その後、鈴木と夕食をとった菊池はだらだらと無意味に時間をつぶしてから帰宅した。 今日は両親ともに遅くなると言っていたので、家には誰もいないはずだった。 年季の入ったマンションの、青っぽい蛍光灯の中を歩きながらポケットにはいった鍵を取り出す。 そして角を曲がり顔を上げた時に、自宅のドアの前にうずくまる人影があることに気付いた。 「おかえりー」 しゃがみこみ、にかっと笑って手をひらひらと振るのは見慣れた姿。 黒い短髪に、男らしい太い眉。 夜が更けてだいぶ涼しくなったとはいえ、いまだ不快指数の高い暑さに汗ばんでいつもはたっている髪がへたれている。 とうとう自分の頭がいかれたのかと思い、菊池は瞬きを2,3回してから、夢でも何でもないと認識する。 「………何してんだ、お前」 「いや、今日のセッティングしてくれたのお前だし。一応ご報告に」 眉をさげ、どこか照れくさそうににへらと笑った橋本に、菊池は一瞬ど突き倒そうかと思った。 しかしなけなしのプライドで握った拳を収め、ひとつ深呼吸をした。 そしていつも通りの軽口を叩いてみせる。 「早すぎねーか。なんだよ、3分持たなかったのか?」 「俺はどんだけフライング野郎なんだよ!!俺は長く強くでかい男だ!」 「その割りにはいつもはえーじゃねーか」 「お前だってはえーだろ!」 「お前よりは持つ!」 「嘘付け!俺のほうが持久力はある!」 「ほざけ、お前なんてカップラーメンよりもお手軽じゃねえか!」 「俺の……」 橋本が更に反論を重ねようとしたその時、ガラリと隣の家の廊下に面した窓が開く。 中年の女性の、物言いたげな不審さを隠そうともしない視線が2人に注がれる。 『…………』 橋本と菊池は同時にそちらを見て、黙り込む。 冷たい視線を注いだ住人は、静かに窓を閉めた。 「とりあえず近所迷惑だから入れ」 「……はい」 浮き立つ心を押さえつけ、できるだけ平常心を演じつつ、駅から少しだけ離れた落ち着いた喫茶店で橋本は目当ての人を待っていた。 緊張からか喉はカラカラに渇き、頼んだコーラはすでに飲み干してしまった。 水のお代わりの3杯目が注がれてしばらくした頃、甘やかで物静かな声が降りかかった。 「橋本君?」 一瞬自分に話しかけられたと気付かずに、声を失ってしまう。 無言でそちらを向くと、20代後半とおぼしき綺麗な女性が立っていた。 会社帰りなのかシックなグレイのスーツを着こなし、緩やかに巻いた栗色の髪が柔らかそうだった。 メイクもけばけばしくない、落ち着いた色合いで纏められている。 菊池から聞いていた『初物好きの怖いお姉さん』から想像していた派手なイメージとは違った清楚ないでたち。 思わず見とれた橋本に、女性は少し焦ったように小首を傾げる。 その仕草はどことなく可愛らしくて、近寄りがたい年上の女性が一気に身近に思えた。 「橋本君?あれ、違ったかな?」 「あ、いえ!俺橋本!橋本です!俺が橋本です!」 思わず立ち上がって頭をテーブルにぶつけんばかりに頭を下げる橋本に、女性は一瞬呆気にとられ、その後くすくすと笑った。 「ふふ、よかった。あ、座って座って、ごめんね、待った?」 「いえ!全然!これっぽっちも!」 「よかった」 ほっとしたように胸を押さえて息をつくおどけた仕草に、橋本は心臓が打ち抜かれる。 物静かで清楚な大人で、けれどどこか茶目っ気を持つ女性は、橋本を怖気づかすこともなく、自然と緊張を溶かしてくれる。 かわいーかわいーかわいー綺麗-胸でけーほせーナイスバディー!! 心の中でひたすらボキャブラリーの貧困さが表れた賛美を繰り返す。 「今日も暑いね、喉渇いちゃった。とりあえず私もなんか飲もうかな」 「あ、は、はい。あ、えーと、これメニューです」 「ありがとう」 メニューを渡す時に触れ合った指先に、橋本の心臓と下半身は熱く燃え上がった。 「…………」 「いやあ、本当に圭子さん、綺麗だったー…。お前が年上好みなの、前は理解できなくてぼろくそ言ったけど、あれ取り消す。土下座して謝る。年上最高。お姉さん万歳」 菊池の部屋のいつもの定位置で座り込んだ2人。 うっとりとしたように思いを馳せる橋本に、菊池は必死に殴りたくなる気持ちを押さえつけた。 予想通りの橋本の反応に、深いため息をついた。 「見事に騙されてやがる…」 こうなることは、分かってはいた。 圭子とは菊池の前の前の彼女経由で知り合った。 決して遊んでるとは思えない、どちらかというと大人しそうで控えめな印象。 警戒させない話術は巧みで、人好きのする笑顔で心を開かせる。 名の知れた企業とはいえ、一般職OLで、家もごく普通の中流家庭。 だと言うのになぜかお金に困ることがない生活。 外資系企業に勤める本命の彼氏がいるらしいが、その金の出所は恐ろしくて聞けない。 「お前なんか一滴残らず搾り取られちまえ」 本当は紹介もしたくなかった。 紹介するにしても、別の人間を選びたかった。 しかし、童貞の友人を食ってくれ、という依頼に快諾しそうなのが彼女しか思い浮かばなかったのだ。 年下の男を食うのも好きだし、面白いことが何より好きだ。 なんでも面白がる性格と、底の知れない背景から、正直菊池は彼女が苦手だった。 そういえばその見かけと違った悪ふざけ好きな一面は、鈴木を思い出させる。 「で、どうだったんだよ」 別にそこまで聞きたくない。 というか全然聞きたくないが、話の流れ的についふってしまった。 顔を赤らめてにかっと笑う橋本に、菊池はやっぱり聞くんじゃなかったと深く後悔した。 その後、喫茶店を後にした2人は、小さなイタリアンの店で食事をした。 喫茶店と同じように落ち着いた雰囲気の店で、ワインを傾ける圭子は様になっていた。 普段近寄るようなことのない場所に、橋本は固くなる。 メニューも何もかも、圭子に決めてもらった。 緊張して訳のわからないことを口走る橋本に、圭子はそれでも楽しそうに笑ってくれる。 その様子にますます浮かれ、けれど徐々に緊張もほぐれて親しげな 「はい、中学の頃はバスケ部だったんですよ。弱小だったけど。」 「あー、橋本君手大きいしね。バスケボールとかも軽々だったでしょう」 そう言って、するりと橋本の手に白い手が触れる。 小さな花の形をしたビーズがついた爪は小さくて、綺麗で。 くすぐるように手のひらをなぞる細指に、手が汗ばんだ。 「いいなー、なんか懐かしい。中学とかもう遠くなっちゃったなー」 「え、圭子さんならついこの間でしょう!」 「やだ、うまいなー。あんまりお世辞が過ぎるとかえって嫌味よ」 「え!いや、そんなつもりじゃなくて本気です!!真剣に!心から」 「お世辞でも嬉しいなー」 「いや、お世辞じゃないです!俺はお世辞は言えない男です!」 くすくすと無邪気な、けれど大人の余裕を思わせる微笑に橋本の心臓が跳ね上がる。 手が離れると同時に、かすかに爪を立てられて体に熱が篭もる。 「んじゃ、そろそろいこうか」 小首を傾げて見上げるその目には、確かに誘う色が含まれていた。 年上の女性の意味ありげな視線に、橋本のテンションは頂点に達しようとしていた。 お父さん、お母さん、俺は今日大人になります! さらば少年の日々!こんにちは大人の階段! ちょっぴり怖いけど、誰でも一度だけ経験すること! 「………で?」 菊池はベッドにもたれかかり再度ため息をついた。 どうでもいいとは思うが、ここまで聞いたら最後まで聞かないのも収まりが悪い。 イライラとする気持ちをなだめるように、引き出しに隠してある煙草を取り出し一本咥える。 イライラすると同時に、じくじくと胸が疼く。 このまま、橋本が女に走ったら、どうなるのか。 関係は対して変わらないと思う。 明るく楽しい友情は続くかもしれない。 今までのことは、若気の至り、気の迷い、青春の苦い思い出としてなかったことになるだろう。 しばらく前まではそれを望んでいた。 そうなるほうが、むしろ望ましい。 しかしなんだか色々と感情がせめぎあって、苛立ちが収まらない。 しかし、橋本はそこで、笑顔をなくした。 少しだけ真剣な顔になる。 胡坐をかいて、視線を彷徨わせて、唇を舐める。 何かを躊躇っているような仕草。 「あー、そこでさ」 「うん」 再度唇を舐めると、一旦俯き、そして顔をあげた。 そこにはちょっと照れたような笑顔が浮かんでいる。 「鈴木からメールが来たんだわ」 |