見渡すことのできないほどの、大きな日本家屋。
門をくぐっても、玄関は見えない。
よく手入れされた木々に囲まれた庭が広がっている。
暗闇の中、周りに溶け込むことなく桜川の本家はただそこに佇んでいた。

久々に足を踏み入れたこの家は、相変わらず張りつめた緊張感が漂っていた。
息をする度に、黒いねばついたものが体の中に入り込む。
重苦しい空気に、手足が縛りつけられる。

「大丈夫か、秀一?」
「ああ、大丈夫だ」

心配そうに見上げる瑞樹に、俺は笑ってみせる。
だめだ。
瑞樹に心配をかけてはいけない。

俺は強くなった。
身も心も、瑞樹にふさわしいように、鍛錬を重ねてきたはずだ。
以前とは違う。
そう、だから、この家ぐらい、なんともないはずだ。

手を握りしめる。
俺は強くなった。
だから、大丈夫。

まだまだ、瑞樹には勿論、あの馬鹿にすら敵わないが。
あの蛇のような男に弄ばれるぐらい、力及ばないけれど。

脳裏によぎる面影に、ふいに冷たい指の感触を思い出す。
背中から腰にかけて電流が走る。
耳に触れる、冷たい唇。

『お前は、俺の犬だ』

感情のこもらない平坦な声。
それなのに、その息は熱い。
本当に愛しいペットにするように、優しく触れる唇。

あの男に触れられてから、皮膚が一枚薄くなった気がする。
ずっと隠されていた場所が、むき出しにされている感触。
なんでもない刺激に、敏感に反応する。
体がいつでも微熱を帯びている。
手足が、しびれる。
体が、震える。

「秀一?」
「あ、ああ。すまない。行こう」

黙り込んでしまった俺に、再度瑞樹が見上げてくる。
少し笑って、頷いた。

あの男のことなんて考えるな。
今あの男はここにいない。
あの男に合わなくてすむ、せっかくの機会だ。

なんでもない瞬間に、あの男のことが思い浮かぶ。
体に叩きこまれた感触が、消えない。
微熱が、体にくすぶる。
なんて忌々しい。

「大丈夫か?俺一人でもいいんだぞ?」
「いや、俺は瑞樹の傍にいる」

瑞樹が心配してくれているのは、分かる。
けれどいつもこう言われるたびに、寂しくなる。
瑞樹は、俺がいなくても大丈夫なのだ。

当然だ、瑞樹は強い。
瑞樹は聡い。
瑞樹はなんだって、一人で出来るのだ。

だから本当は、俺なんていてもいなくても一緒なのだ。



***




今の学校に転校する前に決められた、定期的な帰宅。
一月に一度は、必ず顔を見せること。
それが旦那様の出した条件だった。
飲まなければ、更に条件の悪い環境が用意されていた。

ふた月ぶりの旦那様は、当然ながら変わりなかった。
居室である広い和室の上座に座り、ゆったりと寛ぐ姿は瑞樹とはあまり似ていない。
精悍な、男らしい容姿。
威厳と自信に満ちて、鷹揚と息子を見て笑っている。
瑞樹ほどの歳の息子がいるとは思えない若々しさ。

この人を見るたびに、俺はライオンを思い出す。
寛ぎながらも獲物に狙い定める、ライオン。
その姿は、少女と見まごうばかりの瑞樹とは似ても似つかない。
けれどその眼は瑞樹とよく似て、穏やかさの中に鋭さを潜ませる。

「ちゃんとやってるのか」
「誰に聞いてんだよ。俺がヘマすると思ってるのか?」

瑞樹は旦那様の前に来たときからずっと不機嫌そうな顔をしている。
瑞樹が頭の上がらない数少ない人物の一人。

「お前の乱闘騒ぎと女遊びの後始末させられたこっちの身にもなれ」
「乱闘騒ぎは俺のせいじゃねーし、女遊びは同意の上だろ」
「程度ってものがある。自分で自分の責任がとれないガキが、ナマを言うな。なんの力もないガキの強がりほど、滑稽なものはない」

悔しそうに、瑞樹が唇を噛む。
確かに、旦那様の力がなければあのことはもっと大事になっていただろう。
旦那様は瑞樹をかわいがっているが、期待の分だけ容赦もない。
優劣を見せつけるように、上から押さえつける。
瑞樹は、それで余計に奮起するタイプだから。
そんなことには負けないから。
だからこそ旦那様は瑞樹を容赦なく押さえつける。

罪には罰を。
何かを与えるには、必ずその代償を求める。

「秀一、この馬鹿の面倒みてもらって本当に悪いな」
「いえ、私は瑞樹様のお傍に仕えることが出来て光栄です」

急に話をふられて、俺は頭を下げたまま答えた。
それは別に世辞でもなんでもない。
心からの言葉だ。
許されるなら、俺は瑞樹の傍にいるのが、望みだから。
瑞樹の傍らしか、生きていられないから。

「お前も変わらないなあ」

旦那様はそんな俺の答えに苦笑する。
どこか、冷たいものが含む笑いだった。
旦那様は穏やかで、大らかだ。
俺のようなものにも気をかけてくださる優しい方だ。

けれど、冷たく怖い。

「少しは強くなったか?こいつから一本とれるぐらいにはなったか?」
「………申し訳ございません。まだまだ私には精進が足りません。瑞樹様の足元にも及びません」
「そんな弱い男に、大事な息子の傍にいさせる訳にはいかないなあ。せめて盾ぐらいにはなれよ」
「………はい」

笑い混じりの言葉は、けれど冷たいものを含む。
その言葉は決して冗談などではない。

旦那様はおおらかで優しい方だ。
俺が、瑞樹に関わりのないただの使用人だったら、旦那様は優しい。
自分の分を守る人間には、寛容だ。

だが、今俺は瑞樹の隣にいる。
旦那様は役立たずなんて、認めない。
だから、俺は認められていない。
本来なら、この場にいることすら許されない。
今ここにいられるのは、瑞樹の情けのおかけだ。
俺は瑞樹のものだから、旦那様の命令よりも瑞樹の命令のほうが優先順位が上だ。

「おい、クソ親父。いい加減秀一に絡むのやめろ」
「なんだ。息子の大事な友人兼右腕候補に励ましの言葉を送っただけだろう」
「こいつはそんなんじゃねえよ。ああ、もううぜーな!」

瑞樹は苛立たしげに、頭をかくと後ろに控えていた俺を振り向く。
何を言われるかは分かっていた。

「秀一!」
「はい」
「下がってろ」
「………はい。失礼します」

予想通りの言葉に、俺は深く頭を下げた。
そして音をたてないようにその場を後にする。

ライオンの目が、俺の背をあざけ笑っているのを感じた。



***




昼はだいぶ暑くなったが、まだ6月の夜は寒い。
冷たい風で頭を冷やしながら、瑞樹を待つ廊下で、俺はため息をつく。
目の前に広がる庭は、飾る花を違えたぐらいで、何一つ変わらずそこにある。

変わらない、家。
変わらない、庭。
俺と、一緒で、変わらない。
変われない。

また、瑞樹に庇われた。
こんなんだから、いつまでも旦那様にも認められないままだ。
俺はいつまでたっても、役立たずで、いてもいなくてもいい存在。

拳を強く握る。
爪が喰い込んで痛むほど、握る。
悔しい。
なんて、弱い。
弱すぎて、自分が許せなくなる。
いつになったら、瑞樹を守れるぐらい強くなれるのだろう。

どうしたらいいんだろう。
どうしたら、強くなれるのだろう。
どんなに鍛錬を重ねても、俺はずっと弱いまま。

瑞樹のお荷物のまま。
役立たずのまま。
俺はずっと変われない。

「おい、何をしているんだ、そこで」

聞きなれた声に、ぎゅっと、心臓が引き絞られるように、痛む。
ああ、やっぱり俺は弱い。

「………兄さん」

いつのまにか下がっていた視線を上げると、不快げに眉をひそめる長身の男がいた。
ふた月ぶりに見る兄は、いつものようにその切れ長の目を嫌悪で歪ませる。

「ウロウロするな。その顔を見るだけで不快になる」
「………申し訳ございません」
「出来そこないの居候が、我がもの顔でうろつくな。目障りだ」
「…………」

瑞樹を待っているのだ、と言おうとして無意味なことだと思いだした。
この人には何を言っても、無駄なのだ。
ただ俺の存在がこの人を不快にさせる。
仕方がないのだ。
理由も何も、関係ない。
虫を見た時と同じ心境だ。
ただ、生理的な嫌悪。
きっと、この人にもどうしようもない。
だから、頭を下げて、ただ嵐が過ぎるのを待つ。

「お前の陰気な顔は、本当に人をイラつかせる」
「………申し訳ありません」
「エサ欲しさに這いつくばる浅ましい豚が。役立たずのくせに瑞樹様のお情けにすがって飼ってもらうなんて、なんて図々しい。お前と血がつながってると思うだけで、俺は死にたくなる」
「…………」

そうだ、その通りだ。
俺は、餌をもらうためならなんだってした。
この人の投げたパンを、這いつくばって食べたことだってある。
瑞樹のものになるまで、俺はただの家畜だった。
餌をもらうために、ただ息をしていた。
叱られないことだけが、殴られないことだけが、喜びだった。
いや家畜以下の、害虫だ。
何も生み出さない、肉の塊。

この人の言うとおりだ。
何も言うことはない。
だから、ただ頭を下げる。

「瑞樹様をあんな学校に入れさせて、どんな顔をしてまだ傍にいるんだ。この役立たず。いるだけ害にしかならない。なぜお前が生きてるんだろうな」

ぶつけられる悪意に、身が竦む。
この言葉に、意味を感じるな。
心を閉ざせ。
何も感じない。
しばらく耐えれば、過ぎ去っていくものだ。
無表情に。
反応を返すな。
感情を見せれば、兄は余計に苛立ちを募らせる。
ただ、頭を下げて、過ぎ去るのを待て。

その時、後ろの障子が開いた。
兄が、途端に黙り込む。

張りつめた空気が、和らぐ。
いつのまにか噛みしめていた唇に気付く。
強張った体から、力が抜ける。

「何をしている。亘」
「………瑞樹様」

部屋から出てきたのは、やはり不機嫌そうな瑞樹。
瑞樹の顔を見て、どうしようもなく心が軽くなる。

ほっとして、目が潤む。
それを感じて、更に悔しさで涙が出そうになる。
この弱い涙腺が嫌いだ。
瑞樹にすがる情けない俺が、大嫌いだ。

強くなんて、なってない。
どこまでも、弱い。
悔しい。
悔しい悔しい悔しい。

瑞樹は俺の顔をちらりと見てから、兄に視線を移す。
腕を組んで、ねめつける。
背はずっと瑞樹の方が小さいのに、兄は少し怯んだように身を引く。
顔は全く似ていないけれど、それは旦那様によく似た威圧感。

「俺のものに手を出すなと何度言ったら分かるんだ?」
「兄弟の再会を喜んでいただけですよ」
「もういい、下がれ」
「………はい」

兄は少し不服そうに一瞬眉をひそめた。
けれどすぐにそれを隠して一礼して、去っていく。
兄の姿が消えるのを見計らって、瑞樹が大きくため息をついた。
そして何事もなかったように、俺に向かって顎で促す。

「行くぞ、秀一」
「はい。失礼しました」
「その肩が凝る喋り方やめろ」
「ですが、まだ邸内です」
「ったく、馬鹿馬鹿しい」

瑞樹と気軽に話している姿を見られたら、俺だけではなく瑞樹まで叱責を受ける。
邸内の使用人には示しをつけろと、常日頃から言われている。
瑞樹はとても嫌そうに鼻に皺を寄せた。
それが、俺と親しく話せないことへの不満だと分かって、少し嬉しい。
瑞樹に心を許されていると思うと、嬉しい。

「もうすぐ夕飯の時間です。早く戻りましょう、瑞樹様」
「ああ」

部屋に帰って一度身支度を整えなければいけない。
夕飯は旦那様や奥様や妹の玲(あきら)様と一緒だ。
遅れたら、また瑞樹が小言を言われるだろう。

瑞樹の部屋は西棟にある。
旦那様の居室がある東棟からは、庭を渡る廊下の先だ。
西棟は庭の一部をつぶすようにして新しく建てられたものだから、少し遠い。

「………あ」

そこに、一番会いたくなかった人がいた。
いつでも背筋を伸ばした、隙のない人。
髪を後ろに撫でつけて、眼鏡をかけたその姿は、冷たさばかりが押し出される。
兄と会った時と同じように、いやそれ以上に心臓が、痛む。
その人は俺には視線もよこさず頭を下げて、瑞樹に挨拶をした。

「これは瑞樹様、お帰りなさいませ」
「雨宮か。帰ってきたくもねえけどな、こんな家」
「旦那様は瑞樹様のお帰りをお待ちしております。もっとお顔をお見せください」
「あんな学校に叩きこんでおいて、何言ってんだか」

不満そうに鼻を鳴らす瑞樹が少しだけかわいくて、頬の強張りが解ける。
だが、その後の冷たい声に、そんな余裕もなくなる。

「あのような遠方に瑞樹様を行かせてしまったのは、止められなかった周囲の責任です。取りまとめるものとして、心からお詫び申し上げます」

それが、誰を弾劾しているものなのか、わからないはずがない。
申し訳なさと、情けなさ、悔しさ、恥ずかしさ。
ぐちゃぐちゃと織り交ざって、体の中に溜まっていく。

ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。

今すぐに這いつくばって、許しを請いたくなる。
この人の怒りを解くためなら、なんだってしたくなる。

震えそうになる体を、必死で拳を握って押さえる。
情けない姿を見せるな。
怒りをかった上に、軽蔑される。

俺には瑞樹がいる。
俺は瑞樹のもの。
瑞樹にふさわしい人間に、なるんだろう。

こらえろ。
この人の言葉なんて、もうどうでもいいと、思ったじゃないか。
俺はただ、瑞樹の声を聞いていればいい。

「全く、周りの者がふがいないせいで、瑞樹様にはご不便な思いを………」
「もういい。お前ら親子のツラ見てると気分が悪くなる。下がれ」
「それは申し訳ございません。それでは失礼いたします」

去っていく最後まで、その人は俺の方を見なかった。
廊下の端に消えさるのを見ていると、ふいに温かいものが俺の手に触れた。
驚いてそちらを見ると、瑞樹が俺の手を握っていた。

握りしめていた手は、力を入れすぎて白くなっている。
強張った手を瑞樹の綺麗な大きな手が、ゆっくりと広げていく。
指を一つ一つ広げられるたびに、体の力が抜けていく。
広げた手は爪で皮膚を破って、血が滲んでいた。

「ったく、あの馬鹿どもは変わらねえな。大人げねーったら」
「…………」
「気にするな秀一。あんなクソ共の言うことなんて。お前は俺のものだ。俺のものに、誰も手だしさせない」

血の滲んだ手を、両手でぎゅっと握られる。
俺を見あげて真っ直ぐに見つめる目は、ただ強い。
その手は、温かく大きい。
その強さに、言いようのない安心感を覚える。
眼鏡越しの瑞樹は、どこまでも強く、綺麗だ。

不信もなく。
迷いもなく。
ただ俺は、だから頷く。

「はい、瑞樹様」
「よし」

そうして瑞樹は顔を綻ばせた。
満足そうに笑う瑞樹は、花のように清楚で綺麗だ。

抱きしめたい。
抱きしめられたい。

感じてはいけない感情が、身を焦がす。
瑞樹の中に、溶け合ってしまいたい。

愛しい。
苦しい。

瑞樹がいて、俺はようやく、俺になれる。
俺という存在を、維持できる。

「でも、いつでも自由になれるんだからな」

瑞樹は小さい頃のように俺の手をひいて部屋に向かう。
昔は大きかった背中は、いつのまにか俺よりも小さい。
けれど、いつまでも頼もしい背中。

「………私は……」
「お前は俺の大事な弟分なんだから。お前は、いつだって自由になれるんだ」

弟。
前は嬉しかったその言葉が、今はかすかな痛みを伴う。
そんなものは、欲しくない。
欲しくないんだ、瑞樹。

「………うん」

自由なんて、欲しくない。
触れられなくてもいい。
俺のものになんて、ならなくていい。
なってほしいなんて、思わない。

でも、ただ俺をお前の所有物で、いさせて。
この手を、放さないで。





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