「本当は、病院で見てもらったほうがいいと思うんだけど」 私は加賀谷の腕の中で散々吐き出してから、引きずられるようにして加賀谷の家に連れてこられた。 特に行くところもなかったし、家にも帰りたくなかった。 何も考えたくなかった。 だから、すべての行動をこの男に任せた。 すでに、抵抗するだけの体力も、なくなった。 加賀谷の家は、こじんまりとした2階建ての家だった。 明かりは2階の加賀谷の部屋にしかついておらず、急いで飛び出して来たのかテレビが附けっぱなしだった。 その他の部屋は、真っ暗だった。 ベッドにとりあえず横になるように言われたが、墨や胃液、埃など色々なもので汚れている服のまま、人のベッドに上がりこむのは躊躇した。 「私、汚れてます…」 「とりあえずTシャツとズボン出すね。俺チビだから大丈夫でしょ」 「………」 「はい、俺ちょっと下にいってくるからその間に着替えちゃって」 反論する隙も与えられず、シンプルなスウェットパンツとTシャツを手渡される。 そうしてせかせかと部屋を出て行ってしまった。 残された私は、突っ立ったまま部屋の中を、ぼんやりとしたまま見回す。 思ったより、部屋は片付いていた。 というより、あまり物がなかった。 テレビと机とローテーブルとベッド。 漫画雑誌や音楽雑誌などが置かれているが、意外と整然としている。 もっと雑多で、色々な少年らしいもので溢れかえっているものだと思っていた。 そんなことを考えていると、いつの間に帰って来たのか扉が遠慮なく開けられる。 「はい蒸しタオル、顔とか髪とか拭いてって、まだ着替えてないの!?」 「え、あ……」 「もう、ちゃっちゃと着替える!俺が手伝っちゃうよ!」 「え……」 「ほら、脱がしちゃうよ?」 「え?」 「無反応ー、もういいや。とりあえず顔とかふいて」 そう言って、手に持った湯気の立つタオルで私の頬を拭う。 熱すぎるぐらいのタオルは、腫れた頬にズキズキと痛みを与えた。 「痛っ」 「と、ごめん!」 今度はもっとゆっくりと拭われる。 少しだけ私より低い背が、ものすごい近くにあって真剣な目で私の頬を見ていた。 その真剣な目に、心臓がびくりと跳ねる。 「じ、自分でやります」 「遠慮しなくていいのに」 「いいですから!」 この人に触られるのは、依然として気持ちが悪い。 私はひったくるようにタオルを奪うと、加賀谷から一歩身を引く。 そんな態度にも、加賀谷は気を悪くした様子をみせずに、無邪気に笑った。 「はいはい、俺もう一回下に行って来る。今度はちょっと時間かかるからちゃんと着替えておいて」 「………」 「あ、こっちはアイスノンだから、頬冷やしなね」 頷くことも出来ずに、戸惑う私を置いて、加賀谷はさっさと部屋から姿を消してしまった。 階段を下りる音がして、階下に向かったのが分かる。 蒸しタオルと、タオルに巻かれた小さなアイスノン。 男の気遣いが、胡散臭くて、気持ち悪い。 でも、とりあえずすることもないから、言われたままに蒸しタオルで髪や顔を拭う。 あの男の言いなりになっているのは癪だったけれど、自分で何かを考えるのも面倒くさかった。 埃にまみれた手足を拭い、ひとまずすっきりとする。 少しだけ躊躇ったが、渡された服に着替えた。 こんな汚れた服では、座ることもできなかったから。 体は疲れ果てて、とりあえず座り込みたかった。 ずるずると崩れ落ちるようにフローリングに座ると、ひんやりとしていて気持ちよかった。 部屋の真ん中に置かれた小さなローテーブルに置かれたアイスノンをとる。 顔に当てると、熱を持った頬から痛みが引いて、気持ちよかった。 「気持ちいい…」 頭の中は飽和状態で、何かも考えたくなかった。 なんでこんなところにいるのか。 なんで家を飛び出したのか。 なんで頬が腫れているのか。 なんでこんなに、苦しいのか。 考えなくてはいけないことが、いっぱいあるけれど、今はもう何も考えたくなかった。 ただ、冷たい感触を味わっていた。 「あ、着替えたね、よかったよかった」 再度ノックもせずに部屋に入り込んできたのは、加賀谷。 階段を昇ってくる音がするはずなのに、まるで気づくことが出来なかった。 今度は盆を抱えて、その上には水差しと何か小さなお鍋が乗っている。 ローテーブルにそれを危なげなく置いて、私に向かって差し出して見せる。 「はい」 「…………?」 何がなんだか分からず首を傾げる私に、加賀谷はお鍋の蓋をとって見せる。 鍋の中には、水の分量が随分と多いおかゆが入っていた。 かすかに甘い匂いのするその湯気に、吐き気がこみ上げる。 食べ物の匂いが、気持ち悪い。 「とりあえず、食べて」 「い、いい…」 「だめ、本当は先に医者に見せたほうがいいんだろうけど、とりあえず胃に何か入れて」 「…いやっ」 口に入れて、咀嚼して飲み込む。 その行動を思い浮かべるだけで、胃液の酸っぱさが蘇る。 食道のヒリヒリとした痛みを、思い出す。 胃がムカムカとして、もう一度吐いてしまいそうだった。 「3分ぐらいにしたし、そんなに重くないから」 「やっ、いや!」 おかゆから目を逸らして必死にかぶりを振る私に、加賀谷は気にする様子もなくれんげでおかゆをすくって息を吹きかける。 熱くないように冷ましてから、私にそれを突きつける。 口を閉ざして、それから逃れようとすると、顎を捕まれ無理矢理開けられ放り込まれる。 「ん!」 「はい、飲み込んで」 どうして、こんなひどいことをするのだろうか。 一度だってこの男は、私の言うことを聞いてくれない。 吐き出そうとしたが、口を今度は無理矢理閉ざされて開くことができない。 再度吐き出すことを覚悟して、仕方なく私はそれを飲み込んだ。 しかし、かすかに出汁の塩味がするそのおかゆは、するりと喉を通り抜けた。 温かさが、ふわりと胃の中に広がる。 吐き気は、こみ上げてこない。 「え……」 「はい、もう一口」 もう一度よく冷まして、私にれんげを差し出す。 今度は、特に抵抗もせずにもう一口飲み込んだ。 味付けなんてほとんどないし、お米もほとんど入っていない薄いおかゆ。 けれど、甘みが口に広がって優しく胃を温める。 久しぶりに、食べ物を口にした気がした。 味を、思い出した。 作りおかれて台所で1人で食べる冷めた夜食ではない、栄養をとるためだけに流し込むスナックでもゼリー状の栄養補助食品でもない。 温かくて、『味』のする食事だ。 「あ…」 ねだるように口を開ける。 何も言わずに、加賀谷は冷やしてから私の口におかゆを流し込んでくれた。 それを、何度も繰り返す。 自分が何をしているのか分からなかった。 ただ、久々の『味』を感じたかった。 男は黙って、それに付き合ってくれた。 さすがに全部は食べれなくて半分残してしまった。 食事が終わると、用意してくれた水差しの中に入った薄いスポーツドリンクをコップに注いでくれる。 わずかに甘いその水が、乾いた体を染み渡っていく。 一気に飲み干すと、乾きが癒えていく。 もう一度注いでくれたので、再度飲み干した。 もしかして、私は飢えていたのだろうか。 食事が、心地よかった。 加賀谷はずっと無言で、私に給仕をしてくれていた。 体がぽかぽかと温まってくる。 指先まで、血が行き渡ってくる気がする。 なんだかまぶたが重くて、忘れていた眠気を思い出す。 気にしていなかった疲れが手足を重くする。 行動に支障をきたすから、4時間は睡眠をとることにしていた。 けれど、ベッドに入っても眠れない日々が続いていた。 祖父の声が、進まない勉強への焦りが、眠りに付くことを許さなかった。 浅い眠りを繰り返し、悪夢を見ては飛び起きる。 気が付いたら夜が明けていて、再度机に向かうことが多かった。 ずっと眠ることができなかった。 「…ごちそうさま…」 「はい、歯を磨くのはもういいから寝ちゃって」 「……でも、私、汚れてる…」 うつらうつらともうすでに夢の中にいるけれど、人のベッドを汚すのは気がひける。 けれど高く甘い声の持ち主は、意外な強さで私をベッドに引っ張りあげた。 「別に洗えばいいよ」 「でも……」 「いいから、今はもう眠って、ね?」 拒もうとしても、柔らかな布団の感触が気持ちよくて。 隅々まで行き渡った血の流れが気持ちよくて。 重いまぶたに抗うことができなくて。 ゆっくりと落ち着いて聞こえる自分の心臓の音に引き込まれるように、私は深い眠りに落ちていった。 ただ、髪を撫でる優しい感触だけが気持ち悪かった。 |