胃が痛い。 食べ物を受け付けない。 キリキリと締め付けられ、食べたらすぐにもどしそうだ。 吐き気がする。 栄養補助食品も食べる気にならない。 牛乳を飲んで、ごまかす。 頭が自分のものではないかのように、重く熱い。 ぼんやりとして、重要な数式も年号も覚えることができない。 自分の体に、嫌気がさす。 どうして、誰も彼も私に勉強をさせてくれないのだ。 台所で薬を漁っている時、後ろから柔らかい声がかかった。 いつだって清楚ながらも綺麗に着飾っている、少しだけ気弱そうな母。 「あら、どうしたの、芙美さん」 「お母さん……」 「お薬飲んでるの?どこか悪いの?」 首を傾げる母に、少しだけ気持ちが揺れた。 言ってもいいだろうか。 お腹が痛い、と。 頭が痛い、と。 苦しい、と。 訴えても、許されるだろうか。 逃げはしない。 逃げるわけではない。 勉強はする。 勉強はするから、少しだけ。 少しだけ。 ただ、少しだけ。 「お母さん……私……」 「気をつけてね。もう少しで学校の実力テストでしょう?この前の塾の模試があんまりよくなかったから、お祖父様のご機嫌がよくなくて…」 悲しそうに眉を顰める母。 優しくてたおやかで、そして弱い人。 ずっと昔から祖父に責められて来たのだ。 祖父の機嫌の良し悪しは何よりも気にしなくてはいけないもの。 私のせいで、母を苦しめている。 私が努力を怠ったせいで。 「すいません……」 「いいのよ、芙美さんのことだから大丈夫だと、私信じてるわ」 胃が、更にキリキリと差し込む。 私がいけないのだ。 私がもっともっと勉強をしなかったから。 弱音を吐くなんて、なんておこがましい。 なんて図々しいのだ。 ごめんなさい。 そんな苦しげな顔をさせてしまってごめんなさい。 「そうそう、千津さんがまた熱を出してね」 「千津が?」 「ええ、学校へ行って、ちょっと興奮したのね。大したことないとは思うのだけれど、念のため病院に連れて行こうと思って」 「……はい」 「お留守番よろしくね。勉強頑張って。重さんにお夜食作ってもらうように頼んでおくから」 「はい、ありがとうございます」 ずっとちゃんとした食事はとっていない。 夜食と聞いただけで、胃のむかつきが蘇って吐き気がする。 けれど母の心遣いなのだから、笑って礼を言わなくてはいけない。 家政婦には申し訳ないが、夜食も捨てることになるだろう。 勉強を、しなくては。 「ねえ、芙美さん、芙美さんを見ていると、苦しいよ」 「それなら、見なければいいでしょう」 せっかく人のいない埃だらけの屋上の踊り場にやってきたのに、どうしてこの男はまたいるのだ。 なんでいっつもいっつも私に纏わり付くのだ。 鬱陶しいことこの上ない。 時間が惜しい。 まだまだノルマは終わらない。 むしろ遅れはどんどん進んでいく。 ずっと計画通りに終了させていない。 時間がない。 早く、もっと早く、もっともっと勉強をしなくては。 隣のうるさい男がさっさと消えてくれないだろうか。 「芙美さん芙美さん、すごい痩せたよ、顔色も悪いを通り越して土気色だよ、今にも倒れそうだよ、そんなものばっかり食べて」 「私の勝手でしょう」 固形物は、食べれない。 ゼリー状の栄養補助食品と、サプリメントで栄養を補うことにした。 そのチューブを見て、加賀谷は幼い顔を歪めて見せる。 「そんなに勉強しなくても…」 いつか聞いたような言葉。 カッと、頭が熱くなる。 「私が何をしようと、あなたには関係ないでしょ!」 「関係あるよ、俺は芙美さんが好きだから」 「私はあなたが大嫌い!付きまとわないで!」 この男の前ではつい感情的になってしまう。 自分がコントロールできない。 私に勉強以外の余計な感情を植え込もうとする。 ただ、勉強をしていたいだけなのに、邪魔しようとする。 私のすべてを、否定しようとする。 勉強をすることが、私のすべて。 この男が邪魔だ。 この男はいらない。 こんな男、消えてしまえ。 「芙美さん、鏡最近見た?本当にひどいよ」 「うるさい!!」 「家族は何も言わないの?」 今度こそ、我慢ができなかった。 隣でごちゃごちゃ言っていた男の頬を思い切り殴りつける。 咄嗟のことで、平手にも拳にもならず、変な形の手のまま殴りつけた。 ガリっと、嫌な感触がして加賀谷の頬の皮膚を削り取る。 「あ……」 「っつ……」 加賀谷が痛みに眉を顰める。 そばかすのういた頬に、2筋の赤い筋。 うっすらと滲んだ血を見て、頭が冷える。 人に傷をつけたことなんてない。 人に血を流させたことに、恐怖する。 怖い。 「あ………」 「芙美さん芙美さん、大丈夫だよ、俺は大丈夫」 どうしたらいいか分からず、宙に浮いたままの手を、加賀谷が自分の手で握り締める。 温かさに、背筋がぞっとした。 人の温もりが気持ち悪い。 感情の赴くまま、思い切り振り払った。 「触らないで!」 声が震えていた。 虚勢をはることすらできない。 怖くて、苦しくて、訳が分からなくて。 私はその場から逃げ出した。 次の実力テストまでだ。 男が勉強をしている様子はない。 次の実力テストで、こいつと離れることができる。 それまでの辛抱だ。 そうしたら、私は勉強だけをしていられる。 猛烈な吐き気を覚えて、トイレに駆け込んだ。 吐くものなんてほとんどないが、胃液とさっき流し込んだゼリーが食道をさかのぼる。 近頃吐くことが多いから、食道が焼け付くように痛い。 胃がキリキリと引き絞られる。 涙が出てくる。 頭がガンガンとして、世界がまわる。 苦しい。 苦しい。 苦しい。 あいつのせいだ。 あの男のせいだ。 あの男のせいで、こんなに苦しい。 『芙美さん、鏡最近見た?本当にひどいよ』 男の言葉が脳裏に蘇る。 トイレの鏡で、改めて自分の顔を見てみた。 クマの浮いて真っ黒にくぼんだ目。 頬がこけて、唇は荒れていた。 顔色は土気色をしていて、髪はパサパサとしている。 まるで死人だった。 |