今日も、呼び出されては惰性のように、この男の側にいる。 この酷薄な蛇のような男の腕の中で、静かに時を過ごす。 柳瀬は、俺を犬のように抱きながら本を読み、時折頭や顔を撫でてくる。 俺も暇なので、大人しく腕の中に納まりながら、宿題をする。 軽い屈辱は感じながらも、なぜ俺は以前のように、怒りを感じないのだろう。 「………俺は、いつか、瑞樹に、捨てられるん、だよな」 ふと、そんなことも、漏らしてしまう。 だって今まで、誰にも言えなかった。 誰も聞いてくれる人はいなかった。 瑞樹にだって、言えないことだった。 幼い頃はよかった。 盲目に、ただひたすら、瑞樹を追いかけていればよかった。 瑞樹もそれを、許してくれた。 でも今は、瑞樹はあからさまに、俺の扱いに困っている。 それが、伝わってくる。 「捨てはしないだろう。兄離れ、弟離れするだけだ」 柳瀬は本を読みながらも、答えてくれる。 そういえば、こいつは、俺の話には必ず、付き合ってくれる。 無視したり、鬱陶しそうに打ち切ったりしない。 瑞樹は、たまに、俺と話をすると嫌そうに顔を顰める。 それがとても悲しい。 「………でも、瑞樹は、俺が、鬱陶しそうだ」 「そりゃ思春期にずっと弟が着いてきたらうざいだろう。部屋も一緒、教室も一緒、プライベートもついてこようとする。そんな弟はいらない。むしろよく桜川がキレないと感心するレベルだ」 「………っ」 自分でも分かっていたことだけれど、こいつ言われて頭に血が上る。 顔を殴りつけようとするが、あっさりとその手は本で払われ、そのまま返す本で頬をはたかれる。 「つっ」 厚いハードカバーの本は堅くて、頬がじんじんと痛む。 あっさりとあしらわれた悔しさと痛みに、柳瀬を睨みつける。 柳瀬は酷薄な目で、俺を見下ろしていた。 「今のはどっちが悪い?」 そして、俺の手首を握り締め、聞いてくる。 その言葉は優しくすら聞こえるが、目は笑っていない。 「………」 答えないでいると、腕がギリギリと締め付けられる。 「秀一?」 血がせき止められ、冷たくなってくる。 じんじんと痺れてくる。 悔しい。 悔しい悔しい。 でも、確かに今、八つ当たりをしたのは、俺だ。 柳瀬は、間違ったことは、言っていなかった。 「………俺が、悪い」 絞り出す様に言うと、柳瀬はすぐに手を離した。 そして俺の額にキスをする。 「いい子だ」 悪いことすれば叱って、いいことをすれば褒める。 完全な犬扱い。 この扱いにも、慣れてきてしまった。 なんでこの男に諭されないといけないんだ。 無理やり犯され、写真を撮られ、脅されている。 下衆で卑怯な、最低な男なのに。 「少し距離を置いてみろ」 「きょ、り」 「ああ。今は部屋もクラスも一緒でずっと一緒にいられるんだろう?お前らの邪魔をする家の人間もいない」 「家のこと、なんで?」 何度か父と兄の話は、した気がする。 でも、家で俺が邪魔ものとして扱われてるなんて、なんで分かるんだ。 柳瀬は軽く首を横に振る。 「知らん。でもどうせそんなところだろう」 「………」 でも、確かにこいつの前では、弱みばかり見せているから、気づかれて当然か。 怖いものだらけで、家族に委縮して、小さくなって生きてきた。 瑞樹にだけ縋り、強がり、背伸びをして、精いっぱい、瑞樹についていきたくて虚勢を張っていた。 それが、こいつの前では、もう、ボロボロだ。 「今ならいつでも一緒にいられるんだ。プライベートぐらい離れてみろ。今の桜川はいい玩具もいるんだし」 「あの、屑の、ことか」 「そうだ、あの馬鹿だ」 あの、こいつの友達に相応しい下衆で下卑た最低な変態の屑。 でも、瑞樹はあいつを気に入っている。 珍しく執着するようなことを言う。 俺じゃなくて、あいつを、見ている。 「どうせ、桜川もこの退屈で窮屈な学校で、玩具で遊んでるだけだ。じきに飽きる。まあ、それまで遊ばせてたらどうだ?あいつにのめり込んだからって、お前がいらなくなる訳じゃない」 「………」 「あいつで遊んでるのを見てられるぐらいにしてみろ」 瑞樹が、秋葉を楽しそうに弄んでいるのを見る。 それは、嫌だ。 嫌だ。 誰が瑞樹に触れても、ここまで思わなかった。 だって、瑞樹は移り気だったから。 瑞樹に触れられる人間を羨ましいと思ったことはある。 でも、あんな風に捨てられるくらいなら、触れられなくてもいい。 ただ、俺は、瑞樹の側にいたい。 「お前には俺がいる。俺が代わりに可愛がってやる。かわいい俺の秀一」 柳瀬がぎゅっと俺を抱きしめて、頭を撫で、こめかみにキスをする。 それは、勘違いしてしまうくらい、優しい仕草。 こいつが本当に俺を、大切に思っているんじゃないかと思うくらい。 「で、でも、あの馬鹿は、瑞樹に、今、反発している。瑞樹は珍しくそれを残念がっているけど、このままじゃ、瑞樹が飽きる」 秋葉は、瑞樹に対して、拗ねてふてくされているような態度を取っている。 今はそれを残念がっている瑞樹だが、すぐに飽きて忘れてしまうだろう。 いつまでも自分を避ける人間に関わるほど、瑞樹は優しくない。 「ちょうどいい」 柳瀬は俺の頭を撫でながら、小さく笑う。 笑っても、まったく柔和にならない、冷たい笑顔。 「お前があの馬鹿に忠告してやれ。このままじゃ本気で桜川はお前に飽きるぞって」 「なんでそんなこと、俺がしなければいけない!!」 なんで、疎遠になりつつあるあの二人を、わざわざ仲直りさせるようなことをしなければいけない。 俺はこのまま黙っていればいい。 そうすれば、瑞樹は興味をなくす。 そうすれば、俺はまだ、瑞樹の傍にいられる。 「お前、桜川のことを抱きたいと思うか?」 「な、ふざけんな!」 再度頭に血が上り、殴りつけようとするが、またあっさりと受け止められ、今度は反対の頬を平手で殴られる。 じんじんとして、痛い。 怖い。 幼い子供のように、あっさりといなされる。 「だから、本当にお前は学習しないな。ま、その噛み癖が可愛くもあるけどな」 柳瀬はそう言って、自分が殴った頬をそっと撫でる。 冷たい手は、熱をもった頬に、心地よく感じる。 「抱かれたいと思うか?」 「おも、わない!」 首を横に思いきり振って、答える。 分からない。 そんなの分からない。 瑞樹に触れたいとぼんやり思っていたことはあった。 今思えばそれはリアル想像は伴わず、ただ抱きしめたいと、抱きしめられたいと、子供のようなものだった。 こいつが俺にしたような、あんな生々しく汚いものを、瑞樹に押し付ける気なんてない。 綺麗な瑞樹を汚すなんて、したくない。 「秋葉のことをどう思うんだ?あいつのことを瑞樹が抱くのが嫌なのか?」 「あいつは嫌いだ。嫌だ」 「代わりに抱かれたいと思うのか?」 「わからな、い」 秋葉が瑞樹に触れるのは、嫌だ。 俺も、瑞樹に触れたい。 抱きしめたい。 抱きしめてもらいたい。 でも、あんなことを、したいわけじゃない。 あんなの、怖い。 嫌だ。 「分からない、分からない分からない!分からない!!」 「落ち着け。いい子だから。大丈夫だから」 柳瀬が混乱し声を上げる俺の背中をぽんぽんと叩く。 それから、俺の顔をじっと覗き込む。 蛇のような、冷たい細い目。 「何が嫌なんだ?」 「瑞樹が、あいつに、触れるのは、嫌だ」 「なぜ?」 「だって、瑞樹が、あいつに、興味を持つ」 「今までだって、桜川に女なんていっぱいいただろう。それは、よかったのか?」 「嫌だった。瑞樹と一緒にいられる時間が少なくなった。でも、それでも、瑞樹は、すぐ飽きたから」 「じゃあ、なんで秋葉だけ駄目なんだ?」 そんなの、分かってる。 分かりきってる。 「ただ、あいつに夢中になって、俺といる時間がなくなって、俺が邪魔になって、俺を置いて行ってしまうのが、怖い」 いつもと違う、執着を見せる瑞樹。 もっと、俺といる時間が減ってしまう。 もっと、俺を邪魔と思うかもしれない。 俺に、消えろと、言うかもしれない。 俺には、瑞樹しか、いないのに。 「大丈夫だ」 落ち着いた声が、耳元に、囁く。 いつもは冷たく酷薄に響くのに、今は嫌になるほど優しく聞こえる。 「お前がうざくなければ、瑞樹だってお前もずっとお前を弟としてくれる」 優しく優しく、耳に染み渡るような声。 強く力を持った声は、妙な説得力を感じる。 「桜川が夢中になるものを与えて、お前は離れてやれ。少し大人になって秋葉に話すことが出来れるなら大した成長だろう」 「………大人になんてなりたくない。弟じゃなくてもいい。俺はモノでいいのに。俺は、瑞樹のモノとしてずっと一緒にいたかった」 それでよかった。 所有物でよかった。 俺は、瑞樹の、持ち物になりたかった。 それでよかったのに。 どうしても、それは許されない。 「俺がずっと一緒にいてやる。ずっと大事にしてやる。ずっとお前を所有してやる。お前は俺の可愛い犬だ。可愛い可愛い俺の秀一。俺がずっとずっと、飼ってやる」 優しく優しく囁く声を聞いていると、訳もなく泣きだし、叫びたくなる。 俺は、こいつの犬じゃない。 こいつのモノじゃない。 瑞樹のモノだ。 でも、瑞樹は、俺を必要としてない。 じゃあ、俺は、どうしたらいい。 「さあ、どうする?」 俺は一人になりたくない。 瑞樹に傍にいてほしい。 だって瑞樹しか、俺にはいなかった。 じゃあ、瑞樹がいなくなったら、俺は、どうしたらいいんだ。 ノックをしようかと思い手をあげて、下げる。 帰ろうかと思い振り返り、踏みとどまる。 そんなことを、何度繰り返しただろう。 何度目かの逡巡の後、手が、ドアを叩いていた。 『誰だよ』 「………」 不機嫌そうな声が響いてきて、やっぱり来なければよかった思った。 でも、もう、ノックはしてしまった。 とりあえず、もう、出たとこ勝負だ。 「雨宮だ。開けるぞ」 入って、部屋を軽く見渡す。 部屋は思ったよりも片付いていた。 やや服などが乱暴に置かれ、物が溢れて雑然としている方が秋葉だろう。 「何勝手に入ってきてんだよ、金魚のフン」 ベッドの上でふんぞり返っている、忌々しい男は俺を見て、嫌そうに顔を歪める。 俺も同じように、顔を顰めているだろう。 やっぱり帰ろうか。 その時、視界の片隅に秋庭が座っているものとは別の、もう一つのベッドが目に入る。 ベッドの横にお菓子の箱が沢山しきつめられた段ボールがあった。 それはすぐにあの酷薄な蛇のような男を連想させた。 その性格にも容姿にもそぐわない、甘いものが好きな男。 それを見たら、なんだか怒りが消えてしまった。 「瑞樹が、お前が来ないのを気にしている」 俺は何を、言ってるんだろう。 こんな奴を瑞樹に近づけようとしてるなんて。 でも、瑞樹も、気にして、残念がっていた。 だったら、主のために、出来ることをしなければいけない。 俺の主は、まだ瑞樹なのだから。 瑞樹は、まだ俺を捨てていない。 俺を嫌わないでもらうように、しなければいけない。 「………俺の言う事を、どうとろうと、お前がどう行動しようと、自由だ。ただ、それだけだ」 口汚く俺を罵りながらも、秋葉はそわそわとしている。 俺の言葉に、感じるものがあったらしい。 その様子は苛立ちを感じるが、瑞樹に何も思われてないことに嫉妬し、拗ねて、憤り、今はしゃいでいるこいつは、思ったよりもずっと瑞樹が好きなのかもしれない。 子供みたいなやつ。 なんだか滑稽で、腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなってきてしまう。 「じゃあ、俺は帰る。……気をつけろ、瑞樹は興味を失うのも早い」 「うっせなーな」 帰ろうかと思って、もう一度部屋の中を見渡す。 つい、空のベッドの横の段ボールを指さす。 「……それは?」 「俺のじゃねえよ。柳瀬の」 そして、予想通りの答えが帰ってきた。 思わず、笑ってしまう。 あいつはいつでもどこでもお菓子を食べているのだ。 「やっぱり」 冷酷で下衆な、酷薄な蛇のような男。 でも、見た目とはそぐわない、甘い甘い匂いのするお菓子が大好きな、男。 「ほら、おいで秀一」 資料室に呼び出されると、やっぱり柳瀬はそこに座っていた。 薄い唇を軽く持ち上げ、俺に手招きする。 屈辱を抑えて近づき、その唇にキスをする。 すると、柳瀬は、俺の頭を軽く撫でた。 「いい子だ」 そしていつものように、俺を膝の上に乗せて抱きしめる。 重いし足が痺れそうなのだが、こいつはこの体制が好きだ。 犬を膝に乗せている感覚なのだろう。 「そういや、秋葉に会いにいったんだってな」 「………お、お前に言われたからじゃない。瑞樹が、つまらなそうにしてるから、気にしてるから、それで」 「いい子だ」 お前に言われたからじゃないと説明しようとするが、柳瀬は聞いちゃいない。 楽しそうに薄く笑いながら、俺の目元にキスを落とすだけだ。 「いい子だな、秀一」 機嫌よさそうに笑い、俺の頭を撫で、喉を撫で、頬を撫でる。 気に沿うような行動をしている時は、こいつは本当に優しく俺に触れる。 その代り、逆らったり機嫌を損ねることをしたときは、身が竦むぐらいに恐ろしいのだが。 「………俺は、いい子か?」 「ああ、いい子だ」 ちゅっと音を立てて、何度も俺の顔や髪にキスをする。 頭を撫で、背中を撫でてくれる。 「可愛い、いい子の俺の秀一」 こんな奴なのに、最低で卑怯な屑なのに、いい子と言われて頭を撫でられると、体の力が抜けてしまう。 こんな優しく触ってくれる人なんて、瑞樹以外いなかった。 いい子と言ってくれる人なんて、瑞樹以外いなかった。 俺を、俺の存在を認めてくれる人は、瑞樹以外いなかった。 「ほら」 傍らに置いてあったケースから、ひとかけらチョコを取り出し、褒美だと言うように俺の口に持ってくる。 促されるままに口を開くと、ビターでシンプルな味がした。 今日は、ごく普通の板チョコのようだ。 こいつは全体的にお菓子好きだが、チョコが一番好きな気がする。 「そういえばお前、部屋にも大量のお菓子を置いてるんだな」 「見たのか。つい集めているうちにあんななったな」 「秋葉も呆れていたぞ」 「ああ、なるほど、それであの馬鹿が気づいたのか」 柳瀬は喉の奥で笑う。 何を言っているのか分からない。 「柳瀬?」 「今度分けてやる」 「なんでだ。いらない」 「お菓子は大事だろ」 真顔で言い切る柳瀬に、こちらもつい笑ってしまう。 こんなところだけ、子供のようだ。 「お前のその甘いものへの異常な執着はなんなんだ」 「遭難した時もチョコレート持ってるといいと言うだろう?」 「遭難する予定でもあるのか?」 「たまにな」 「変なやつ」 冗談を言うようでもなく、真顔で全て答えるのが、余計に子供っぽい。 変なやつだ。 甘いもの好きで、卑怯で下衆な俺を犬扱いする、最低な男。 「よく言われる。でも俺は、いい飼い主になるぞ?」 俺は、お前の犬じゃない。 俺の飼い主は、瑞樹だ。 そのはずなのに。 「………」 「どうした?」 じっと顔を見つめると、柳瀬が首を傾げる。 俺は制服に入っていた小さなケースを取り出し、差し出す。 「………これ、食うか?」 それは、この前街に行った時に見つけた新商品のお菓子だった。 安物だが、こいつが好んで食べていたシリーズだった気がした。 だから、つい、買ってしまった。 なにが、つい、なのか、分からないが。 「どうしたんだ?」 「こ、この前、瑞樹の使いで、街に行ったから、その時に」 「俺に買ってきてくれたのか?」 「お、俺のために、買ってきただけだ!」 こいつのためじゃない。 俺が、食べたかったんだ。 俺もこのお菓子の味は、嫌いじゃない。 「いい子だな」 俺のためだというのに、柳瀬は嬉しそうに笑う。 いつもの酷薄な蛇のような笑い方じゃない。 ふわりとほどけるように、柔らかく、子供のように無邪気に、笑う。 心臓がキリキリと、糸で巻きつけられるように痛む。 「いい子だ、秀一」 そして俺の頭を優しく優しく撫でる。 耳の後ろや耳たぶを撫でられると、体が震えてしまう。 「ありがとう。ほら、食わせててくれ」 何を言っても聞かないだろうから、パッケージを開き、箱を開く。 すると、柳瀬はひとかけらチョコを取って、俺の唇に挟む。 「ん?」 「食わせてくれ」 俺に食べろということかと思い、口の中に含もうとした時に柳瀬が催促する。 軽く口を開き、舌を出して見せる。 意図を理解して、顔が熱くなる。 「っ」 「ほら、早く」 首を横にふろうとするが、腰を引き寄せられ、顔を近づけられる。 今にも、柳瀬の舌が、触れそうだ。 本当にこいつは、勝手で、人の話を聞かない。 「………」 何を言ってもどうせ無駄だ。 こいつは、こいつの好きなようにするだけだ。 「ん」 仕方なく、柳瀬の舌に、含んだチョコを乗せる。 そのまま強く引き寄せられ、俺の舌まで奪われる。 ナッツが入ったチョコの味が、口の中に広がる。 「ん、ん」 柳瀬の舌が、味わうように、俺の口の中を探る。 チョコが、俺と柳瀬の舌に転がされ、溶けていく。 甘くて苦い、カカオの味。 アルコールは入っていないはずなのに、思考が蕩けていく。 完全にチョコがなくなるまで、俺はその味を堪能し続けた。 |