久々に戻った自室は、やっぱり変わらない。
最低限のものしか置かれていない、簡素な部屋。
生きている人間の匂いがしないと、前に言われた。
何年も過ごしてきたのにいつまでたっても、落ち着かない。

この家には、どこにも居場所がない。
小さい頃から変わらない。
俺はこの家を、自分の家だと思ったことはない。

強いて言えば、瑞樹の傍らが、俺の家だった。
瑞樹が存在を認めてくれたおかげで、俺は息ができるようになった。
居場所を得た。
安心をもらった。
ようやく、生きることができた。

瑞樹と出会う前の俺は、ただ息をしているだけの肉の塊。
父や兄の怒りを気にしているだけの存在だった。
彼らの目が俺に触れないように、ただじっと物陰に隠れていた。
彼らに殴られなかった日は、いい日。
ただ、それだけがかすかな喜びとして、息をしていた。

瑞樹と出会って、ようやく俺はヒトになれた。
瑞樹のものになって、ようやく俺は生きることを許された。

苦しい。
苦しいよ、瑞樹。
瑞樹瑞樹瑞樹。

瑞樹とずっと、一緒にいたいんだ。
それだけでいい。
ただ傍にいることを許して。
触れることなんて望まないから。
愛されることなんて、望まないから。

ただ、傍にいることを許して。

でも、瑞樹は俺を置いて行く。
瑞樹はもっともっと広い世界を見る人。
俺のような役立たずが一緒にいるのは、足手まといだ。

父や兄の言うとおり。
あの馬鹿が言うとおり。

あの忌々しい馬鹿の姿が、浮かぶ。
瑞樹が珍しく興味を示す、男。
今まで瑞樹の傍にずっといる人間はいなかった。
皆、瑞樹を理解できずに去っていった。

瑞樹は残酷だ。
束縛されることを嫌う。
そして、束縛することも嫌う。
人をつなぎとめることをしない。
自身も他人も、自由であることを好む。

来るものは拒まない。
去る者は追わない。

移り気で広すぎる心。
俺が傍にいることを許されているのは、ただ幼馴染だからだ。
そして、俺の弱さを放っておけない優しい人だから。
俺が、瑞樹に縋りついて生きているから。

瑞樹は来るものは拒まない。
弱いものを放っておかない。
上にたつにふさわしい度量をもった人間。
だから、俺を放っておけない。
全身で引きとめるから、俺を捨てられない。

瑞樹が望んでいる訳ではない。
俺は、望まれている訳ではない。

俺なんていなくても、瑞樹はなんだって出来る。
一人で、どこへだって行ける人間。
むしろ俺が足枷だ。

瑞樹は拒絶しない。
瑞樹は望まない。

その瑞樹が、珍しく人を求める。

苦しい。
悲しい。
寂しい。
また、置いて行かれる。
また、俺は一人だ。

喉がひきつれる。
体が震える。
怖くて、叫びだしてしまいたい。
瑞樹がいなくなったら、俺は俺でいられない。

助けて。
助けて助けて。
だれか、たすけて。

その時、携帯がかすかに震えた。
叫びだしそうになっていた衝動が、その瞬間収まる。
脳裏に、冷たい眼をした男が浮かぶ。

そんな訳はない。
あの男には、本家に帰ると言ってある。
呼び出しには応えられない、と言った。
男は納得していた。
だから、連絡なんてあるはずがない。

呼び出し以外にメールをもらったことはない。
あいつは、ただ俺をおもちゃにしているだけ。

では誰だろう。
震えは二回で止まった。
メールだ。
本家にいる今、俺に連絡をするような人間はいない。

スパムだろうか。
面倒だったが惰性で、携帯を取り出す。
そして、軽く驚く。
そこにあった名前は、あの蛇のような男。

なんの用だ。
かすかに不安を覚えながら、携帯を操作する。
メールを開いて、そこにあったのは簡潔な一文。

『帰る時、チョコ買ってきて』

一瞬、何も考えられなかった。
何が書いてあるのか、理解できなかった。
しばらくそのメールを眺めていた。
何が書いてあるか理解して、ふつふつとある感情が湧いてくる。

そして、噴き出した。

「ぷ」

あの冷たい男は、柄にもなくお菓子が大好きだ。
蛇のように感情のない目をして、甘いものを口にする。
そのギャップに、いつもなんとなく違和感を覚える。
子供のようにお菓子に執着する男が、滑稽だ。

「く、くくく、あ、はは、似合わない」

なんて似合わないんだ。
しかも買ってきて、って。
子供か、あいつは。
でかい図体して、情けない。

「あっはは、く、ふふ」

笑いが止まらない。
あまり大きな声を出すと不興を買うから、声をひそめて笑う。
あの男とこのメールのギャップが、おかしくて。
おかしくておかしくて。
笑いが止まらない。

「全く、馬鹿馬鹿しい」

本当に馬鹿らしい。
なんでこいつの言うことを聞いてやらないといけないんだ。
無視してやろうかと、思ったのは少しだけ。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、毒気が抜ける。
仕方ないから、メールを返す。

『チョコを買って帰るから、待ってろ』

メールは、すぐに返ってきた
また、簡潔な一文。

『待ってる』

短い、必要最低限な言葉。
待ってる、か。
そうか。

待っているのか。

「………本当に、どうしようもない、奴だな」

冷たく冷酷で、感情の見えない怖い男。
それなのに、変なところで子どものようで。

俺はそのまま夕飯の時間になるまで携帯を眺めていた。





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