「………柳瀬、いないのか」 今日も資料室に入ると、そこにあの男はいなかった。 たった二か月ほどですっかり慣れ親しんでしまった、埃っぽい空気。 けれどいつもそこに座る男がいないと、なんだか違和感がある。 「呼び出しておいて、勝手なやつ」 まあ、すぐ来るだろう。 そこでふと、ひとつ思いつく。 資料室は本棚や段ボールが多く、隠れられるような物陰も多い。 うまくすれば、あの男の隙をつくことが出来るのではないだろうか。 卑怯かと思ったが、元々卑怯なのはあいつの方だ。 今更これくらい、卑怯にも入らない。 それなら、やってみよう。 室内を一通り見渡し、入り口の隣の暗い物陰に決めて、身を潜める。 呼吸を殺して、心を落ち着ける。 周りに、同化するように、気配を殺す。 ああ、なんだか昔を思い出す。 父に兄に、目に触れられないように、そっと息を潜めていた。 瑞樹が俺を見つけてくれるまで、ずっと、暗闇が、俺の居場所だった。 カチャリ。 ドアノブが開き、人が入ってくる。 緊張に、全身が総毛立つ。 落ち着け、息を殺せ。 チャンスは一瞬だ。 不意を打てなければ、こいつにたやすく捕まってしまう。 柳瀬がドアを開き、一歩踏み入れる。 その瞬間、体を起こし、モーションの少ない貫手で柳瀬の喉を狙う。 いける。 「っと」 しかし柳瀬は軽く身をひねっただけで、俺の手を交わしてしまう。 手を引き体勢を整えようとするが、その前に腕をとられ、ひねり上げられる。 浮遊感がしたと思うと同時に、背中が床にたたきつけられていた。 「つっ」 何がどうなったのかも、分からなかった。 腕を掴まれ、投げられたらしい。 こんな狭い部屋で、見事にどこにもぶつからず、床にたたきつけられている。 「なんだ、じゃれつきたかったのか?」 柳瀬は腕を拘束しながらも、面白そうに俺を見下ろしている。 余裕に満ち溢れていて、動じた気配もない。 こいつは、本当に、瑞樹と同じくらい強いかもしれない。 「く、そ」 悔しさのあまりに呻くと、柳瀬が喉の奥で笑う。 「元気だな。じゃあ、久々に、遊んでやるか?」 「あ、や、やめ」 そう言いながら柳瀬はきっちりと締めている自分のネクタイを外す。 俺をひっくり返すと、腕を後ろで拘束する。 「い、た、いやだ!」 ぎっちりと締め上げられ、腕が軋み悲鳴を上げる。 痛みと共に、恐怖が浮かんできて、体をよじり逃げようとする。 「ほら、大人しくしろ」 「っつ」 けれど締め上げられた腕をひねられ、痛みに涙が浮かぶ。 柳瀬の笑い声が、聞こえてくる。 「な、なに」 そして、俺のベルトを外され、ズボンと下着を下される。 シャツとネクタイはそのままに、下半身だけ晒されるみっともない格好。 「やめろ、やめ、やめろ!!」 足をばたつかせ逃げようとするが、背中に乗り上げられままならない。 柳瀬が俺の腰を持ち上げると、顔と肩だけで体を支える苦しい格好になる。 なにより、腰を高く突き上げた犬のような格好を想像して、羞恥に全身が熱くなっていく。 柳瀬が、そっと尻から足を撫でる。 ゾクゾクと、背筋に寒気が走る。 「そうだな、手は使わずにいってみせろ」 「な、何言って、そ、そんなの、で、できない」 「出来るさ」 寒さと恐怖に縮こまったそれを、柳瀬がつかみ、やわやわと揉みこむ。 「ん」 その手の平の動きは、不本意ながらもう慣れてしまっている。 それがどのような快感を自分にもたらすか、もう知っている。 期待して、こんな状況なのに体が熱くなっていく。 「ふ、ん、あ」 鈴口を撫でられ、裏筋を擦られ、尿道を広げるように爪を立てられる。 そこに血が集まって、膨らんでいっているのが分かる。 体は、心を裏切っていく。 「かわいいな、撫でると懐いてくる」 「くっ、ひ」 気が付けば、柳瀬の手に擦りつけるように腰を揺らしていた。 慌てて体の動きを止める。 「や、やなせ、やめ」 なんとか静止の声を出すと、柳瀬も動きを止める。 ほっとしたのもつかの間、体が起こされる。 柳瀬の前で、立膝をついて立たされる。 「ほら、このまま、手を貸してやる」 「………っ」 「腰振って、擦りつけてみろ」 柳瀬は俺のみっともない体を上から下まで眺めた後、俺の性器を包み込む。 けれど、今度は動かす様子はない。 ただ、敏感に感じる場所に指を置いて、包み込んでいるだけだ。 わずかに触れているだけでも感じるけれど、それが余計にもどかしい。 「う………」 「早くしないと、手も貸してやらないぞ。一晩中ここで転がしておいてやる。桜川が探しに来るかもな。縛られて下半身丸出しのお前のことを」 俺を見上げる蛇のような目は、面白そうに輝いている。 こいつなら、本当にやるだろう。 このまま、俺がイけなければ、こいつは俺をここに放置していく。 「くっ、ん」 仕方なく、柳瀬の手に擦りつけるように、体を動かす。 屈辱と羞恥に、涙があふれてくる。 それなのに、俺の性器は濡れはじめ、滑りがよくなっていく。 それがまた気持ちよくて、でも、両手を戒められているからうまく動かなくて、もどかしくて、腰の動きが早くなってしまう。 気持ちい。 イキたい。 イって、早く終わらせたい。 「ひ、く、う、ん」 「発情期の淫乱な雌犬みたいだな」 「だ、誰がっ」 誰がやらしてると、思うんだ。 涙で滲む視界の中、俺のみっともない姿を見て、柳瀬はとても満足気だ。 「ほら、もっと腰を振れよ、御主人様の手に、撒き散らしてみろ」 「………っ」 怒りと屈辱に耐えきれず、体をかがめて、柳瀬の首に思いきり噛みつく。 堅い感触と、塩辛い汗の味、そして、じわりと鉄の味がしてくる。 「う、く」 「………」 血の味は嫌いだから、すぐに口の力は緩んでしまう。 でも、一矢報いることが出来て、胸がすく。 柳瀬がどんな顔をしているかと思い、体を離す。 酷薄な男は、目を丸くして驚いていた。 「ざまあ、みろ」 それがとても、気持ちよくて、いい気分になる。 人を好き勝手にばっかり、しているからだ。 「ははっ」 けれど、柳瀬は、そのすぐ後に、楽しげに笑った。 この前見た無邪気な笑顔とも違う、どこか毒のある、けれど、とても楽しげな笑顔。 「ああっ!い、たっ」 その後、ただ触れていた手が、俺の性器を強く握り締める。 痛みと恐怖に、また涙があふれてくる。 「いいぞ、秀一。噛み千切ってみろ」 とても満足げな声が聞こえる。 柳瀬の手が、乱暴に俺の性器をしごき始める。 先ほどまでのもどかしい快感とは違う、痛みを感じるほどの強い快感。 「あ、や、あん、んっ」 「いい子だ。俺の犬だけが、俺を食い殺す権利がある」 シャツ越しに、乳首を噛みつかれる。 痛い痛い痛い痛い。 でも、気持ちいい。 「い、った」 「俺の犬なら、それぐらいでいい」 ああ、もう、何も、考えられなくなっていく。 最後まではやっぱりされなかったが、いつもより激しく弄ばれた。 後ろに指をいれられてかき混ぜられ、前を戒められ射精を制限されて、最後は我を忘れて許しを乞うた。 もう、思い出したくもない。 「大丈夫か?」 柳瀬が大して心配そうでもなく、聞いてくる。 怒っているのかと思ったが、逆に柳瀬は機嫌がよさそうだった。 「だ、大丈夫だ」 珍しく、部屋まで送ってもくれた。 最初の時に、運ばれた以来かもしれない。 体に力が入らず、特に縛られていた腕と、下半身がじんじんとして違和感がある。 でも、訴えたからといって、どうしようもない。 「そうか。無理をさせた、悪かったな」 「………っ」 今更何を言ってるんだ、こいつは。 そんなこと言うぐらいなら、最初からやるな。 「可愛い、いい子の秀一。次もいい子にしてるならご褒美をやる」 「い、いらない!」 「そうか。欲しがってたみたいだがな」 「ば、馬鹿!」 さらっと腰を撫でられて、顔が熱くなる。 こいつは、何を言ってるんだ。 気が付けばもう、部屋の前までもう来ていた。 そして部屋の前に、人影があるのを気付く。 瑞樹と、あの馬鹿だ。 二人が並んでいるのを見ると、やっぱり不快感が浮かぶ。 「じゃあ、ゆっくり休め。いい子にしてろ」 柳瀬がそう耳元で言って、踵を返す。 息が触れてぞくりとしたが、瑞樹の前なのでなんとかこらえる。 瑞樹に余計なことを勘づかれたくない。 「秀一?おかえり」 「あ、瑞樹」 瑞樹も気が付いたのか、軽く手をあげて笑顔を見せてくれる。 その顔を見て、全身の力が抜けていく。 あの、蛇のような男とは正反対な、邪気のない、綺麗な笑顔。 「今の誰だっけ。ああ、あいつ確か、お前と同室の奴だっけ?」 「ああ、柳瀬」 瑞樹が横にいる馬鹿に、問う。 柳瀬の名前が出て、心臓が跳ね上がる。 落ち着け落ち着け。 別に何も、おかしな話はしてない。 さっきだって、会話は聞かれてなかったはずだ。 「秀一、あいつと仲がいいのか?」 瑞樹が探るような目で、俺をじっと見てくる。 心臓が嫌な風に早くなり、手に汗を掻く。 でも柳瀬との関係を知られるわけにはいかない。 「あ、そういう、訳じゃない、けど。その、前に落し物拾ってもらった時から、話すことがある」 「ああ、なるほどな」 この前のことを思い出して、瑞樹は納得したように何度も頷く。 そうだ、あれがすべての始まりだった。 あそこから、何もかもが、変わっていってしまった。 「カツアゲされてるとかじゃないよな?」 「ち、違う」 「本当か?」 「ほ、本当だ」 「大丈夫だな」 「大丈夫だ」 カツアゲなんて、されていない。 それだったら、どらだけよかっただろう。 汚れてしまったこの身のことなんて、綺麗な瑞樹には知られたくない。 もう、この体のどこにも、あの男が触れてない場所はない。 「まあ、お前ももう高校生だしな。大丈夫つーなら、大丈夫だろう。そろそろ俺が守るって年でもねーしな。一人立ちぐらい、出来るよな」 「………」 胸が、締め付けられて、痛い。 ああ、やっぱり、瑞樹は、俺が鬱陶しかったんだ。 いつまでも手がかかって、その後を追う俺が、疎ましかったんだ。 分かってた。 分かっていたけど、哀しい、苦しい、痛い。 せめて、邪魔にならないから、だから、弟として、せめて、近しいものとして、嫌わないでほしい、傍においておいてほしい。 「ま、なんかあったら言え」 「う、うん」 柳瀬の、言うとおりだった。 俺は、瑞樹から距離をおかなければいかなかった。 そうすれば、嫌われたりは、きっとしない。 弟分としては、距離をおいて、一緒にいられるかもしれない。 どうか、嫌わないで、ほしい。 「じゃあまあ、着替えてメシ食いに行くか」 「ああ、そうだな」 瑞樹は納得したのか、そう言って部屋に入ってしまう。 俺も慌ててその後に続こうとしたら、残っていた男に話しかけられた。 「今度は柳瀬に飼われてるの?」 「な」 なんで、知ってる。 なんで、なんでなんで。 あいつが言ったのか? こいつは、瑞樹に言うのか? でも瑞樹は何も知らなかった。 どういうことだ。 「誰かに依存してないとダメなの、お前って」 「ふ、ざけんなっ」 焦りと怒りから殴りつけようとするが、秋葉はあっさりと避ける。 どうして、柳瀬もこいつも、簡単に、避けるんだ。 俺だって、弱くないはずなのに。 「つっかかんな。別に桜川には言わねーよ」 「うそ、だ!」 柳瀬と俺のことを告げ口すれば、瑞樹は俺を軽蔑するだろう。 黙っていたことを怒るだろう。 それは、こいつにとって望ましい事態じゃないのか。 「嘘じゃねーって。言ったって俺の得は何もねーし。桜川の過保護がまた始まるだけじゃねーか」 「あ」 確かに、そうだ。 瑞樹は軽蔑し、怒るかもしれないが、その後俺のために動いてくれるだろう。 俺を守ろうとしてくれるだろう。 そして、昔と同じように、ずっと面倒をみてくれようとするだろう。 それは、確かに、瑞樹に執着するこの男には、好ましい事態じゃない。 少しだけ、安心する。 「なんというか、柳瀬には気をつけろよ。安心して懐けるような奴じゃねーぞ、あいつ」 そんなの、知ってる。 あいつは、怖くて、危険なやつだ。 懐いてなんていない。 今だって、嫌って憎んでいる。 「一応、忠告だ」 安心なんてしていない。 信用なんてしていない。 懐いてなんていない。 「お前、秋葉になんか言ったのか!」 次の日資料室に入ると同時に、怒鳴りつける。 柳瀬は本を閉じて、動じることなく肩を竦める。 「入ってくるなりどうした。秋葉がどうした?」 「俺たちのこと、知ってた!」 そこで柳瀬は得心がいったというように、頷いてみせる。 「ああ、別にお前を犯して写真撮って犬扱いしてるなんて言ってない」 衝動のままに、座る柳瀬を蹴り上げようとする。 しかしその足を掴まれ、反対の足を器用に柳瀬の足で払われ、ひっくり返る。 「………っつ」 「単に、俺がお前に興味を持ってると知られてるだけだ。それ以上のことは何も知らない」 体を何とか起こして、ずれた眼鏡を直し、柳瀬の顔をじっと見つめる。 柳瀬は相変わらずの無表情だから、嘘か本当か、分かりづらい。 「ほ、本当か」 「本当だ」 それが真実かなんて、分からない。 でも、信じるしか、ないのだ。 それが本当であることに、すがるしかない。 せめて瑞樹にだけは、こんなの知られたくない。 こいつに負けて、こんな、いいようにされている。 こいつの圧倒的な暴力に、屈している。 「………なんで、お前はそんなに強いんだ」 柳瀬の前に、座り込んだまま、つい聞いてしまう。 「まあ、昔からやってることだし、日々鍛えてる」 「お前が、そういう努力をするようには見えないのに」 「負け犬にはなりたくないからな」 柳瀬は肩を軽く竦める。 そして、わずかに唇を歪めて笑った。 「負けないためには、なんだってするさ」 俺だって、負けたくない。 負け犬になんてなりたくない。 瑞樹の隣にいて許される、強い男になりたかった。 旦那様に認められる、強い男になりたかった。 あの人たちに何を言われても動じないぐらい、強い男になりたかった。 それなのに、俺は、まだこんなにも弱い。 「………」 こいつに、押さえつけられ、屈服させられ、従わされている。 プライドも何もかも、ズタズタにされた。 こいつに会っていなければ、こんなことにも、ならなかったのに。 どうして、こんなことになってしまったんだ。 「お前は、その、俺のどこが気に入ったんだ」 「今日はよく質問するな」 「………」 前にも、聞いた気がする。 可愛い犬だと、そう言った。 でも、俺は犬じゃない。 こいつの犬じゃない。 「犬の目だな」 「な」 「お前のその、馬鹿みたいに飼い主しか見てない目が好きだ」 「馬鹿にするな!」 「してないさ」 蛇のような男は笑う。 獲物を捕らえた時のように、にやりと笑う。 「俺はお前みたいな犬がずっと欲しかったんだ」 違う。 俺はこいつの犬じゃない。 安心なんてしていない。 懐いていなんていない。 「俺は、お前の犬じゃない」 「すぐに俺の犬になる」 「ならない!」 こいつを、信用なんてしていない。 こんな卑怯な男に、心を許してなんていない。 こいつに依存なんてしていない。 「俺は、お前の、犬じゃない」 「へえ?」 柳瀬は楽しそうに、首を傾げてみせる。 そして酷薄な薄い唇を歪める。 「じゃあなんでお前はここに来るんだ?ここにきて、俺の言うことを聞いて、ケツを振って、おもらしして」 「………っ」 そんなの、したくなかった。 そんなのは、俺がしたいことじゃない。 こいつのせいだ。 こいつが全て悪い。 こいつが、俺を脅すから悪いんだ。 そうだ、あの時からすべて始まった。 こいつが俺を脅さなければ、こんなことにはならなかった。 「お、お前が、お前が俺を脅すから、だ」 「脅すね?」 「あ、あの写真さえなければ、お前なんて、お前、なんて!」 柳瀬はズボンのポケットから、携帯を取り出す。 そして操作をすると、画像を表示させ、俺に見せてくる。 「これか?」 それは、半裸で汚い体液だらけになって泣いている、自分の姿。 見たくもない、薄汚い、みっともない姿。 「やめ!」 「ああ」 手を伸ばし、その携帯を取り上げようとするよりも早く柳瀬は手元に戻す。 そしてもう一度俺に見せつける。 そこには画像を削除しますかと、表示されている。 柳瀬は躊躇いなくもう一度、携帯を操作した。 「あ」 「後二枚あるな、待ってろ」 そしてさっさと操作すると、画像の一覧ページを俺に見せる。 「さあ、これでなくなった」 「で、でも、まだ、他にもあるんじゃないのか?」 「ない」 柳瀬は笑いながら言い切る。 「これから俺がお前を呼び出すこともない。好きにしろ。勿論桜川に言ったりもしない。お前が俺に犬じゃないと言うなら、いらない」 いらないって、どういうことだ。 いらないって、なんで。 だって、お前が脅すから、俺は仕方なく。 そう、仕方なく。 「じゃあな、雨宮」 柳瀬が立ち上がり、座り込む俺の横を通り過ぎてさっさと出て行ってしまう。 余韻も、何もない。 なんで、どうして。 どういうことだ。 なんで、言ってしまうんだ。 いや、なんで俺は、ショックを受けているんだ。 これを望んでいたはずだ。 あんな男と一緒にいたくなかったずだ。 無理やり屈服させられていた。 嫌で嫌だ仕方なかった。 そうだ、喜べ。 これで、脅かされることはない。 そうだ。 それなのに。 だって、お前が、俺を、ずっとずっと飼うって言ったのに。 |