痛い。

体中が痛くて、熱い。
関節が軋む音がする。
指も動かせないぐらい、だるい。
かろうじて巻きついてるシャツが、汗に濡れて張り付いて気持ち悪い。
クーラーの効いてない特別教室は、蒸し暑くて息苦しい。
体の中に、何かまだ入ってるような感触がして、吐き気がする。
内臓を何度も何度も突き上げられて、中で汚らしいものを吐き出された。

「……っ、痛」
「大丈夫か?俺も、背中が痛い」

その笑いを含んだ声に、顔が熱くなった。
ジーンズとシャツを身につけた男の背中には、きっと蚯蚓腫れのような赤い筋がいくつもある。
誰がその傷をつけたのか、霞んだ記憶の中でうっすらと覚えている
いっそすべて忘れてしまっていればよかったのに。

顔をそむけると、それを許さないかのように長い指であお向けられた。
長い指が汗で濡れて顔に張り付いた俺の髪を掻き揚げる。
今まで散々自分を弄っていた奴とは違うような、優しい仕草だった。
冷たい手が、頬にあたって、少しだけ心地いい。
けれど触られたくなくて、重い腕をなんとか持ち上げて振り払った。

くすくすと楽しそうに笑って、指の主はめげずに再度手を伸ばしてくる。
眼鏡がなく歪んだ視界に、酷薄そうな切れ長の目が映る。
無表情な印象だったそいつは、愉しんでいた。

襲ってくる苦痛。
屈辱。
羞恥。

何よりも怒り。

粉々になってしまった矜持の最後の一欠けらで傍らに座り込むそいつを睨みつける。
しかし睨みつけられた相手は、面白そうに笑いを深めた。

「そんな色っぽく誘うなよ。さすがに3回目は俺もちょっと辛いんだけど」

小さい頃から武道をやっていて、腕には少しなりとも自信があった。
大切な人間を守るために、強くなったはずだった。

それなのに、たやすくねじふせられた。
自由を奪われ、好きなように遊ばれた。
何よりも、俺は、それに屈した。
この男にすがり、熱に身を任せ、許しを乞うた。

ここに来てから、俺は弱いことを思い知らさせてばかりいる。
なんて弱々しい。
鍛えた腕も、心も、なんの役にもたたない。
何一つ、瑞樹どころか、自分自身すら守れない。

こんな、もっとも最低なやり方で、プライドも自信も、何もかもを粉々にされた。
悔しくて、怒りで、頭が熱くなる。

「あ、そうだ」

カシャと、電子音が響いて俺は伏せていた目を開ける。
そこには、ケータイを俺に向かってかざしているそいつの姿。
最悪の想像に、背筋が一瞬で冷えた。

「…ま、さか……」
「記念撮影」

そういって、くっと音をたて喉だけで笑ってみせる。
自分の想像を肯定され、俺は息を呑んだ。
目の前が真っ暗になって、自分が穴底に落ちていく錯覚に陥る。

「やめろ!」

声を上げようとして、けれど叫びすぎた喉は渇いていてしゃがれた声しか出ない。
奪おうとして伸ばした手は冷たい手によって阻まれた。
そのままひねられて、再度埃がまみれた床に縫い付けられる。
ギリギリと手首に力を入れられて痛みにうめく。

「や、め」
「ほら、動くなよ。笑って」

カシャリ、再度音と共にフラッシュが自分に降りかかる。
絶望に、乾いていた涙が再度流れ出す。
こめかみをつたって、床に落ちる寸前に、長い指が救い上げた。

「これからも、仲良くしような」

そして、そいつは綺麗に笑った。
無表情に見えたその細い眼は蛇のように、残忍な色をにじませていた。
絶望で、目の前が真っ暗になる。

どうして、こんなことに。
なんで、どうして。

「ほら、これは返してやるよ」

そう言ってむき出しの胸の上に軽い感触の何かが落とされた。
ずっとずっと大事にしていた金色のキーホルダー。
俺の、大事な宝物。
腕を開放されて、俺は慌ててそれをすくい取る。
痛みも忘れ上体を起こし、すがるようにそれを握りしめる。

みずきみずきみずきみずき。
大丈夫、大丈夫。
これがあれば大丈夫。
いつだってこれは、俺を守ってくれた。
だから、大丈夫。
怖いことなんて、何もない。
俺には、瑞樹がいるんだから。

「そんなに、それが大事か?」
「あ………」

シャツを羽織っただけの男は、そんな俺の様子を興味深げに見ている。
そしてふいに、俺の手の中のものに、手を伸ばしてくる。
窓を背にした男の手は、逆光で黒く染まる。
大きな手が、俺からそれを取り上げようとする。

大きな、大きな黒い手が。

「だめ!」
「…………え」

俺はその手から逃れるように、身を小さくする。
俺から何もかもを奪おうとする手から、それを守るために。

「ごめんなさい、これはとらないで、ごめんなさいごめんなさい」
「おい」
「これは瑞樹様からもらったんです。だから取らないで。お願いします。もう悪いことはしません。ちゃんと言うこと聞きますから」

瑞樹、助けて瑞樹。
お願い助けて。
とられてしまう、瑞樹のお守りが取られてしまう。
たすけてたすけてたすけて。

「あ」

体を小さくしてそれから逃れようと身を縮めていると、ふわりと温かいものに包まれた。
大きい手が背を抱き、頭を柔らかく撫でる。
俺を戒め、罰を与えるだけの手が、優しく俺を包み込む。
なんで。

「と、らないで……」
「大丈夫、取らないよ」
「………とらないで」
「大丈夫だ、取らない。それはお前のものだ。大丈夫だ、大丈夫」
「ほんと………?」
「ああ、とらない」

その言葉に俺は恐る恐る、体の力を抜いた。
大きな手は、少しだけ乱暴に俺を抱き寄せる。
顔を膝に埋め、ぎゅっとキーホルダーを握りしめたまま、小さく息をつく。
どうやら、この手は俺を殴らない、取り上げない、何もしない。
守ってくれる。

そっと、頬に感じる胸に身を預ける。
手は、柔らかく俺の硬い髪を撫でる。
気持ちがいい。
懐かしい。
昔、こうしてくれた。

「みずき………」
「瑞樹じゃない。言っただろ、京介だ」

しかし、聞こえてきたのは高く澄んだ大好きな声ではなかった。
低くて感情を含まない、冷たい声。
そして、混乱していた思考がようやくまとまりをもって現実を認識する。

俺は、今、何にすがっていた。
急速に取り戻した現実感が、体の痛みとそれを与えた男を思い出す。
顔を上げると、俺を腕の中に収めた男がかすかに笑う。

「セックスの後に、他の男の名前を呼ぶのは無粋だな。あんなに教え込んでやったのに」
「あ、は、放せ」

顔に血が上り、恥辱で頭が熱くなる。
力の入らない手で、男の硬く厚い胸を押し返す。
今度はあっさりと手を離してくれた。
俺はうまく動かない体を叱咤して、できるだけ男から体を離す。

この男の前では、はじめから見られたくないところばかりを見られている。
これまで積み上げてきたすべてが、突き崩される。
作り上げてきた、自分という人間が壊されていく。

「な、なんなんだよ、お前…、どうして、こんなこと……」

男はじっと俺を愉しげに見たまま、問いに首をかしげる。
少し考え込むように首をかしげると、表情を見せないまま答える。

「言っただろ、興味があるって」
「お、まえ!!」

思わず掴みかかると、軽くいなされ、再度埃臭い床に押し付けられる。
打ちつけた肩も、弄ばれた下腹部も、軋む筋肉も、すべてが痛む。
屈辱で、目の前が真っ赤になる。
もう一度、アレをされるのかと体が堅くなる。
体の中を人に好き勝手に暴かれる、屈辱。
汚れて堕ちていく、恐怖。
何よりも、熱に侵され自分が自分のものでなくなっていく。

「元気だな。あんなにヤったのに」
「離せ!離せ離せ!やめろ!!」
「さすがにもうしねえよ。こっちが擦り切れる。お前の中、すっごいキツいしな」
「う、うるさい、うるさい黙れ!」
「かわいかったぜ。許してやめて、お願いって」

恥を知らない言葉に、耳まで熱くなる。
散々に弄ばれた。
自分のものとは違う、グロテスクなそれに中をかき回された。
焼けつくような痛みと、訳の分からない熱さに、頭の中ごとかき回された。
俺は子供のように泣き叫んで、許しを乞うた。
自分の体が、まるで自分のものではないようで、怖かった。
熱に浮かされ、心を覆った壁がすべて取り払われる。
せっかく作りあげた自分を守る殻が、壊れていく。

「ま、記念写真とったし、これから仲良くしようか」
「…なっ」
「呼んだらいつでも来いよ」
「この、最低野郎!変態!下衆が!!」
「いいな、もっと吼えろよ」

そう言って低く喉を鳴らす。
柳瀬にとって、俺の抵抗なんて小動物をあやすようなものなんだろう。
変わらない細い眼で、愉しげに俺を嬲る。

「別に言ってもいいよ?俺に犯されたってな」
「お前、なんて、お前なんて」
「俺から言ってやってもいいぜ、お前の大事な瑞樹に。秀一は俺の下で何回もイきましたってな」

瑞樹に、言われる。
それだけはだめだ。
瑞樹にだけは、汚い俺を知られたくない。
ただでさえ役立たずで汚い俺が、更に汚れてしまった。
汚い汚い汚い。
瑞樹に、嫌われる。
それは、俺にとって死ぬよりも辛い。

「……瑞樹には言うなっ!」
「お願いします、って言ってみな」
「最低だ!!!お前なんて死んでしまえ!」
「いいな、最高の告白だ」
「殺してやる!殺してやる殺してやる!」
「ああ」

床に仰向けになった俺に、男が顔を近づけてくる。
恐怖で、手に力が入る。
そっと、酷薄そうな薄い唇が重なる。
俺は、今度こそその唇に歯を立てた。

「……っ」

小さく声をあげ、痛みに眉をひそめる男。
しかしにやりと笑うと、そのまま口づけを深くした。
熱い舌が、口内に入り込む。
男の舌が絡められ、血の味が広がる。
気持ち悪くて、吐き気がした。
胸を叩いても蹴りつけても、離されない。
抱きすくめられ、痛いくらいに吸われ、弄ばれる。

舌を噛み切ってやろうかと、歯に力を入れる。
しかし、今舌をなぞるこの塩臭い味が口の中に広がると思うと、恐怖に身がすくむ。
それに気付いたのかどうか、男は顎をつかみ口を広げさせた。
俺はなすすべもなく、蹂躙される。
だらしなく口を広げたまま、されるがままに口内を犯される。
含み切れない唾液が、口から溢れ頬を伝う。

背筋をゾクゾクと走る何かが、ますます俺を恐怖に落とし込む。
これは、嫌悪。
そして恐怖と憎しみだ。
それ以外の何物でもない。
情けないことに自然と体が震えると、あやすように男が背を叩く。

まるで、子供だ。
鍛えた腕も、技も何も役に立たない。
打ちのめされる、敗北感。
もっと、俺は強くなったはずなのに。
俺は、瑞樹を守りたくて、強くなったはずなのに。

どうして、こんなにも弱いんだ。
息が苦しくて、悔しくて、涙がこぼれていく。
この男が、憎い。

口の中にたまった血液混じりの唾液を呑み込まされる。
人の体液が汚くて、鉄の味のするそれに、軽くえづく。
吐きだしてしまいたい。
今の飲み込んだものも、体の中にまだある体液も。
薄汚い、この男の残滓を消し去りたい。

「う、ぐ」
「ああ、お前そういう顔が最高にいいな」
「けほ、ぐ」

苦しげにえづく俺を見て、男は満足そうに切れた唇を拭う。
無表情で物静かに見えた男は、獲物を見据えるケダモノの目をしている。
張りつめた緊張感のある空気を身にまとい、男は静かに笑う。

秋庭の隣にいた男。
あのいけすかない男より、ずっと大人しく見えた。
いざとなったらこいつを利用して、秋庭を瑞樹から引き離すことも考えていた。

なんて、馬鹿だ俺は。
どうして気付かなかったんだ。
この獣の匂いを、なんで感じとれなかったんだ。
だから、瑞樹にも父にも甘いと言われる。

秋庭なんて、全く怖くない。
いくら打ちのめされても、床に這いつくばせられても、怖くない。
あいつの行動には、目的があって、感情があるから。

この男は違う。
何を考えているのかわからない。
感情が見えない。
目的が見えない。
自分と同じものに、感じられない。

だから、怖い。

そうだ、俺は怖がっている。
この男を、怖がっている。

再度唇を重ねてくる男に、俺は震える体を抑えられなかった。
手の平の中のキーホルダーを握りしめて、ただ祈った。

「汚れちまえよ」

男の言葉を打ち消すように。
俺の中の、ただ一つの美しいものを。





BACK   TOP