シャツの前を慌てて閉じるが、見られた事実は今更消せない。
俯いて、瑞樹から視線を逸らす。

瑞樹に知られた。
どうしたらいいどうしたらいいどうしたらいい。
頭が真っ白になって、何も考えられない。
何を言えばいい。
どうすれば隠せる。
どうしたら逃げられる。
いやだいやだいやだいやだ、怖い。
瑞樹に嫌われたらどうしよう。
捨てられるのは分かってる。
でも嫌われたくない。
怖い怖い怖い。

「おい、秀一、答えろ」

答えられるわけがない。
汚い俺を見ないで。
俺を、嫌わないで。

「………っの野郎」

答えない俺に焦れたのか、瑞樹が歯ぎしりと共に吐き捨てる。
そして、不意に走り出す。

「み、瑞樹!」

呼びかけるが止める暇もなく、ドアを開け放したまま部屋から飛出し瑞樹は駆け去っていく。
一瞬の出来事に、何も考えられなくて立ち尽くす。
瑞樹は、どうして、俺の前から消えたのだろう。
そこで、思いついて、慌てて俺も部屋から飛び出す。

全力で走りながら二階の二年の部屋が集まるフロアに行くと、目的の部屋の前には何人か人が集まっていた。
ドアは閉まっているが、中から物がぶつかるような、走り回っているような音がする。
何かを考える前に、ノックもせずにドアを開き、中に飛び込む。

「っけんなよ、この糞野郎!」
「何がだ?」
「しらばっくれんな、てめえ、なんのつもりだ!」

そこには、半ば予想通りの光景が広がっていた。

「瑞樹、柳瀬!」

瑞樹と柳瀬が、狭い室内で、殴り合っている。
声をかけるが、二人は止まる様子がない。
その綺麗な顔を怒りで歪め、瑞樹は徒手で柳瀬に殴りかかっている。
いつものように酷薄な笑みを浮かべた柳瀬も同じく何も持たず、瑞樹の攻撃を紙一重で躱している。
スペースなんてほとんどないのに、二人は気にすることなく、優雅にすら見えるほど綺麗に動く。
速さにも鋭さにもついていけず、止めることもできない。

「あいつを、騙くらかして、玩具にしやがったのか!」
「人聞きの悪い」
「あいつを騙すのはさぞ楽だったろうな!」

騙す、玩具。
こんな時なのに、その言葉が胸に刺さる。
そうだな、俺はいいように騙された玩具だ。
完全な犬扱い。
柳瀬にとって、人間ですらない。

「俺への恨みかなんかか!?」
「そんなものはない」

柳瀬と瑞樹は特に関わりがなかったはずだ。
瑞樹への恨みで俺を利用したってことは、ないだろう。
でも、胸に痛みがツキツキと走る。

「おい、あいつらどうにかしろ。さすがに寮監が来る。つーか俺の部屋が壊れる。お前の責任だろ」

不意に声をかけられて、そちらに視線を向ける。

「秋庭………」

柳瀬の同室でもある男が、俺が入ってきたドアを閉めていた。
そして、疲れたように深くため息をつく。

「さっさと止めろよ。あいつらも人の部屋で暴れんなよ………」

止められるなら、止めたい。
でも、いつ割って入ればいいのか分からない。
二人の次元の違う争いの前に、入れる隙なんてない。

どちらが強いのか、気になっていた。
今のところ二人は互角。
リーチの足りなさを素早さと踏み込みでカバーする瑞樹に、柳瀬はその手足の長さとパワーで対抗する。

「しっかし、桜川、キレててもつえーな、あいつ………」

そう、瑞樹は強い。
ずっとずっと、昔から守ってくれていた。
誰にも負けない瑞樹。
でも、自分の身でも、この前の時でも、柳瀬の圧倒的な強さも知っている。
どっちが、勝つのだろう。
いや、俺はどっちに勝ってほしいのだろう。

「………どっちもえげつねえなあ」

秋庭は二人を止めようとすることもなく、諦めたようにただ部屋の中で暴れる二人を観察している。
確かに、この前柳瀬の言った通り、二人はどちらも容赦なく急所を狙っている。
目、鼻、顎、鳩尾、股間、脛。
どれも、一発入れば二人の力では致命的だろう。

「どっちかが倒れなきゃ止まんねーかな、これ」
「………っ」

駄目だ。
そんなの駄目だ。
二人が、怪我するのは嫌だ。
瑞樹も柳瀬も怪我をするのは、嫌だ。

「瑞樹、京介!」

一旦引いて距離を取った二人の間に滑り込み、二人の手を止めようとする。
すでに動き出していた二人の拳が、襲いくる。
瞑ってはいけないと思ったのに、つい目を瞑ってしまう。

「な!」
「っ!」

二人の息を飲む音が聞こえる。
背中に受けた強い衝撃で、こらえきれず床に倒れこむ。

「あ………」

肩と背中を強く打つ。
疲れ切っていた体から、力が抜けていく。

視界が暗くなっていく。
意識が、黒いところに落ちていく。

そして、プツリと世界が消えた。



***




「………ん」

目を開けると、そこは見慣れない天井。
いつもと違う布団の感触。
ここは、どこだ。
体をよじって起こそうとして、体がみしりと軋んだ。

「おい、この馬鹿」

不意に聞こえてきた声に、慌ててそちらを向く。
それは常に傍にあった、誰よりも愛しく近しかった人の声。
今は不機嫌さが溢れ、低く鋭くなっている。

「瑞樹………?」

ベッドの傍らの椅子に座った瑞樹は俺を見下ろし、眉と目を吊り上げ、歯を噛みしめている。
少女のような愛らしい顔立ちの瑞樹だが、怒っていると誰をも怯えさせるような恐ろしい殺気を放つ。
瑞樹が、本気で、怒っている。

「この、馬鹿!」
「ご、ごめんなさい」

今度は鋭く怒鳴りつけられて、反射的に謝る。
瑞樹に怒られるのは、怖い。

「なんで怒られてんのか分かってんのか?」
「えっと………」

理由なんて分からない。
でも、瑞樹が怒るなら何か俺がしたのだ。
俺が悪いのだ。
瑞樹は正しい。
だから怒られたら謝るのは、当然だ。

「ったく」

吐息と共に、苦々しくつぶやく。
瑞樹が、怒っている。
怖い。
哀しい。

「まず、殴り合ってるやつらの間に入るとかすんな。お前そんな強くねーんだから余計にすんな」
「あ………」

その言葉に、ようやく何があったのか思い出す。
そうだ、瑞樹は、柳瀬と、殴り合っていたのだ。
あのままだと二人が怪我するから、それは嫌だから、止めようとした。
それで、気を失ったのか。
でも、瑞樹と柳瀬に殴られたにしては、それほどダメージも痛みもない。

「ていうか別に殴られてねーのになんで倒れてんだよ」
「………秋庭?」

瑞樹以外の言葉が聞こえてきて、視線を巡らせる。
そこには男くさく整った容貌の、いけすかない男がいる。
つまらなそうに、瑞樹の横で俺を見下ろしていた。
瑞樹と秋庭が、いる。

「俺は、いったい、どうしたんだ?あ、それと、その………」

ここは、自室ではなく、秋庭の部屋のようだ。
当然いるはずの男を、部屋の中に探すが、姿がない。
なぜ瑞樹と秋庭しか、いないんだ。

「お前が殴られる寸前に、柳瀬がお前を庇って突き飛ばして、代わりに桜川に殴られたんだよ。お前殴られてねーし、頭も打ってなかったのに、なんでか気絶してたの」
「え………」

何も言ってくれない瑞樹の代わりに、秋庭が説明してくれる。
柳瀬が、俺を庇って、瑞樹に殴られた。
あの時背中に感じた衝撃は、柳瀬に突き飛ばされたものだったのか。
それで、倒れこんで、気を失ったのか。
体は疲労して、痛みを感じ、軋んでいる。
突き飛ばされた衝撃と、この疲れで、気を失ったのだろうか。

「………」

今も感じている、痛みと軋み。
ああ、そうだ、これは、殴られた痛みじゃない。
これは、夕方に柳瀬の過ごした時の、名残。
あの時に与えられた痛みと、だるさ。

瑞樹から視線を逸らして、布団を握り締める。
そうだ、この布団だ。 
あの時も必死に、握りしめて、縋りついた布団だ。
思い出してしまった感覚と、気を失った情けなさで、羞恥で顔が熱くなってくる。

「………くっそ」

瑞樹が、低く呻くように吐き捨てる。

「瑞樹………?」

恐る恐るそちらに視線を再度向けると、瑞樹が目をつぶって片手で顔を覆っている。
苦悩しているように顔を歪めている。

「瑞樹………」

名前を呼ぶと、瑞樹は手から顔を離し、ため息をついた。
それから静かな表情と声で、俺を見下ろす。

「………合意の上か?」
「え」
「それだよ」

そして俺の首元を指さす。
その言葉に更に体がかっと熱くなり、慌てて首元を手で押さえる。
そこにはきっと、瑞樹に見られたものと同様の痕が刻まれているのだろう。

「………」

羞恥に熱くなり、けれど恐怖に冷たくなる。
知られた。
知られてしまった。
もう、隠せない。
もう、逃げられない。

「おい、秀一。合意の上かって聞いてんだよ」
「あ………」
「………やっぱ潰す」

答えられない俺に業を煮やしたのか、瑞樹が椅子から立ち上がる。
慌ててベッドから体を起こす。

「ご、合意だ!合意の上だ!」

瑞樹は動きを止め、立ったまま俺を睨みつける。
その目に怯みそうになるが、またあんなことになったらたまらない。

「本当だろうな、あ?」
「ほ、本当だ」

咄嗟に答えてしまったが、本当と言い切るのは少し抵抗がある。
最初は無理やり、凌辱された。
力で捻じ伏せられ、犬として屈服させられ、好きに弄ばれた。
決して合意の上じゃない。
今も、疑問も不安も残っている。

「てめえ、正直に言わねーとどうなるか分かってんだろうな!?」
「………っ」

瑞樹がますます目を吊り上げて、怒鳴りつける。
怖くて体が竦む。
瑞樹が、怒ってる。

「お前チンピラみたいになってんぞ」

秋庭が呆れたように、隣から指摘する。
瑞樹の視線が秋庭に向かい、ほっと胸を撫で下ろす。

「うっせー、黙れ。つーかお前知ってたんじゃねーのか?」

秋庭は慌てたように手をパタパタと振って、あからさまに動揺を見せる。

「し、知らない。知らないぞ!俺は何も知らない!」
「知ってやがったなてめえ!俺への腹いせかなんかか!」

どういうことだ。
秋庭は、ほとんど知らないと言っていた。
柳瀬が俺に興味があることぐらいしか知らないって言っていた。
でも、この動揺は、なんだ。

「ち、ちげーって!そうじゃなくて!仕返しとかじゃねーよ!」
「やっぱ知ってやがったな!お前の差し金か!」

仕返し。
腹いせ。
瑞樹への仕返し。

「別に仕返しとかじゃねーよ!あいつが協力してくれるっていうから」
「ああ!?」
「じゃなくて!」

どういうことだ?
柳瀬のしたことは、瑞樹への意趣返し?
瑞樹に打ちのめされた秋庭の仕返しのために、俺を利用した?
本当は、俺になんて、興味はなかった?

「………」

全身が冷たくなっていく。
手を握り締めて手のひらに爪を立てる。
でも、痛みは、気を紛らわせてくれない。

そんなはずがない。
そんなはずがない。
そんなはずがない。

「お前だって、その犬から離れたいようなこと言ってただろ!」

そして続けられた言葉に、更に冷水をかけられたように冷たくなる。
体が足先から指先まで冷えていく。

「そうだけどよ………」

瑞樹はやっぱり、俺から離れたかった。
俺なんていらなかった。
俺が邪魔だった。
俺をさっさと捨てたかったんだ。
知っていたけど、改めて聞かされると、胸が引き去れかれて血が溢れていく。

「でも、あいつはねーだろ!なんであいつなんだよ!」

やっぱり俺は、いらなかった。
瑞樹に迷惑をかけるだけの存在だった。
嫌われたくないなんて、望むことは、なんて身の程知らずでおこがましいことだったんだろう。

「おい、秀一」
「………あ」

呼ばれて、のろのろと顔をあげる。
瑞樹は不機嫌そうな顔で、俺を睨みつけている。

「今日は借りが出来たし、お前が俺以外に興味を持つようになったことは、いいことだ」
「………」
「だが、さっさと別の奴見つけろよ。あいつはやめとけ」

あいつって、柳瀬のことか。

「み、瑞樹、怒ってるか?」
「怒ってる」

でも、瑞樹は俺なんていらないのに。
なのに、柳瀬と一緒にいることも許されないのか。
じゃあ、俺は、一人になってしまう。

「あいつとヤったとか、喧嘩の間に入ったとか、それ以上に、お前が俺に嘘をついてたのを怒ってる」

胸が痛い。
頭がガンガンとする。
呼吸が苦しい。
確かに、瑞樹に嘘を、ついていた。
それは、許されない、罪だ。

「そんなに俺は信用できないか?」
「そんなことない!」

瑞樹が少し目を伏せて言うから、慌てて首を横に振る。
瑞樹以上に信頼している人間なんていない。
瑞樹だけが俺の傍にいてくれた。
ずっと、瑞樹だけが、信じられる人間だった。

「ごめんなさい!ごめんなさい、瑞樹。ごめんなさい。でも、心配かけたくなくて、それで、知られたくなくて、これ以上迷惑かけたくなくて、それで、それで」

これ以上、疎ましがられたくなかった。
これ以上、いらない存在になりたくなかった。
だから、助けを求められなかった。
だから、汚れた俺を知られたくなかった。

「くっそ」

瑞樹が顔を抑えて吐き捨てると、また心臓がキリキリと痛む。
嫌われた。
完全に嫌われた。

「………分かってる。お前が考えてることぐらい分かってんだよ」
「ごめんなさい」
「いや、俺も悪かった。お前の様子に気づけなかった」

もう駄目だ。
もう瑞樹の傍にはいられない。

トントン。

その時軽くがノックされて、ドアが開く。
そしてひっそりとした、けれど通りのいい低い声が響いてきた。

「おい、そろそろいいか?」

顔を覗かせた細い目と薄い唇の男に、心臓が跳ね上がる。

「話してる途中だ、出てけ」
「ここは俺の部屋なんだがな」
「だいたいてめーがな!」

瑞樹がまた柳瀬に掴みかかろうとする。

「み、瑞樹っ」

もう、殴り合いなんてしてほしくなくて、声をかける。
怖い怖い怖い。
もう怒らないで。
瑞樹も柳瀬も怒らないで。
俺を嫌わないで。
怪我をしないで。
怖いことしないで。

「秀一が怯えてるけど、いいのか?」
「秀一ぃ?てめえ、誰に許可とって呼び捨てにしてんだよ」

瑞樹がますます顔を歪めて、柳瀬を睨みつける。

「………瑞樹」

ただ、名前を呼ぶことしかできない。
どうしたらいいか分からない。
何を言ったらいいか分からない。

「………ち」

俺の顔を見た瑞樹が、小さく舌打ちして足を止める。

「………今日は借りがあるから、引いてやる」

そして深くため息をついて、そう言った。
借りって、なんだろう。
とりあえず、喧嘩にはならないようだ。
ほっとして、胸を撫で下ろす。
二人の喧嘩は、まるで命を取り合うかのようで、怖かった。
あんなのもう、見たくない。

「どういうつもりか知らねーけど、そいつを泣かしたら今度こそ殺すからな」
「肝に銘じておく」

瑞樹の言葉に柳瀬はうっすらと笑って、頷く。
その返事にも舌打ちし、瑞樹が俺に視線を戻す。

「秀一、いいか、とっとと次の奴見つけろよ」
「………」

でも瑞樹、お前がいなくなったら、俺には誰もいない。
俺を見てくれる人がいない。
そうしたら、柳瀬しかいない。
俺の傍にいてくれる人、俺を見てくれる人、俺に優しくしてくれる人。
そんな物好き、こいつしかいない。

「………とりあえずは、今日は引いてやる。俺は部屋に帰る。お前が話したいならそいつと話せばいい。別に別れ話でもいいけどな」
「え」

瑞樹は俺に背を向けると、すたすたと歩いていく。
ドアの前に立ってぴたりと足と止めると振り返った。

「そんで秋庭、お前はこっち来い。話がある」

そして秋庭を睨みつけ手招きする。
秋庭は後ずさりして、首を思いきり横にふる。

「なんでだよ!?俺何もしてねーし!」
「いいから来い!」
「理不尽だろ!それ八つ当たりだろ!」
「うっせー、てめえ、事と次第によっては地獄見せんぞ」
「だから俺は関係ねーってば!」

瑞樹は秋庭に近づくと腕をつかみ、無理やり引きずる。

「いて、いてえって!」
「うるせえ」
「お前は鬼か!」

そしてそのまま騒がしく、部屋から出ていってしまう。
ドアが閉められ、途端に部屋の中を静まり返る。

「………あ」

部屋には俺と柳瀬の二人が残される。
瑞樹にはおいて行かれてしまった。
部屋にも戻らなくていいと言われてしまった。
瑞樹に、完全に捨てられてしまった。

「別れ話をするか?次の奴を見つけるか?」

ドアの横に立った柳瀬が面白そうに言いながら、俺を見ている。
こいつは、何を考えているのだろう。

秋庭のために、俺を支配した?
瑞樹への仕返しのために、俺を利用した?
俺のことなんて、本当は興味なかった?

「………」

じっと見つめていると、柳瀬の唇の横が切れて血が滲んでいることに気づいた。
頬も少し赤くなり、腫れているようだ。

「柳瀬、それは………?」

こいつが怪我をしている姿なんて、想像したこともなかった。
いつだって、圧倒的な力で、余裕で、静かに笑い佇んでいた。
俺が指さすと柳瀬が少し笑って、唇の端を抑える。

「ああ、直撃は避けたんだがかすった。さすがに強いな。口の中ザリザリだ」

舌を出して、苦笑してみせる。
それは、瑞樹に殴られた痕か。
俺を庇って、瑞樹に殴られた痕。
瑞樹の強さと、その拳の鋭さは、俺が何より知っている。

「あ………」

なんで庇った。
なんで俺なんて守った。
なんて俺を守って怪我なんてしたんだ。
疑問がいっぱいになって、でも喉で詰まって口から出てこない。

「………なん、で」

ただ戸惑って柳瀬を見つめていると、笑いながら近づいてくる。
そして大きな手で俺の頬を包み、顔を持ち上げられる。

「どこも痛くないか?」
「………痛く、ない」

夕方の名残の痛みと軋みはあるが、怪我はない。
俺よりも、柳瀬の方が痛そうだ。
怪我をしている。
血が出ている。

「柳瀬、お前は、痛くないのか?」
「大丈夫だ」

柳瀬は、安心させるように俺の頭を撫でてくれる。
そして、優しい声で言った。

「ちゃんと守れなくて悪かったな」
「きょう、すけ」

体の奥が熱くなって、熱が溢れていく。
熱くて苦しくて、涙が出そうになってくる。

「俺が、悪いのに」
「守ると約束したのに守れなかった俺が悪いだろう?」

頭を、頬を撫でてくれる温かい手が、心地いい。
静かに話す声が、耳に響き渡る。

「怖くなかったか?痛くなかったか?」
「怖くない、痛くなかった」
「いい子だな。強い子だ」

笑いながら、抱きしめてくれる広い胸、長い腕。
甘い甘い匂いに包まれる。

「………京介」
「ん?」
「俺のこと、嫌いになってないか?」
「どうして?」

柳瀬が俺の顔を覗き込み、首を傾げる。
どうしてそんな優しくするんだ。
どうして瑞樹すら捨てる俺を、撫でてくれるんだ。
俺はずるいのに。
この期におよんで、こいつと瑞樹を比べている。

「俺、瑞樹とお前のどちらをかばうか、どちらを選ぶか、決められなかった。俺はお前の犬になりきれてない」
「俺の犬にはなりたくないか?別の人間を探すか?」

問われて首を思いきり横に振る。
別の人なんて、考えられない。
そんなのいるはずがない。
俺を抱きしめてくれる人間が、表れるはずがない。

「瑞樹は、俺を捨てる。俺は、一人になる。そんなの嫌だ。嫌だ」

瑞樹はもう俺をいらない。
瑞樹はもういい子と言ってくれない。
瑞樹はもう俺の頭を撫でてくれない。

「俺は、お前の犬で、いたい。お前に飼ってほしい。一人にしないでほしい。一緒にいてほしい」

俺なんかを欲しいと言ってくれる。
俺なんかをいいこと言ってくれる。
俺なんかを撫でてくれる。
そんなの、もう、こいつ以外いない。

「俺を、愛してほしい」
「可愛い秀一。お前が俺の犬でいるなら、ずっと愛してやる」

柳瀬が優しく笑って、ベッドに座る俺に屈みこみ額にキスをしてくれる。
その温もりが優しくて、とうとう涙が零れてしまう。

「瑞樹の代わり、だ。それでも、いいのか?」
「兄弟が恋しいのは当然だ」

瑞樹は兄だと言ってくれた。
兄はいつかは離れる。
いつかは別の道を行く。
遠くへ行ってしまう。

「でも、お前の飼い主は、俺だけだ」

でも飼い主はずっと一緒にいてくれる。
ずっと飼ってくれる。
最後まで、面倒見てくれる。

「………っ」

それが嘘でもいい。
お前が俺を秋葉のために嬲ったのだとしてもいい。
瑞樹の仕返しのために、俺を利用したのだとしてもいい。

「俺は、お前の犬だ」

飽きるまで一緒にいてくれるならいい。
瑞樹に捨てられる俺を拾ってくれるならいい。
一緒にいて、撫でてくれて、抱きしめてくれてくれるならいい。
つかの間でも愛してくれるなら、犬でいい。
役立たずの人間よりは、俺は愛される犬でいたい。

「いい子だ。愛してるよ、秀一」

柳瀬が満足げに笑い、抱きしめてくれる。
その首に縋りつき、顔を引き寄せ、薄い唇にキスをする。

「俺は、京介の従順な犬になる」

どうか、俺に命令して、俺を屈服させて。
その圧倒的な力で押さえつけて。
考える暇なんてないほど、絶対的な支配を与えて。

そして、心からの服従をお前に。
俺は薄汚れて、関心を得るために尻尾を振る犬になる。






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