男はその部屋に溶け込むように、寛いでいる。 何にも囚われずに悠然と佇んでいる。 そこは、肉食獣の巣。 穏やかに笑うその口には、牙を隠し。 何にも関心を示さないその眼は、鋭さを宿し。 鋭い爪を研ぎ、無表情と無関心に隠した野性で獲物を狙う。 迂闊に巣に足を踏み入れた草食動物は、ただその身を捕食されるだけ。 胸ポケットに入れた携帯が、振動を伝える。 思わず、体が震えたのが分かった。 悪寒が走り、指先まで冷たくなっていく。 声が出そうになったのを、寸前でこらえた。 この携帯に連絡する人間なんて、数えるほどしかいない。 事務的な用事を伝える父と兄、旦那様、そして瑞樹。 そのうちの一人は、ここにいる。 「どうした、秀一?」 「あ………」 瑞樹が、不思議そうに俺の顔を見上げている。 大きな目は純粋に俺を気遣っている。 綺麗な綺麗な、瑞樹。 「秀一、顔色が悪い。どこか具合が悪いのか?」 「………いや、ああ、ちょっと寝不足で」 「そうか。大丈夫か?」 瑞樹の心配が嬉しくて、胸が温かくなる。 反射的に、なんでもな、と言いそうになった。 けれど、今は瑞樹から離れなければいけない。 逃げ出しそうになる感情を、理性で辛うじて食い止める。 「その………先に部屋に帰っている」 「そうか。わかった。無理するなよ」 「うん、ありがとう」 瑞樹は、よほど必要ない限り俺の行動を制限しない。 お前も自由に遊べ、といつも言われる。 傍にいるのは、俺の勝手だ。 瑞樹は一人でなんでもできる。 強く聡く、美しい瑞樹。 俺なんて、本当は必要ないのだ。 ただ、俺が傍にいさせてもらっている。 きっと、瑞樹はこんな金魚のフン、鬱陶しいだろう。 でも、瑞樹は優しいから、俺はその優しさに甘え続ける。 瑞樹がいなければ、俺は一人では、立っていられない。 「じゃあ」 「ああ、ちゃんと休むんだぞ」 にっこりと笑う瑞樹は、内面の男らしさとは裏腹に儚い少女のように美しい。 少女のような外見も、誰よりも強いその力も、わがままで乱暴なところも、王者のように堂々とした態度も、そのすべてが瑞樹の魅力。 促され、俺はその場から離れる。 瑞樹はこれから、ほかの友人と過ごすのだろうか。 それとも、あの男に会うのだろうか。 あの男と、あんなことをするのだろうか。 あんな、汚い、あんな、コト。 吐き気がこみ上げる。 熱も痛みも屈辱も、体に染みついて、離れない。 自分が自分でなくなってしまう、恐怖。 汚い汚い汚い汚い。 体を擦り切れるぐらい洗っても、あの男の感触が離れない。 あの男の声が絡みつくように、脳裏にこびりついて蘇る。 こんな汚い俺、本当に瑞樹に捨てられてしまう。 瑞樹から見えない位置まで来たことを確認して、携帯を見る。 そこには、見たくもない文字が、表記されていた。 どうしたらいい。 どうしたらいいんだ、瑞樹。 瑞樹瑞樹瑞樹。 みずき。 たすけて。 入ったとたん、こもった熱気と古い本の据えた匂いで吐き気がした。 夕陽の差し込む特別教室は、薄暗く、どんよりとした空気がする。 息をするたびに、黒いものが胸の中にたまっていく気がする。 男はあの時と同じように、悠然と落ち着き払った様子で窓辺に座り込んでいる。 逆光で、その表情はよく見えない。 逃げ出したい。 足が震える。 いますぐに、逃げろと、本能が告げる。 けれど、逃げるのが許せなくて、俺は矜持を振り絞り男を睨みつける。 「………何の、用だ」 「分からないのか?あんだけ体に教え込んでやったのに」 俺の態度を気にもせず、男はくっと喉で笑った。 表情はよく見えない。 けれど、この前のように楽しげに笑っているのだろう。 蛇のように、残酷な表情の見えない眼で。 「う、うるさい!!」 「体は大丈夫か?優しく抱いてやったつもりだが、初めてだったしな」 「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」 頭が怒りで赤く染まる。 考える暇もないまま、俺は柳瀬に向って走り出していた。 座り込んでいる柳瀬が立ち上がる前に、決める。 ちょうど足を上げたところに来る顔に向けて、勢いを利用して蹴りを入れる。 その後、隙が出来たところに、鼻か、首を狙う。 絶対的に力にもリーチにも差のある柳瀬相手には、急所を狙って無力化するしかない。 シュミレートは完璧だった。 何度も何度も、血が滲むほど修練を積んだ。 瑞樹の、隣にいれるように。 しかし、男は軽く俺の足を左手で払う。 力は乗っていたはずだ。 前と違って、油断も何もない。 けれど、柳瀬は軽く力を逸らすと、バランスを崩して宙に浮いた俺の脚を右手で掴む。 そのまま強くひかれ、俺は簡単に倒れこんだ。 積み上げられた資料の上に、したたかに背を打つ。 はずみで眼鏡が、顔から外れ堅い音をたてて床に転がる。 「つっ……」 「はい、終了」 そのまま足に乗りあげられ、顎を掴まれ無理やり顔を上げさせられる。 大きな手が顎をつぶすように、力を入れる。 屈辱で、涙が浮かんでくる。 弱い涙腺に、自分が嫌でたまらなくなる。 こんな男の前で、泣きたくなんてない。 どうして、俺はこんなに、情けないんだ。 どうして、瑞樹みたいになれないんだ。 「く、そ、くそくそくそくそ」 「お前、自分の立場、わかってるのか?」 一旦手を離すと、柳瀬は笑ってその手を振り上げた。 手加減なしに平手が頬を打つ。 勢いで床に頭をうち、鈍痛で脳が揺れる。 痛い。 やめて。 痛いのはいや。 殴らないで。 いい子にするから、もう怒らないで。 違う、これはあの人じゃない。 ただの卑怯な男だ。 しっかりしろ。 「く、うっ」 眩暈がして焦点をあわせられないうちに、男が腕で喉を圧迫して体重をかける。 気道がふさがれ、息ができない。 息がかかるほど、顔を寄せられる。 「ぐ、は」 「活きがいいのも、逆らうペットも嫌いじゃない。しつけがいがある」 「く………」 「いいか、俺に逆らうな。俺に、牙を剥くな」 腕に爪を立てて外そうとすると、更に体重をかけられる。 脳に酸素がいかなくて、頭が真っ白になっていく。 生理的な涙が浮かび、こめかみに濡れた感触がする。 男の熱い息が、唇にかかる。 ぼやけた視界に、切れ長の目の男が笑っている。 外そうともがいていた俺の手が動かなくなったのを確かめて、男の腕がどいた。 一気に肺に酸素が入り込む。 俺は足りなかった空気を求めて浅い呼吸を繰り返す。 「か、はっ、げ、ぐ、ごほ、けほっ」 「体に叩きこめ。新しい飼い主は俺だ」 「ち、がう、俺の主は、みずき、だ」 逃れたくても、全身でのしかかれ、男の視線が絡みつく。 違う違う違う違う。 俺は瑞樹のもの。 瑞樹のものにしてもらったから、俺はここにいれる。 俺の主は瑞樹だけだ。 「俺だ。そもそも、瑞樹はお前のこと必要としているのか」 「っ」 息を呑む。 鋭い爪で、心の柔らかいところを掻き毟られた。 血が噴き出す。 瑞樹が俺をいらなかったら。 だめだ、考えちゃいけない。 俺に主は瑞樹。 俺は瑞樹のもの。 「違う、違う違う違う。俺は、俺は瑞樹のもの、瑞樹は」 「その瑞樹に、かわいいお前の写真をみてもらうか?」 「やめろ!このっ……」 「いいか、お前に選択権はない。よく覚えておけ」 男は酷薄に薄い唇で、笑う。 逆らうことを許さない、支配者の目。 瑞樹の王としての傲慢さとはまた違った、支配者の目。 逆らうものをすべて消してしまうような、残酷さ。 「ま、しつけをするのもペットを飼う醍醐味だ」 「俺は………お前の、ペットじゃ、ない!」 「ペットだ。わかっているだろう?」 何も言い返せない。 あの写真。 あの写真を瑞樹に見られたら。 瑞樹は、きっと俺を捨ててしまう。 こんな汚い俺なんて、いらなくなってしまう。 それはいやだ。 だめだ。 だから、この男から逃れられない。 黙り込んだ俺を、男が抱き起こした。 向かい合わせに男の足の間に挟まるように、座りこむ。 「まずは飼い主を覚えろ。服従を示せ」 「なにを………」 「そうだな」 考えるように、首を傾げる。 俺は逃げられないかと、隙を探すが男は俺の手首をつかんだまま。 隙の欠片も見当たらない。 逃げても、柳瀬があの写真を持っている限り、どうにもならない。 分かっているのに、恐怖に、体が震える。 また、アレをされるのか。 汚い汚い汚い。 怖い。 俺が小さく震えているのは、きっと柳瀬には分かっているだろう。 けれど、止められない。 汚いものにされる、恐怖。 「お前から俺にキスしてみろ」 楽しそうに唇を歪めて笑い、男はとんでもないこと言う。 屈辱と怒りで、顔が熱くなる。 無理矢理暴力で従わせられるならともかく、自分からするなんて冗談じゃない。 自分から、汚いものになれと、言うのか。 「誰がっ」 「逆らうのか?」 「くそ、くそくそくそくそ!」 悔しさから、また涙が浮かぶ。 俺の体は、どうして俺の言うとおりに動かない。 それでもどうしても命令通りにしたくなくて、俺は座り込んだまま唇を噛む。 そんな俺をかすかに笑って、柳瀬は掴んだままの腕を引く。 「ほら、来い」 「く………」 「早くしろ」 声が低くなる。 笑みが消える。 視線に、冷たさが宿る。 「……い、やだ」 視線を逸らして、最後の抵抗をしてみせる。 報復は、先ほどとは逆の右頬への平手。 大きな手が、容赦なく頬を打つ。 痛い。 怖い。 体が震える。 大きな手で打たれるのは、どうしても慣れない。 武道を始めてから、痛みには強くなったけれど、顔への平手はどうしても反射的に身が竦む。 「さっさとしろ」 これ以上逆らったら、更に「しつけ」をされるだろう。 それでも逡巡していると、柳瀬は最終通告をした。 「ネットにアップして、大公開するか?俺はそれでもかまわない」 それは、ダメだ。 誰に知られても構わない。 どうせ、俺のことなんて、誰も構わない。 けれど、瑞樹に知られるのだけは、耐えられない。 震える手を握って、覚悟を決める。 レンズ越しではない、涙が滲みぼやけた視界の先にいる男に顔を寄せる。 一瞬だけためらって、けれど覚悟を決めて更に近づいた。 触れた唇は、男を表して冷たい。 すぐに唇を離したが、柳瀬は苦笑してそれで許してくれた。 「ま、こんなもんか」 「………」 「よし、いい子だな。よくできた」 「………」 「いい子だ」 ぽんぽんと、頭を撫でられる。 屈辱と怒りで、どす黒い熱が渦を巻いている。 「もう一度」 「………」 俺はそっともう一度顔を寄せる。 悔しくて悔しくて、こいつが憎くてしょうがない。 けれど、仕方ないのだ、脅されているのだから。 「いい子だ。もう一度」 「………うん」 目を閉じて、三度、顔を寄せる。 冷たい唇は、思ったより柔らかい。 気持ち悪さは、ない。 さっきよりもちょっと長く押し付けると、そっと離れた。 男は表情を緩めると、俺の髪に指を絡める。 ゆっくりと溶かすように、撫でる。 まるで先ほどまでの暴力が、嘘のように。 「いいか、俺が呼んだ時は、必ず服従を示せ」 「……………」 「返事は?」 「………は、い」 だって、仕方がない。 あの写真をこの男が持っている限り、俺はこの男に従うほかないのだ。 いつか、隙を見て、絶対に取り返す。 受けた屈辱は、倍にして返す。 必ず、後悔させてやる。 「よし、いい子だ、秀一」 だから、男が顔を寄せてきた時、俺は黙って目を閉じた。、 今はだから、憎しみを押さえて服従する。 |