない。 兄さんの言ってることが、理解できない。 「でも、兄さんは緑が好きで、兄さんは緑のもので…」 「緑を愛してた。可愛かった、大切だった。大事な大事な」 そこで空気を求めるように一度あえぐと、兄さんは俺の肩に顔を埋めた。 俺に、顔を見られたくないというように。 「妹だった」 「え……」 「俺は……」 それは、どういう意味だ。 兄さんは、緑が好きで、緑と付き合っていた。 緑とキスをして、緑を抱きしめていた。 兄さんが求めていたのは、緑だったはずだ。 「お前に、欲情していた。ずっとお前を抱きたかった。」 言葉が、出ない。 やっぱり、何を言われているのか、理解できない。 だって、そんなはずがない。 そんな訳がない。 俺の薄汚い欲望で、兄さんまでおかしくなってしまったのだろうか。 緑の言うように、俺のせいで兄さんまで汚れてしまった。 「緑がいなくなってしまった日、緑に言った」 俺の手に重なっている兄さんの手が、小さく震えている。 声が、上擦っている。 顔は見えない。 けれど、肩にかかる吐息が湿っている。 むき出しの肩に、濡れた何かが触れた。 「お前を抱く気になれないと。どうしても妹以上に見れないと。緑が消えたのは、その日だった」 兄さんが、震えている。 声も震えている。 俺の肩にずっと顔を埋めている兄さんが、痛々しくて、抱きしめたくなる。 でも、兄さんが俺をしっかりと拘束していたから、俺は重なった手に、指を絡めた。 兄さんが、これ以上傷つかないようにと祈りをこめて。 「あれは、事故だった。でも、今も緑が消えたのは、俺のせいではないのかと、思う」 「そんな……」 「俺は、緑を利用した。お前が欲しくて、でもそんな訳にはいかないから、緑を身代わりにした」 「……………」 「あいつの好意を利用した。けれど、結局あいつが望むように、あいつを愛せなかった」 「違う…」 「……俺が、緑を、壊した」 「違う、違う、兄さん、緑が消えたのは、俺のせいだ。俺が緑なんて消えてしまえと思った。邪魔だと、大嫌いだと、憎いと思った」 兄さんが顔をあげる。 目を赤く腫らしたその顔は、今まで見たことないぐらい頼りない。 いつでも強くて、大らかで、太陽のようだった兄さん。 苦しくて、息ができない。 抱きしめて慰めてあげたい。 自分を責める兄さんを見ていられなくて、絡めた指に力をこめる。 それが伝わったのか、兄さんは苦く笑った。 「違うよ、睦月。お前のせいじゃない。あれは事故だ」 「でも………」 眉間に寄った皺を戻し、穏やかな表情に戻ると、兄さんはつめていた息を吐いた。 鏡の中で視線を合わせたまま、絡めた指を玩ばれる。 指の間をなぞり、一つ一つ確かめるように丁寧に手を這わす。 俺の、緑の綺麗なものとは違う、庭弄りで荒れた手を、大きな手が包み込む。 その動きに、背筋に弱い電流のような感覚が走る。 俺は思わず、声を上げた。 「……兄さんっ」 「なぜ、睦月、なぜ緑が嫌いだった?」 兄さんは玩んでいた手を止めると、静かに視線を合わせる。 一瞬、躊躇った。 汚い自分を知られたくない。 明るく綺麗で華やかで、いつでも愛されていた姉を羨んでいた。 自分の不出来を緑のせいにして、何もせずにただ妬んでいた。 抱いてはいけない想いを抱いて、実らないのを緑のせいにしていた。 卑怯で卑屈で、臆病でちっぽけな自分。 でも、もう、緑はいない。 そして俺は緑に、なれなかった。 だから言い訳は出来ない。 もう、逃げられない。 潔く白状して、兄さんに懺悔しよう。 俺の汚い、心を。 「……だって、緑は全部奪っていった。緑がいるから、俺はいつも出来損ないだった」 「違う睦月、お前はお前だ。緑のおまけでも、緑の出来損ないでもない」 「でも、みんなみんな緑が好きだった。みんな緑のものだった」 兄さんはけぶるように柔らかく笑うと、耳元でそっと囁く。 優しく優しく、まるでそれが真実のように。 「けれど、俺はお前のものだ、睦月」 「………嘘だ」 「俺はお前だけしか、欲しくない」 「嘘だ」 「俺は、お前が抱きたい」 「嘘だ!」 でも、そんなのは嘘だ。 狂ってしまった俺を正気に戻すための、優しく残酷な嘘。 俺がもうお荷物だから、放り出したいだけだ。 でも、そんな嘘はつかないでくれ。 そんな、信じてしまいそうな、嘘はつかないで。 俺は期待なんてしたくない。 「嘘だ嘘だ嘘だ!聞きたくない!そんな嘘は聞きたくない!」 「睦月、なんで、嘘だと思う」 「そんなことあるはずがない!兄さんが汚い俺が好きなはずがない!俺は汚い、気持ち悪い、変態だ!」 涙が溢れてくる。 兄さんの顔が見ていられなくて、俺は俯いた。 こんな俺を、好きになってくれるはずがない。 汚い汚い汚い。 いつも意地汚く諦めきれず、未練がましく兄さんを見ていた。 兄さんを見て、その手が触れることを期待していた。 「兄さん、もうこんなことしない、もう緑の真似なんてしないから!あなたを縛り付けようなんてしない!緑のふりなんて、しないから!もう一人で大丈夫だから!ごめんなさい、もうしないから……」 そうだ、俺は、縛りつけようとした。 緑の真似をして、あなたを縛りつけようとした。 緑でいたら、あなたが傍にいてくれると、そう思っていたんだ。 皆が緑を必要としているから、なんて言い訳をして。 自分自身すら、偽った。 全部全部、俺のエゴ。 兄さんや、緑のためなんて、これっぽちも考えていない。 もう、縛り付けたりしない。 もう、緑の振りをしたりしない。 認めるから、その罪を認めるから。 だから、もう許して。 そんな嘘は、つかないで。 「そんな嘘で、責めないで。もう、解放するから……」 「睦月……」 けれど、兄さんは離してくれない。 俺を、まだ責めるのか。 俺を許して、くれないのか。 顔を上げないけれど、鏡の中の兄さんがじっと俺を見つめているのが分かった。 視線が刺さるようで、息が苦しくなる。 そんな息が詰まるような沈黙の中、兄さんの声が、静かに響いた。 それは穏やかで静かだけれど、嘘を許さない厳しさがこもっていた。 「なんで、俺を縛りつけようとした?」 「え……」 あなたに、傍にいてほしかった。 「なんで、緑になりたかった」 「それ、は…、だって、皆が緑が必要としたから」 あなたが、緑を必要とするから、緑になりたかった。 「あの緑の布の切れ端を、持っていたのは、なぜだ?」 「あ、れはっ」 俺は、あなたに、愛されたかった。 「お前は、俺が好きなんだろう?」 「しょうご、兄さん……」 でも、それは許されないことだった。 「お前が、あれを持っていたのを知った時、俺は嬉しかった」 あなたを諦めようと何年も努力して、それでも駄目だった。 「睦月が、俺のことを想っていたと知って、叫びだしそうなほど、嬉しかった」 だから、今、あなたの言葉が信じられない。 「お前を手に入れられると知って、俺は、喜んだ」 けれど、信じたいと、思ってしまっている。 「俺は、最低だ」 俺は最低だ。 伏せていた顔を、上げる。 兄さんは、静かな顔をしていた。 まっすぐに、泣きじゃくってみっともない俺の顔を見つめていてくれた。 緑にはとうてい見えない、情けない顔。 それでも兄さんは見ていてくれる。 緑ではなく、睦月を見ていてくれる。 本当に、緑じゃなくても、いいのだろうか。 睦月でも、いいのだろうか。 「残酷なことを言う。俺は最低なことを言う。どうか、嫌わないでくれ」 「にいさん…?」 少しの躊躇いの後、兄さんはやはり目をそらさず、鏡の中の俺を見る。 つないだ手に、力をこめる。 「俺は、緑じゃなくて、睦月が残ってくれてよかったと、そう思ってしまった」 「兄さん」 その先を言ってはいけない。 意地汚い俺は、期待してしまっている。 一度言ってしまったら、俺はもう、諦められない。 あなたから、離れられなくなってしまう。 「勿論、どちらも失いたくなかった。二人とも大事だった。でも、どちらかを失い、どちらかを選ばなきゃいけないのなら」 「省吾兄さん!!」 「俺は睦月、お前を選ぶ」 「あ………」 体が、震える。 涙が更に溢れてくる。 ごめんなさいごめんなさい。 緑、ごめん。 ごめんごめんごめん、緑、ごめん。 緑、ごめんなさい。 兄さんの言葉を聞いて。 俺は今、たまらなく嬉しい。 「俺は、兄さん……」 「ああ」 緑より俺を選ぶといった兄さんに、今にも達してしまいそうなほど、快感を覚えた。 残酷なその言葉に、喜びを覚えている。 もういないお前から、お前の何より大切なものを奪おうとしている。 それでも、俺は、それを告げようとしている。 最低だ、俺は最低だ。 でも。 「俺はずっと…、兄さんの傍に、いたかった」 「ああ」 「あなたを手に入れられる、緑が羨ましくて、大嫌いだった」 「…ああ」 「兄さんは緑のものだった。だから、諦めた。想うだけでも、身の程知らずだと、思った」 言っても、許されるだろうか。 優しい過去が壊れないだろうか。 あなたは、俺を軽蔑しないだろうか。 汚れた俺を、嫌悪しないだろうか。 「でも、俺はお前が、好きだ、睦月」 「………俺は、睦月だ」 「ああ、睦月が、好きだ」 あなたに触れても、許される? あなたにこの想いを告げても、許される? 睦月でも、許される? あなたは睦月を、見ていてくれる? 「……兄さんに、触れても、いい?兄さんの傍に、いても、いい?」 「俺も、お前に触れたい」 「……俺は」 言ってしまえば、もう終わりだ。 そうしたらもう、俺はあなたを手放せない。 あなたの重荷になるだろう。 それでも、兄さんは視線をそらさないから。 だから、もう、駄目だった。 言葉が、溢れていく。 「省吾兄さんが、好きだ」 言ってしまった。 ずっと、言わないでおこうと、しまっておこうと、そう誓っていたのに。 俺は何一つ、自分の誓いを守れない。 情けなくて弱くて、ちっぽけで汚い俺。 兄さんが腕を緩める。 俺は、振り返ると、その胸にすがりついた。 兄さんが、俺の貧相な体を抱きしめる。 ずっと、この匂いが、懐かしかった。 ずっと、この胸に、抱きつきたかった。 あなたに触れたかった。 あなたの傍に、いたかった。 「泣くな、睦月、泣かないでくれ」 「兄さん、兄さん兄さん兄さん」 兄さんが俺の顎を取り上向かせると、親指で涙でベタベタになった唇を拭う。 赤い色が、兄さんの指につく。 そしてそのまま掬い上げられて、鏡越しじゃない視線が合う。 ゆっくりと近づいてきて、兄さんの固い唇が俺の唇に重なった。 緑ではなく、睦月にされた、初めてのキス。 兄さんの吐息を、感じる。 不安が、何もかも消えていくような大きな安心感に包まれる。 小さい頃、兄さんの手に、引かれていた時のような。 長いように感じた、キスは一瞬。 でも、ずっと心にわだかまっていた黒くドロドロとしたものが、消えていく気がした。 俺は兄さんの背中に、腕を回す。 胸に顔を摺り寄せ、その鼓動の音を聞く。 「……きっと、緑は、許さないね」 「ああ、緑を失った痛みを、ずっと覚えてる。緑に謝り続ける」 俺たちはずっと、緑を傍に感じながら、生きていくのだろう。 罪の意識にさいなまれながら。 ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。 もういない、緑。 俺の理想、俺のなりたかった緑。 嫌いだった、憎かった。 でも、お前に憧れていた。 もういない、俺の片割れ。 きっとお前は、俺を絶対許さない。 俺の謝罪なんて、お前には意味のないものだろう。 罪の意識すら、お前にとっては苛立たしいものだろう。 それでも俺は、お前に謝り続ける。 罪悪感を兄さんと共有できることにすら、喜びを感じている俺。 お前の言った通り、俺は最低で汚くて気持ち悪い。 けれどもう、俺はお前になりたいと、思わない。 俺は睦月のままでいる。 俺は、兄さんが許してくれる限り、兄さんの傍にいる。 睦月のまま、手を伸ばす。 優しい夢から醒めたなら、そこは冷たい現実だった。 けれど、そこには光があって、愛しい温もりが傍にある。 罪の意識を抱えながらも、罪悪感すら快感で、自分の残酷さを思い知る。 勝者のおごりで君に涙し、そのおぞましさに吐き気がする。 それでもこの手を放せない。 それでもこの手を放さない。 あなたのために、夢を語り。 あなたのために、草木を育て。 あなたのために、笑いましょう。 あなたが欲しいというのなら、俺は俺のままでいる。 あなたが傍にいてくれるなら、俺のすべてはあなたのために。 |