そのまま、行きかう車に身を投げ出そうとした瞬間。 ピリリリリリリ。 軽やかな電子音を立てて、ポケットに入れたままだった携帯が着信を伝える。 私の携帯に誰かから連絡が入ることなんて、ほとんどない。 塾や、家への連絡へ使うぐらいだ。 もしかして、家からだろうか。 いなくなった私を探そうと、電話してくれたのだろうか。 はやる心で震える指をなんとか動かして、ポケットから携帯を抜き出す。 狭いポケットの入り口に携帯が絡まるのがもどかしかった。 着信音が終わる前に、なんとか取り出し焦って通話ボタンを押した。 「…っはい!」 『………芙美さん?』 けれど、聞こえてきたのは何よりも耳障りな甘く高い声。 大嫌いな大嫌いな幼い顔が蘇る。 そういえば以前携帯を持っていた時に、無理矢理番号を登録された気がする。 『芙美さん?今日、俺芙美さんを傷つけたみたいで心配で…』 相変わらずの無神経な言葉に、もう抑え切れなかった。 胸の中の痛みも苛立ちも憎しみも悲しみも、すべてがあふれ出してくる。 「…っ、あなたのせいだ!あなたのせいだ!!あなたが全部いけないんだ!」 『芙美さん、芙美さん?どうしたの?』 「あなたなんて消えてしまえ!あなたが全部悪いんだ!消えて!消えてしまえ!!」 戸惑うような声にももう止まる事が出来ない。 これこそ、八つ当たりだ。 自分が出来損ないであることを、この男のせいにしようとしている。 いや、この言葉のすべては、自分に向けているのかもしれない。 冷静などこかで、そんな風に解析している自分がいた。 でも、もうダメだった。 『芙美さん、今どこにいるの?』 「もういやだ!私にはこれしかなかったのに!私はもういらない!いらないいらないいらない!」 『芙美さん!そこ動かないでね!』 「大嫌い!あなたなんて大嫌い!」 『芙美さん、電話は切らないで』 「もう何もない、私はどこにもいれない!私が出来損ないだから!お祖父様もお父さんもお母さんも、私がいらない!!あなたのせいだ!」 その後も、私は一方的になじり続けた。 そうしないとガラガラと、自分の全部が壊れていきそうだったから。 自分がなくなって、しまいそうだったから。 『いた』 その声は、私の受話器の向こう側と後ろからと、同時に聞こえた。 驚いて、後ろを振り返る。 そこには、私より少し背の低い、まるで小学生のように幼い姿。 「芙美さん芙美さん、どうしたの?」 2度繰り返して私の名前を呼ぶ、彼のくせ。 走ってきたのか、息が上がって少しだけ上擦っている。 何度もやめろと言っているのに、一向に聞く気配はない。 けれどその呼び方が、少しだけ日常を思い出させた。 「どうして……」 「ほら、そこの横断歩道の音楽聞こえたから、ここかなって。うちから近いからヤマかけた」 呆けた声で問うと、上気した顔で無邪気に笑う。 どうして、ここにいるのか。 どうして、ここに来たのか。 どうして、なんでもないように話しかけるのか。 どうして、私なんかに構うのか。 狭い歩道が、行きかう車のヘッドライトで照らされる。 後ろは打ち捨てられた工場で、フェンスに囲まれ人気はない。 加賀谷が、私に一歩近寄る。 私はその分一歩下がった。 怖かった。 この男が怖かった。 「寄らないで!」 「何もしないよ、芙美さん」 ゆっくりと、更に一歩つめる。 一歩、更に引く。 私の言葉には相変わらず耳を貸そうともしない。 私に好意を持っている振りをしながら、私の言うことを一度たりとも聞いてくれたことはない。 一歩一歩ゆっくりと追い詰めるように近づいてくる。 私もそれと同時に後ろへ下がる。 しかし、緑色のフェンスに阻まれ、これ以上後ろに下がることが出来なくなってしまった。 怖い。 怖い怖い怖い。 体が震える。 指先が冷たい。 声が、出ない。 「汚れちゃってる」 頬に、華奢な姿からは想像できない長くて骨ばった指が触れる。 びくりと、自分の体が一層震えたのがわかった。 思わず目をつぶる。 温もりが、伝わってくる。 温かさが、気持ち悪い。 人の体温は、慣れることがなくて、気持ち悪い。 「…さ、わらないで…」 「髪にも、それに、頬が腫れてる」 「触らないで!」 墨を拭うように指が髪を滑る。 その後で手の甲で、痛みが残る頬にそっと触れられる。 すでに恐慌状態だった。 怖くて怖くて、たまらなかった。 加賀谷が、私に触れるのが、怖くて気持ち悪くて仕方がない。 もう一歩、加賀谷が詰め寄って、どこにも逃げ場がなくなった。 気持ち悪さが、頂点に達する。 胃の痛みが増す。 何も入っていない空っぽの胃が、締め付けられる。 頭がガンガンする。 世界が回る。 目の前の男の顔が、歪む。 「う、く」 前のめりになって、痛みをこらえる。 こみ上げるものを抑えようと、口元を抑えるが、無理だった。 胃の痙攣と共に、胃液があふれ出す。 もう何も入ってないのに、それでも更に吐き出そうとえづき続ける 黄色がかったすえたにおいを放つ液体が、目の間の男のTシャツにかかる。 そのまま私はずるずるとフェンスに寄りかかりながら座りこんだ。 「大丈夫大丈夫だよ、芙美さん」 不快なはずなのに、男はそんな私の体を支える。 私より小さな、けれど思いのほか堅くてしっかりと私を捕える。 体温が気持ち悪い。 触れられるのが、気持ち悪い。 男の手が、優しく私の背を撫でる。 甘く高い声が、大丈夫だと繰り返す。 何度も何度もえづいて、汚らしい液体を吐き出す私を、抱え込む。 「大丈夫、大丈夫だよ、芙美さん、大丈夫だよ」 気持ち悪い。 気持ち悪い。 気持ち悪い。 痙攣する胃が気持ち悪い。 顔にかかる胃液が臭くて気持ち悪い。 墨が乾いて髪がべたべたになっていて気持ち悪い。 目の前の男の、優しい態度が気持ち悪い。 伝わってくる温かさが気持ち悪い。 慰めるように何度も背中を撫でる手が気持ち悪い。 そんなものは、知らない。 私はこんな温かさは、知らない。 何もしなくても、与えられる優しさなんて、知らない。 この男が、気持ち悪い。 |