すでに数字の羅列としか見えない数式を頭に叩き込む。 興味もない過去の出来事を、系統立てて暗記する。 つまらない文章をよりつまらない解釈にして砕いていく。 問題を解く。 何度も何度も、問題を解く。 けれど、問題を解けば解くほど正解率は下がっていく。 焦りが増して、乱暴にペンを滑らせると強すぎてノートが破けた。 舌打ちをして、そのページを破り捨てる。 自分の頭の悪さが疎ましい。 もっと勉強して、受験に受からなきゃいけないに。 私は医者にならないといけないのだから。 もっともっと、勉強をしなくては。 『医者になれないようなら意味はない。養子を取るから、お前はさっさと嫁にでも行け』 祖父から繰り返し聞かされた言葉。 私の存在意義は、それだけだ。 母は、女しか産まなかったことを祖父に咎められ続けた。 父も、そんな母を妻にしたことで、繰り返し祖父と争った。 母は私が医者になることを望んだ。 父も私が医者になることを望んだ。 あの2人が祖父からいじめられなくなる方法は、それだけだったから。 だから、私は勉強をしなくてはならない。 私が両親と祖父に、望まれているのはそれだけだったから。 「芙美さん芙美さん、顔色悪いよ、大丈夫?」 加賀谷が、わざわざ机に来て単語帳をめくっていた私の顔を覗き込む。 この男は本当に何が楽しいのか、いつからか私に付きまとっていた。 単なる気まぐれだとは分かっているが、中々飽きる気配もない。 すげなくその手を払っても、気にすることもない。 さも心配しているような声をかけられるのも鬱陶しい。 何度言っても繰り返し名前を呼ぶのも、腹立たしくて仕方がない。 「…………」 「芙美さん芙美さん、ねえ、少し食べようよ、今日お昼食べてないでしょ」 無視して単語帳に目を落とす。 いらいらする。 胃が痛い。 頭が痛い。 体が熱っぽい。 単語が頭に入らない。 隣の男がうるさい。 「………」 「ねえ、体に悪いよ」 「私を心配するなら、さっさと私の前から消えてください」 周りから非難の声が聞こえる。 加賀谷はクラスの中でも男女問わず人気者だ。 その彼が陰気で嫌われ者の私にかまっていることが、そしてそれを私が跳ね除けていることが、とにかくすべてが気に入らないのだろう。 気に入らないのはこっちだ。 声をかけるこの男も、それを見て非難する周りの声も、それを無視しきれない自分も、全部が苛立って仕方がない。 「加賀谷いいじゃん、もうそんなガリ勉女ほっとけよ。そいつは勉強がお友達なんだろ」 「ほんっとーに感じわりー!何様だよ」 聞こえるように上がる声。 特に気にもならない。 その通りだ。 私はあなたたちと仲良くしたいとは思わない。 放っておいてほしい。 それが望みだ。 「いーの、俺は芙美さんのこういうところが好きなんだから!」 けれど、加賀谷は茶化すように明るく笑ってそんなことを言った。 怒りに、鳥肌がたった。 全身の毛が逆立つかと思った。 この男の言動のすべてに、攻撃的な感情が生まれてくる。 私をかばう言葉も、好意をむけているような態度もいらない。 ふざけ半分と同情で向けられる好意なんて、私は一切望んでいない。 教室では勉強ができない。 椅子から乱暴に立ち上がると、自分に集まる視線を無視してわずらわしいだけの部屋から出て行く。 後ろから聞こえるざわめきも、追ってくる高い声も、この狭い校舎も全部全部なくなればいい。 封鎖された屋上へ続く階段。 立ち入り禁止になってロープが貼られているが、それを潜り抜けて踊り場へと向かう。 屋上の扉は当然のことながら鍵がかかっていて出ることは出来ない。 薄暗い踊り場は、埃がたまっていてすえた匂いがした。 けれど人がいない。 それで十分だった。 座り込んで、単語帳に目を落とす。 口に出して読み、意味を覚える。 けれど焦る心とは裏腹に、内容はちっとも入ってこない。 頭が重くて、ぶよぶよとしている。 まるでベールがかかっているように、アルファベットの整列がぼんやりとしている。 それでも、何度も何度も目でなぞる。 今日のノルマはまだまだ終わっていない。 今日中に終わらせてしまわなければ間に合わない。 波立つ心を抑え付けて、何とか単語に意識を戻す。 どれくらい、そんな無駄なことをしていただろう。 誰もいないと思っていた空間に、自分を苛立たせるだけの存在が姿を表した。 「…芙美さん、大丈夫?」 「………一体なんなんですかっ!」 自然と声が苛立ちを含んだ。 思ったより大きくなってしまった声が、踊り場に響いた。 どうしてこの男は私の邪魔ばかりするんだろう。 消えてしまえ、消えてしまえ、消えてしまえ。 「芙美さんが、心配なんだ」 「あなたに心配されるすじあいはない!」 「でも、心配なんだ。心配させてよ。少し、休んで」 休む。 それは一番聞きたくない言葉。 最低限の睡眠はとる。 勉強の効率が落ちるから。 でもそれ以外は休まない。 休んだら勉強ができない。 勉強ができない私など、意味はない。 「うるさい!もうつきまとわないで!傍に来ないで!」 「……それでも芙美さん、俺は君が心配」 「………っ」 敬語を使えなくなってしまう。 この男は本当に嫌いだ。 私の邪魔しかしない。 明るく朗らかで誰からも愛される、妹に似ている男。 「私は頭の悪い人は嫌いなの!」 「俺は頭いいって。この前芙美さんが言ってたじゃん」 「そうですね、頭はいいかもしれませんね。ただ、勉強しない人はどちらにせよ大嫌い」 「じゃあ、やるよ」 あっさりとそう言って、にっこりと笑って見せる。 呆気に取られる私を尻目に、加賀谷はぽんと手を叩いてみせる。 更に無邪気に笑って、私に向かって提案する。 「あ、そうだ、じゃあこういうのはどう?俺がさ、次の実力テストで芙美さんに勝ったらデートしてよ」 「は?」 「頭の悪い奴がいやなんでしょ?じゃあ頭がよければ好きってこと?」 「訳が分かりません」 言っている意味が分からない。 どういう思考をしているのだろう。 頭が悪いとかそういう問題じゃなく、ただこの男が嫌いだということぐらい分かっているはずだ。 それが分からないほど馬鹿ではないはずだ。 「いいじゃん、ね?俺頭悪いし、勝つのはきっと芙美さんだし」 「その賭けに、私のメリットが見つかりません」 「あ、そうか。確かにそうだ。うーんと、じゃあそうだな、芙美さんが勝ったら、俺はもう芙美さんに付きまとわないよ」 「…………」 私の望みを、分かっていて、この男は付きまとっているのか。 その事実に、全身の血が煮えくり返る気がした。 なんでこの男と賭けをしなければならないのか分からない。 そもそも賭けを受ける必要もない。 この流れ事態、おかしい。 でも、もう付きまとわないでいてくれるのだろうか。 これ以上、私の世界をかき乱さないでいてくれるのだろうか。 「ね、芙美さんいいでしょ?」 「………本当にもう、近づかないんですね?」 「うん、俺約束は守るよ。大丈夫」 この男の成績は、確か学年で中の上といったところだ。 トップ10から落ちたことのない私には、かなうこともないだろう。 元から勝負の見えている賭けだ。 子供みたいに、頑張ればすべてが叶うとでも言うのか、それとも他に思惑があるのか。 もしかしたら、これをきっかけに私から離れたいのだろうか。 クラスメイトの前で、ひっこみが付かないから機会を作りたかったのかもしれない。 それなら、それでいい。 どちらにせよ、私が勝つのだから、私にデメリットはない。 「………分かりました。じゃあ次の実力テストで」 「うん、見てて、俺頑張るからさ!」 「せいぜい頑張ってください」 わずらわしい。 どうでもいい。 でもこれで、この男が私に近づかないというなら、それでいい。 何もいらない。 友達なんていらない。 勉強の時間を割くだけの鬱陶しい付き合いなんていらない。 私は勉強をしなくてはいけない。 それだけでいい。 それだけが、許されている。 勉強をしなくては。 私がしなくてはいけないのは、ただそれだけ。 |