それは、小学校もそろそろ終わりにさしかかった頃だったろうか。 犬を、拾った。 ある日、学校の帰り道で、後ろから犬が付いてきた。 小汚い犬だった。 顔も不細工だった。 ひょろひょろに痩せて貧相だった。 もう成犬で、首にはぼろぼろの首輪をしている。 哀れっぽくキュンキュン鳴いて、なぜか俺の後ろをついてきた。 おそらく捨て犬。 最初は無視していた。 きっと放っておけば、保健所に連れて行かれるだろう。 犬は嫌いだった。 俺よりも立場が上の犬が、嫌いだった。 あの女に、可愛がられていた犬。 犬は、嫌いだ。 しかしどんなに無視しても、犬はついてくる。 走っても、追い払っても、犬は情けなく鳴いてついてくる。 煩わしくて蹴りを入れようとして、犬が怯えたように身を小さくした。 その情けない眼を見て、気づいた。 捨てられて、誰からも見返りをうけることのない犬。 飼い主もなく。 餌もなく。 愛情もなく。 あるのは罵倒と暴力と無関心。 なんだ、俺と一緒だ。 そうか、この犬は俺と一緒なんだ。 そうか。 それなら、いい。 こいつは、同類だ。 同類なら、一緒にいれるかもしれない。 人も犬も、嫌いだ。 でも、この犬は、俺と一緒のもの。 だから俺は立ち止まると、しゃがみ込んだ。 犬は俺の前にきて、座る。 丸い眼が俺を見ている。 「………一緒に来るか?」 手を差し伸べると、犬はよろよろと近づいて俺の手を舐めた。 ぬるりとした感触が、温かかった。 胸が熱くなった。 訳も分からない激しい感情が、胸を突く。 その熱いものが、目までこみ上げてくる。 はじめての感情に、意味が分からず、初めて泣いた。 ぼろぼろと、後から後から涙が出てくる。 何で泣いているのか、分からなかった。 それでも涙は止まらない。 後から後から流れてくる。 犬は不思議そうに俺を見上げると、俺の顔を舐めた。 俺の頬を舐めて、涙を拭う。 「ふ、ぅ」 思わず、その犬を抱きしめた。 犬はされるがままに、俺の肩に頭を預けた。 温かい。 なんて、温かいんだろう。 俺は、犬を抱きしめてそのまま道端で泣き続けた。 訳のわからない感情でいっぱいだった。 胸が熱くてたまらなかった。 どうしようもなく、苦しかった。 ただ、犬の生臭い息が、その薄汚れた毛皮が、温かかった。 犬を飼うことは許された。 というか、誰も興味を示さなかった。 部屋で一緒に寝ていたから、掃除のものには嫌な顔をされたが。 世話係にも嫌みを言われて殴られたが、気にはならなかった。 十分な小遣いはもらっていたので、犬の餌代ぐらいまかなえた。 保健所への登録や、予防注射をしなければいけないなんて知識はなかったので、ただ餌を与えて洗って散歩をして遊んだ。 俺の好きな甘いものを与えた。 犬は甘いものはあまり好きではなかったようで、それはちょっと不満だった。 トイレのしつけだけが大変だったが、元々飼い犬だったらしく覚えは早かった。 たまに悪さをした時に手を振り上げると、犬はきゅんきゅんと鳴いて怯えて小さくなった。 きっと元の飼い主によく殴られていたのだろう。 怯えて、震える。 だから、あまり殴ることはしなかった。 ただ、しつけは必要だから、たまには殴った。 その分、褒める時は沢山褒めた。 すると犬は喜んで、俺の手を舐めた。 「………お前、名前何にしようか」 俺はそいつを犬と呼んでいた。 そいつはそれで満足していたようだが、名前は必要だと思う。 名前は、その存在を認めるもの。 「考えておくな。かっこいい名前」 犬はわん、と嬉しそうに吠えた。 俺はくすくすと笑って、そいつの頭を撫でる。 「俺はな、京介って言うんだ」 「わん」 犬はただ嬉しそうに鳴く。 ぺろっと頬を撫でる。 「覚えておけよ。俺の名前だ」 犬はもう一度わん、と鳴く。 少しだけ、こいつも言葉が話せればいいのに、と思った。 今のままで満足だった。 でも、こいつに名前を呼ばれればきっととても、嬉しいだろうと、思った。 犬はまるで心が分かるように、俺の感情に敏感だった。 兄弟にリンチされて、ものが食べれない時はそいつも餌を食べずにずっと隣にいた。 風邪で、誰にも気付かれず寝込んでいる時も、心配そうに頬を舐めていた。 俺が機嫌がいい時は、一緒に飛び跳ねて喜んだ。 俺が不機嫌な時は静かに隅で丸くなっていた。 俺には、そいつだけだった。 そいつだけが、俺の唯一の同類だった。 絶対的な服従。 盲信的な信頼。 飼い主を信じて、火の中に飛び込むような。 飼い主に殉じて、餌を食わなくなるような。 そんな犬だった。 そいつと暮したのは、3か月ほど。 あれが、初めて感じた温かさ。 嬉しい、温かい、何かといる心地よさ。 初めて知った。 自分は一人だったのだと、初めて分かった。 孤独、というものを知った。 そして、それが癒されるのも、知った。 今思い出しても、その日々は明るい。 名前を、決めようと思っていた。 明日、決めた名前で呼んでやろうと思っていた。 ずっと一緒にいると思っていた。 あいつさえいれば、何もいらないと思った。 俺は満ち足りていた。 周りがどんなに暗闇でも、そいつさえいれば耐えられた。 その日が来るまでは、そう思っていた。 |