「うっ………く………」

瑞樹が、いってしまう。

ずっとずっと、一緒だった瑞樹。
誰よりも近くにいることを許してくれていた。
俺の隣に、ずっといてくれた。

遠くにいってしまう。
いなくなる。
瑞樹が、あいつのものに、なってしまう。

そして、俺は捨てられる。

「ふ、う…………」

堪えようとしても、嗚咽が漏れる。
不安に押しつぶされそうになる。
一人にされる不安。
置いて行かれる恐怖。
幼いころに、仕置きで一人物置に閉じ込められたときの暗闇が蘇る。

暗い。
寒い。
怖い。

いやだ、怖い怖い怖い。
助けて瑞樹。
怖い、瑞樹。
瑞樹瑞樹みずきみずきみずき。

体が震える。
堪えられない。
指を噛み、必死で嗚咽をこらえる。
叫びだしてしまいそうだ。

「み、ずき………」

噛みすぎて、口の中に鉄の味が広がる。
痛みは、感じない。
ただ、怖い。
震えが止まらない。

もっと、もっともっと痛くすれば、この震えが止まるだろうか。
この不安が消えるだろうか。
怪我をしたら、瑞樹は心配してくれるだろうか。
まだ、怒ってくれるだろうか。
手当てをしてくれるだろうか。

ああ、図体ばかりでかくなっても、俺はいまだに瑞樹に頼ってばかりだ。
こんなだから、捨てられるんだ。
また、俺は置いて行かれるんだ。

自信に満ちていて、強くたくましく迷いのない、誰よりも美しい瑞樹。
一緒にいるだけでよかった。
ただ、隣にいるだけでよかった。
それだけ不安は消え、満ち足りていた。

それなのに、あいつが。
あの下衆が。
あいつが瑞樹を奪っていく。
瑞樹が、俺のもとから去っていく。

今まで瑞樹があんなに人に興味を示したことはない。
女ができても、俺は安心していられた。
すぐに飽きるからだ。
瑞樹はすべてを持っているから、何にも深い執着を示さない。
だから、俺は安心していられた。
瑞樹の隣に最後まで残っていられたのは、俺だったから。
俺だけだったから。

いつか、きっと瑞樹には似合いの綺麗で頭がよく気高い完璧な女性が隣にくるだろう。
それはそれで、よかった。
そんな二人を守るのが俺の役目になるだろう。
そしてずっとずっと完璧な瑞樹の、傍らに俺はありつづける。
それで、よかった。
瑞樹の隣には、瑞樹と同じように完璧な人間がいなければいけないのだから。

それなのに。
なのに。

『そいつは俺のものだ。手をだすな』

そんなこと、今まで言わなかった。
俺が望めば、最後には譲ってくれた。
俺の言うことを、聞いてくれた。
誰にも、そんな執着を示さなかった。
どうしてあんな下衆で野蛮で、馬鹿な男を。
どうして、どうしてどうして。

「い、やだ………」

一緒にいて、瑞樹。
俺の傍にいて瑞樹。
俺は役立たずだけれど、捨てないで。
お願い瑞樹、俺を置いていかないで。
お願い一人にしないで。

胸の内ポケットから、キーホルダーを取り出す。
昔、瑞樹がくれたものだ。
中に写真を入れられる、小さなキーホルダー。
母のいない俺に、母の写真を入れるといいと言った。
そうしたら寂しくないと、そう言ってくれた。
お前は一人じゃないと、小さな手で頭を撫でてくれた。

俺は、そこに瑞樹の写真を入れた。

俺の中で絶対の人間は瑞樹だけだ。
大事な人間は瑞樹だけ。
父も母も兄も、どうでもいい。
瑞樹がいれば、それでいい。
それだけで、よかったんだ。

でも、このキーホルダーをもう開けない。
中には小さな幼い瑞樹が、笑っている。
どんな暗い夜も、父や兄に仕置きをされた後でも、笑う瑞樹がいれば、大丈夫だった。
力強く優しく温かく、俺を励ましてくれた。
だから俺は大丈夫だった。

でも、もう開けない。
金色のキーホルダーは長い間、開いていない。
俺の、瑞樹への薄汚い感情を気づいてしまったから。
瑞樹に、触れたいと思ってしまったから。
抱きしめて、抱きしめられたいと、望む自分に気づいてしまったから。
醜い想いとともに、キーホルダーを封印した。

『抱きたいのか?』

あのいけすかない男の言葉が脳裏に蘇る。
違う違う違う違う。

瑞樹は絶対のもの。
瑞樹は俺の主。
瑞樹は正しいもの。
瑞樹は綺麗なもの。

こんな薄汚い感情を抱くなんて許されない。
俺なんかが触れるのは許されない。
瑞樹は、綺麗でいなくちゃいけないんだから。
だからこんな汚い俺が触れるなんて、あっていいわけがない。

だから、あんな男も触れてはいけない。
なのに、瑞樹はあいつに執着する。
ひどい、ひどいひどいひどい。

いい子だって、頭を撫でるのは俺だけだったのに。
それなのに、あんな男に。
どうして、どうして、瑞樹。
どうして置いていくの。

俺が汚いから?
俺が役立たずだから?
俺は、やっぱりいらない人間?

キーホルダーは開けない。
だた、握りしめる。
いつも恐怖も不安も払ってくれたそれは、けれど冷たい感触を俺に伝える。
温かさも自信も、湧いてこない。

「う、あ………」

子供のように涙が止まらない。
怖くて仕方ない。
一人になってしまう。
捨てられてしまう。

強くなりたかった。
瑞樹のように強くなりたかった。
瑞樹を守れる人間になりたかった。
瑞樹とずっと一緒にいられる人間になりたかった。

なのにこんなに弱い。
守る対象に守られている。
心も弱い。
こんなことですぐに泣いてしまう。

強くなきゃ。
強くならなきゃいけない。
強く強く強く。

じゃなきゃ捨てられてしまう。

眼鏡を外した顔を、両手で覆う。
それなのに、漏れる嗚咽。
こんなでは部屋に戻れない。
瑞樹に気づかれてしまう。

そこで、ガサリと茂みが響く音が聞こえた。
俺は慌てて音の出所を確かめようと顔を上げる。

「よく泣くな」

一瞬瑞樹かと思った。
瑞樹はこうしてよく探しに来てくれたから。
父や兄に失態を怒られた時に、人に見つからない場所で泣く俺を見つけに来てくれたから。

『泣くなよ』

そう呆れたように言いながら。
期待と、恐怖に、声を失う。
探してほしい、けれど、見つかりたくない。

しかしそんな迷いは杞憂だった。
茂みから現れたのは、瑞樹ではなかった。
瑞樹とは違う、長身。
低い声。
酷薄そうな薄い唇、細い瞳。
のんびりとした仕草と、それにそぐわないどこか張りつめた雰囲気。

「泣きやむのを待とうかとも思ったんだが、終わらなそうだからな」

見たことが、ある。
あの下衆な男と、一緒にいることが多い一つ上の男。
秋庭と同室だったはずだ。
確か、柳瀬。
そんな名だった。

「落し物」

そう言って、ペンを渡される。
学ランの胸ポケットに付けていたものだ。
さっき、あいつと組み合った時に、落としたのか。
差し出されたまま、つられて出した手にそれが落とされる。

「泣きやんだな」
「あ、あ………」

涙を慌てて手の甲で拭う。
こんなところ、あいつの仲間に見られた。
何を言われるか分からない。
もう弱みを見せたくない。

あいつと一緒にいるぐらいだ。
こいつもロクな男じゃないはずだ。

目の前の男は笑ってはいない。
だが、ただ無表情で俺を見つめていた。
顔が熱くなる。
笑われるよりも、恥ずかしかった。

なんて、弱くて情けない俺。

俺はペンを握りしめると、その場から立ち上がった。
逃げるように走り出す。
いや、実際逃げていた。
後も見ずに、柳瀬から逃げ出す。

ただ、恐怖に満ちていた。





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