頭が真っ白になった。
コンマ10秒の間に、いくつもの考えが浮かんでは去っていく。

どうしよう。
どうしたらいい。
どうしたら、この場を切り抜けられる。

1、開き直る。
絶対殴られる。

2、謝る。
やっぱり殴られる。

3、逃げる。
後で間違いなく殴られる。

だめだ、どう考えてもひどい目に遭う。
逃げられない。
間違いない。
どれだ。
どれが一番被害が少ないんだ。
せめて一番被害のない選択肢を選ぶんだ!

いや、でもちょっと待って。
よく考えろ。
別に俺が誰と寝ようとこいつには関係ないじゃねえか。
俺とこいつの関係は別に甘いものじゃなく、ただのケンカの延長だ。
そうだ、開き直れ。
何か言われたら、お前にそんなこと言われる筋合いはないと言い切れ。
女々しいこと言ってんじゃねえよ、と嘲笑え。
そうだ、こいつにとやかく言われる道理はない。

「先輩?」
「は、はい!」

くそ、声が裏返った。
びびってんじゃねーよ、俺!
ちくしょう、情けねえ!

ぐるぐると混乱しながら突っ立っていると、桜川は俺と隣の蔵元を交互に見る。
そして、にっこりと笑った。
いつもの猫を被ったかわいらしい笑顔。
下手な女なんて太刀打ちできない完璧な笑顔。
背筋に寒気が走る。

「こんにちは。それじゃ失礼しますね」
「………え」

にこにこと笑ったまま、桜川は後ろの犬を促して俺の横を通り過ぎる。
犬は少しだけこちらにちらりと視線をよこすと、て桜川の後ろを追いかけていった。
残されたのはみっともなく立ちすくむ俺と蔵元。
隣の蔵元は気まずげに、俺を見上げた。

「…………」
「………もしかして修羅場とかそういう感じ?うげ、俺そういうの苦手」
「………」
「あ、ちょっと、零?」

その声も耳に入らず、なぜだか勝手に足が走りだしていた。
すでに廊下の端にいる桜川の背中を目指す。
曲がってしばらくしたところで、ようやくその小さな背中に追いついた。

「おい!」
「ん、秋葉?どうした?なに、今から勝負?今やったんじゃねえの?」
「ちげーよ!」

声をかけると桜川はいつもと変わらぬ様子で振り向いた。
大きな目は、相変わらずキラキラと光っている。
その笑顔に、余計に寒気がする。
怒ってる。
怒ってるんじゃないか、これは。
やべえ。
さっさと誤解を解かなきゃ。

「あ、あのな、今のはな……」

何言い訳してんだよ、俺。
でも、落ち着かない。
こいつがなんか変な誤解してキレてんじゃないかと思うと尻の座りどころが悪くなる。
別にこいつが怒るのが怖いとかそういうわけじゃなくて。
こいつが気にしてるんじゃないかと思っただけで。
変な誤解されたら、なんかそう、そうだ、こう変な誤解で殴られたら悔しいじゃないか。
それだけだ。
それ以外ない。
そう、だからこれは、その、殴られないような措置だ。

「今のはえっと、そのとにかく誤解で、その蔵元とは……」
「蔵元っていうの?先輩だよな?結構綺麗な人だな。お前の好みって分かりやすいよな。俺とかああいうのが好きなのな」
「は?」

しどろもどろと誤解を解こうとすると、桜川はそんなことを言った。
俺は思わず変な声が出てしまう。
桜川は口に手をあてて、難しい数学の問題を解くように考え込む。

「俺はああいう綺麗系は食指動かねえんだよな。あれとやるんだったら、女とやるのも一緒じゃねえ?でもやっぱああいうのもいいのかなあ」
「あ、えっと」
「それにしてもお前も絶倫だな。ま、ギックリ腰にならないように気をつけろよ」

ぽんぽんと俺の肩を叩いて桜川はもう一度くるりと踵を返す。
一瞬呆然としていたが、その背中をみて正気に戻る。
咄嗟に細く見えて実はしっかりしている肩を掴む。

「おい!」
「ん?なんか用あるのか?」
「ご、誤解して、お、怒ってんじゃねえよ!」
「ん?」

桜川は本当に何を言われているか分からないように俺の見上げて首を傾げる。
もしかして、本当に怒ってないのか。
なんとも思ってないのか。
この態度は怒ってるが故の態度、とかじゃないのか。

「なんか俺が怒るようなことしたのか?」
「いや、だから」

もしかして本当の本当に、こいつは分かってないのか。
あ、もしや俺が蔵元とナニしてたとか気づいてないとか。
そうだ、きっとそうに違いない。
だから、こんな態度なんだ。

「どうしたんだ?秋葉?」

不思議そうに首を傾げる桜川に、何を言おうかと考える。
どうやって誤魔化して、こいつに殴られないようにするか。
すると、一歩後ろに下がって見ていた犬が遠慮がちに口を挟んだ。

「………瑞樹、そいつはたぶん他の男と浮気したことを責められるんじゃないかと思っている」
「ばっ、そうじゃねえ!」

この馬鹿何を言ってるんだ。
そんなチキンな理由じゃなくてだな。
なんだ、その。
俺はこいつが馬鹿な誤解をしているんじゃないかと。
それでボコられたらたまったもんじゃないから、ただ、事実を伝えに来ただけで。

頭の中で幾通りの言葉が流れては消えていく。
桜川に事情を説明しようとしたその時。
女の子のようにかわいらしい下級生は、きょとんとして大きな目をぱちぱちと瞬いた。
そしてその後に、何度も何度も頷く。

「ああ、なるほど」
「そ、そうじゃなくて」
「なーんだ、お前もビビりだなあ」
「ち、ちげーよ!」

馬鹿にしたように鼻で笑う桜川に、悔しさがこみあげつっかかる。
けれど桜川はにやりとかわいらしい顔を歪めて笑うと、俺の背中をばんばんと叩いた。
軽く叩いているんだろうが、こいつのバカ力で殴られると痛い。

「いてえよ!」
「安心しろよ。俺はそんなケツの穴小さくねえよ」

まあ、つっこまれてないから小さいけどな、とその顔に似合わない下品なギャグを飛ばして朗らかに笑う桜川。
これ以上ないほどに下ネタなのに、なぜかイヤらしさを感じないのはこいつの特徴だ。
その顔に、何か別の感情を隠している様子はない。

いや、こいつは演技が上手な男だ。
もしかしたら怒りを隠しているのかもしれない。
自分でもよく分からないもやもやと共に、必死に桜川の別の感情を探そうとする。
なんだ。
どうしてだ。
俺はもしかしてこいつに怒ってほしいのか。
いや、そんな訳はない。
けれどやっぱり桜川はかわいらしく笑う。

「お前のケツを誰かと共有する気はないけど、別にチン○使うぐらいだったらいいぜ?お前だって男なんだし、ヤリたい時だってあるだろ?女とやるのと一緒だし、別に怒ることじゃない」
「………え?」
「ま、だから安心しろって。怒ったりしねえよ。セフレが別にセフレ持っててもキレたりするほど小さい男じゃない」

セフレ。

確かにそうだ。
愛も恋もなく、ヤルだけの関係。
それは確かにセフレと言われるにふさわしい。
ケンカの延長にあるだけ、セフレよりもドライな関係かもしれない。
暴力のようなセックス。
殺伐とした関係。
そんなの当然なのに。

なのになぜ、俺は今言葉が出ない。

「………」
「ま、俺とヤる時のために少しは○ン○マ○残しておけよ。若いうちにヤりすぎるとすぐに枯れるぜ?」
「…………」

ゲラゲラと下品に笑う。
そんな品のない仕草なのに、かわいらしい外見は全てを打ち消してそれすら清楚に感じさせる。
いつもは本性が分かっていてもクラッときてしまう笑顔も、今は何も感じない。
ただ俺は馬鹿みたいに、呆然とそこに突っ立っていた。

なんだ。
なんで俺は動けないんだ。
こいつがなんか言ってきたら言い返してやろうと思ってたじゃねえか。
女々しいこといってんじゃねーよ、って。
縛られるのは嫌いだ。
一人に決めるつもりなんかもない。
セフレ上等。
ヤるだけのさっぱりとした関係。
俺が好きな関係じゃねえか。

なんだよ、なんでなんかもやもやしてるんだよ。
訳わかんねえ。
何も言われなくて、殴られなくて、願ったりかなったりだ。
望むところじゃねえか。

「じゃあな。昨日は悪かったな。またこっちにも来いよ」

綺麗に綺麗に、汚れない天使のように屈託のない笑顔を見せる桜川。
ひらりと手をふって、今度こそ俺から離れていく。
俺はそれ以上何も言うこともできずに、桜川の小さく綺麗な背中を見つめていた。
頭ん中がぐっちゃぐちゃで、考えをまとめることができない。

「………おい」

少し離れた所にいた犬が、目をそらしながら声をかけてくる。
周りには誰もいない。
てことは俺に話しかけてるのか。
応えるのも面倒だったが、じっと突っ立っているからしかたなく視線を合わせた。

「……なんだよ、まだいたのか役立たず」

苛立ちを抑えきれずに面倒そうに応えた。
その言葉に神経質そうに細い眉を跳ね上げたが、犬は何も言わなかった。
眼鏡の下の眼を伏せて、珍しく俺に対して怒りを見せない。

「………瑞樹のあれは、本気だ」
「あ?」
「瑞樹は、残酷なところがある。特に何にも、執着しない」

むしろその眼は、どこか同情するような響きがあった。
犬に同情されている。
その事実に、苛立ちが頂点に達する。

「あ?何のつもりだ、この馬鹿犬」
「………別に。ただそれだけだ」

挑発するような言葉にも、犬はただ静かに応えた。
そして今度こそ飼い主の背中を追っていった。
いっそ、つっかかってくればいいものを。
余裕を見せるような態度に、怒りが募っただけだ。

腹の中がぐちゃぐちゃする。
この感情がなんだか分からない。
ただムカツキが体を支配する。

「なんなんだよ、くそっ」

この怒りが誰に向けられたものなのかもわからない。
俺に対してなのか、桜川に対してなのか。

ただ俺は解消できない怒りのまま何かに対して毒づき続けた。





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