男はその部屋に溶け込むように、寛いでいる。
何にも囚われずに悠然と佇んでいる。
そこは、肉食獣の巣。

穏やかに笑うその口には、牙を隠し。
何にも関心を示さないその眼は、鋭さを宿し。
鋭い爪を研ぎ、無表情と無関心に隠した野性で獲物を狙う。

迂闊に巣に足を踏み入れた草食動物は、ただその身を捕食されるだけ。



***




胸ポケットに入れた携帯が、振動を伝える。
思わず、体が震えたのが分かった。
悪寒が走り、指先まで冷たくなっていく。
声が出そうになったのを、寸前でこらえた。

この携帯に連絡する人間なんて、数えるほどしかいない。
事務的な用事を伝える父と兄、旦那様、そして瑞樹。
そのうちの一人は、ここにいる。

「どうした、秀一?」
「あ………」

瑞樹が、不思議そうに俺の顔を見上げている。
大きな目は純粋に俺を気遣っている。
綺麗な綺麗な、瑞樹。

「秀一、顔色が悪い。どこか具合が悪いのか?」
「………いや、ああ、ちょっと寝不足で」
「そうか。大丈夫か?」

瑞樹の心配が嬉しくて、胸が温かくなる。
反射的に、なんでもな、と言いそうになった。
けれど、今は瑞樹から離れなければいけない。
逃げ出しそうになる感情を、理性で辛うじて食い止める。

「その………先に部屋に帰っている」
「そうか。わかった。無理するなよ」
「うん、ありがとう」

瑞樹は、よほど必要ない限り俺の行動を制限しない。
お前も自由に遊べ、といつも言われる。
傍にいるのは、俺の勝手だ。
瑞樹は一人でなんでもできる。
強く聡く、美しい瑞樹。
俺なんて、本当は必要ないのだ。
ただ、俺が傍にいさせてもらっている。
きっと、瑞樹はこんな金魚のフン、鬱陶しいだろう。

でも、瑞樹は優しいから、俺はその優しさに甘え続ける。
瑞樹がいなければ、俺は一人では、立っていられない。

「じゃあ」
「ああ、ちゃんと休むんだぞ」

にっこりと笑う瑞樹は、内面の男らしさとは裏腹に儚い少女のように美しい。
少女のような外見も、誰よりも強いその力も、わがままで乱暴なところも、王者のように堂々とした態度も、そのすべてが瑞樹の魅力。

促され、俺はその場から離れる。
瑞樹はこれから、ほかの友人と過ごすのだろうか。
それとも、あの男に会うのだろうか。
あの男と、あんなことをするのだろうか。
あんな、汚い、あんな、コト。

吐き気がこみ上げる。
熱も痛みも屈辱も、体に染みついて、離れない。
自分が自分でなくなってしまう、恐怖。

汚い汚い汚い汚い。
体を擦り切れるぐらい洗っても、あの男の感触が離れない。
あの男の声が絡みつくように、脳裏にこびりついて蘇る。
こんな汚い俺、本当に瑞樹に捨てられてしまう。

瑞樹から見えない位置まで来たことを確認して、携帯を見る。
そこには、見たくもない文字が、表記されていた。

どうしたらいい。
どうしたらいいんだ、瑞樹。

瑞樹瑞樹瑞樹。
みずき。

たすけて。



***




入ったとたん、こもった熱気と古い本の据えた匂いで吐き気がした。
夕陽の差し込む特別教室は、薄暗く、どんよりとした空気がする。
息をするたびに、黒いものが胸の中にたまっていく気がする。

男はあの時と同じように、悠然と落ち着き払った様子で窓辺に座り込んでいる。
逆光で、その表情はよく見えない。
逃げ出したい。
足が震える。
いますぐに、逃げろと、本能が告げる。
けれど、逃げるのが許せなくて、俺は矜持を振り絞り男を睨みつける。

「………何の、用だ」
「分からないのか?あんだけ体に教え込んでやったのに」

俺の態度を気にもせず、男はくっと喉で笑った。
表情はよく見えない。
けれど、この前のように楽しげに笑っているのだろう。
蛇のように、残酷な表情の見えない眼で。

「う、うるさい!!」
「体は大丈夫か?優しく抱いてやったつもりだが、初めてだったしな」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」

頭が怒りで赤く染まる。
考える暇もないまま、俺は柳瀬に向って走り出していた。
座り込んでいる柳瀬が立ち上がる前に、決める。
ちょうど足を上げたところに来る顔に向けて、勢いを利用して蹴りを入れる。
その後、隙が出来たところに、鼻か、首を狙う。
絶対的に力にもリーチにも差のある柳瀬相手には、急所を狙って無力化するしかない。

シュミレートは完璧だった。
何度も何度も、血が滲むほど修練を積んだ。
瑞樹の、隣にいれるように。

しかし、男は軽く俺の足を左手で払う。
力は乗っていたはずだ。
前と違って、油断も何もない。
けれど、柳瀬は軽く力を逸らすと、バランスを崩して宙に浮いた俺の脚を右手で掴む。
そのまま強くひかれ、俺は簡単に倒れこんだ。
積み上げられた資料の上に、したたかに背を打つ。
はずみで眼鏡が、顔から外れ堅い音をたてて床に転がる。

「つっ……」
「はい、終了」

そのまま足に乗りあげられ、顎を掴まれ無理やり顔を上げさせられる。
大きな手が顎をつぶすように、力を入れる。
屈辱で、涙が浮かんでくる。
弱い涙腺に、自分が嫌でたまらなくなる。
こんな男の前で、泣きたくなんてない。
どうして、俺はこんなに、情けないんだ。
どうして、瑞樹みたいになれないんだ。

「く、そ、くそくそくそくそ」
「お前、自分の立場、わかってるのか?」

一旦手を離すと、柳瀬は笑ってその手を振り上げた。
手加減なしに平手が頬を打つ。
勢いで床に頭をうち、鈍痛で脳が揺れる。

痛い。
やめて。
痛いのはいや。
殴らないで。
いい子にするから、もう怒らないで。

違う、これはあの人じゃない。
ただの卑怯な男だ。
しっかりしろ。

「く、うっ」

眩暈がして焦点をあわせられないうちに、男が腕で喉を圧迫して体重をかける。
気道がふさがれ、息ができない。
息がかかるほど、顔を寄せられる。

「ぐ、は」
「活きがいいのも、逆らうペットも嫌いじゃない。しつけがいがある」
「く………」
「いいか、俺に逆らうな。俺に、牙を剥くな」

腕に爪を立てて外そうとすると、更に体重をかけられる。
脳に酸素がいかなくて、頭が真っ白になっていく。
生理的な涙が浮かび、こめかみに濡れた感触がする。
男の熱い息が、唇にかかる。
ぼやけた視界に、切れ長の目の男が笑っている。

外そうともがいていた俺の手が動かなくなったのを確かめて、男の腕がどいた。
一気に肺に酸素が入り込む。
俺は足りなかった空気を求めて浅い呼吸を繰り返す。

「か、はっ、げ、ぐ、ごほ、けほっ」
「体に叩きこめ。新しい飼い主は俺だ」
「ち、がう、俺の主は、みずき、だ」

逃れたくても、全身でのしかかれ、男の視線が絡みつく。
違う違う違う違う。
俺は瑞樹のもの。
瑞樹のものにしてもらったから、俺はここにいれる。
俺の主は瑞樹だけだ。

「俺だ。そもそも、瑞樹はお前のこと必要としているのか」
「っ」

息を呑む。
鋭い爪で、心の柔らかいところを掻き毟られた。
血が噴き出す。
瑞樹が俺をいらなかったら。
だめだ、考えちゃいけない。
俺に主は瑞樹。
俺は瑞樹のもの。

「違う、違う違う違う。俺は、俺は瑞樹のもの、瑞樹は」
「その瑞樹に、かわいいお前の写真をみてもらうか?」
「やめろ!このっ……」
「いいか、お前に選択権はない。よく覚えておけ」

男は酷薄に薄い唇で、笑う。
逆らうことを許さない、支配者の目。
瑞樹の王としての傲慢さとはまた違った、支配者の目。
逆らうものをすべて消してしまうような、残酷さ。

「ま、しつけをするのもペットを飼う醍醐味だ」
「俺は………お前の、ペットじゃ、ない!」
「ペットだ。わかっているだろう?」

何も言い返せない。
あの写真。
あの写真を瑞樹に見られたら。
瑞樹は、きっと俺を捨ててしまう。
こんな汚い俺なんて、いらなくなってしまう。
それはいやだ。
だめだ。
だから、この男から逃れられない。

黙り込んだ俺を、男が抱き起こした。
向かい合わせに男の足の間に挟まるように、座りこむ。

「まずは飼い主を覚えろ。服従を示せ」
「なにを………」
「そうだな」

考えるように、首を傾げる。
俺は逃げられないかと、隙を探すが男は俺の手首をつかんだまま。
隙の欠片も見当たらない。
逃げても、柳瀬があの写真を持っている限り、どうにもならない。
分かっているのに、恐怖に、体が震える。
また、アレをされるのか。
汚い汚い汚い。
怖い。
俺が小さく震えているのは、きっと柳瀬には分かっているだろう。
けれど、止められない。
汚いものにされる、恐怖。

「お前から俺にキスしてみろ」

楽しそうに唇を歪めて笑い、男はとんでもないこと言う。
屈辱と怒りで、顔が熱くなる。
無理矢理暴力で従わせられるならともかく、自分からするなんて冗談じゃない。
自分から、汚いものになれと、言うのか。

「誰がっ」
「逆らうのか?」
「くそ、くそくそくそくそ!」

悔しさから、また涙が浮かぶ。
俺の体は、どうして俺の言うとおりに動かない。
それでもどうしても命令通りにしたくなくて、俺は座り込んだまま唇を噛む。
そんな俺をかすかに笑って、柳瀬は掴んだままの腕を引く。

「ほら、来い」
「く………」
「早くしろ」

声が低くなる。
笑みが消える。
視線に、冷たさが宿る。

「……い、やだ」

視線を逸らして、最後の抵抗をしてみせる。
報復は、先ほどとは逆の右頬への平手。
大きな手が、容赦なく頬を打つ。

痛い。
怖い。

体が震える。
大きな手で打たれるのは、どうしても慣れない。
武道を始めてから、痛みには強くなったけれど、顔への平手はどうしても反射的に身が竦む。

「さっさとしろ」

これ以上逆らったら、更に「しつけ」をされるだろう。
それでも逡巡していると、柳瀬は最終通告をした。

「ネットにアップして、大公開するか?俺はそれでもかまわない」

それは、ダメだ。
誰に知られても構わない。
どうせ、俺のことなんて、誰も構わない。
けれど、瑞樹に知られるのだけは、耐えられない。

震える手を握って、覚悟を決める。
レンズ越しではない、涙が滲みぼやけた視界の先にいる男に顔を寄せる。
一瞬だけためらって、けれど覚悟を決めて更に近づいた。
触れた唇は、男を表して冷たい。
すぐに唇を離したが、柳瀬は苦笑してそれで許してくれた。

「ま、こんなもんか」
「………」
「よし、いい子だな。よくできた」
「………」
「いい子だ」

ぽんぽんと、頭を撫でられる。
屈辱と怒りで、どす黒い熱が渦を巻いている。

「もう一度」
「………」

俺はそっともう一度顔を寄せる。
悔しくて悔しくて、こいつが憎くてしょうがない。
けれど、仕方ないのだ、脅されているのだから。

「いい子だ。もう一度」
「………うん」

目を閉じて、三度、顔を寄せる。
冷たい唇は、思ったより柔らかい。
気持ち悪さは、ない。

さっきよりもちょっと長く押し付けると、そっと離れた。
男は表情を緩めると、俺の髪に指を絡める。
ゆっくりと溶かすように、撫でる。
まるで先ほどまでの暴力が、嘘のように。

「いいか、俺が呼んだ時は、必ず服従を示せ」
「……………」
「返事は?」
「………は、い」

だって、仕方がない。
あの写真をこの男が持っている限り、俺はこの男に従うほかないのだ。
いつか、隙を見て、絶対に取り返す。
受けた屈辱は、倍にして返す。
必ず、後悔させてやる。

「よし、いい子だ、秀一」

だから、男が顔を寄せてきた時、俺は黙って目を閉じた。、
今はだから、憎しみを押さえて服従する。





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