「ちょっと化粧直ししてくるね」

そう言って圭子が席を外す。
もう限りなくギリギリで切羽詰っている橋本にはこの間すらもどかしい。
化粧なんて直さなくていい!
とりあえず早く!
そわそわと落ち着かず冷房が効いているはずなのにじっとりと汗をかいている。
そこにポケットに入れたままだったケータイが高らかに歌いだした。
マナーモードにしていなかったため、回りの視線が突き刺さり慌てて取り出し音を切った。
メールの送信元は鈴木。
橋本は軽く頭をひねる。
しないこともないが、鈴木とはほとんどメールはしない。
するとしても用件のあるときだけだったりする。

『はーい、皮かむり!かわいいち○こはお元気かしら?そろそろ洞窟を抜けて未知の花園へ突入?にしても花園ってエロイ単語だよな。なんか中学の頃とか花園とか恥骨とか見るだけで勃○したことねえ?年上女に童貞食われるとか夢だよなー。エロビデみてー。俺もやりたーい』

絵文字が入り乱れる頭の痛くなるような文章に、橋本はその場でケータイを閉じようかと思った。
けれどいまだ圭子は戻らず、黙って待っていても緊張が高まるだけだと気付き、再度その頭の悪そうなメールに目を戻す。

『そういえば今日菊池君とあったんだけど、菊池君荒れちゃって大変だったわよー。おホモダチの橋本君が童貞捨てようっていうんだもの。そりゃテンパるわよね。ジェラシーストームで俺焼き尽くされそうだったよ。これで橋本君と菊池君はおホモダチな上に穴兄弟!深まる絆!爛れた関係!いやー、最近の若者の性は乱れまくってるね。日本の将来を憂うね。朝まで生討論だよ。あ、お前はこれから朝まで生えっちかー。でも生はダメよ生は。性病予防はきっちりと。それに女の安全日なんてあてにならないから気をつけろよ。でもって、挿入前からコン○ームはつけろよ。いいな、先走りにも精子入ってんだからな。ていうかコ○ドームでも避妊成功率は90%ぐらいだぞ。残り10%引き当てんなよ。大当たりー!もれなく景品として男の責任と修羅場がついてきますー!』

こいつは親父か。
痛む頭を抱えながら、いつもはほぼ用件しか書かない鈴木の長文メールに突っ込みをいれつづける。
そしてそこで一つひっかっかった。

穴兄弟。
今の今まで気付かなかったが、その可能性は十分にある。
菊池は元カノの知り合いだといっていたが、年下男好きな女性だったらヤッていてもおかしくないのではないだろうか。
いや、ていうか絶対やってるだろ。
そうすると俺と菊池は兄弟なわけで。
うわ、比べられたりしたらかなり嫌だ。
激しく嫌だ。
しかもその後それを菊池に話されたりしたら立ち直れない。
というか、そもそも、菊池が圭子さんとやっているのが嫌だ。
橋本は、先ほどの食べたパスタの油が胸に残るようなムカムカとした不快感を感じる。
橋本の動揺など、当然のことながら気にもせず、鈴木のメールは続いていた。

『まあ、それはともかくとして、こんな長文を最後まで読んでくれた橋本君に一つ質問ね。もう遅いかもしれないけど。すでに清いチェリーなあなたはいなくなってるかもしれないけど』

そこでメールは2行改行されていた。
目立つように、文章から引き離された一文。

『お前は一体、誰とヤりたいの?』

そこで再び改行されて、更にその後数行続いていた。

『童貞捨てる機会は生涯に一度だけよー。処女ほど大事じゃないけど、まあ大事にしとけよ。お前の兄弟が泣いちゃうぞ。それじゃ、まあヤルにせよヤらないにせよ、ヤッちまったにせよ、後悔はしないようにね。お前のち○この健闘を祈る』

いきなり投げかけられた疑問に、橋本は再び混乱することになる。

誰とヤりたいか?

そんなのは、考えたことがない。
というか誰でもいいから、ヤりたい。
とにかく童貞を捨てたい。

『好きでもないのにそこまでショック受けないでよ!』
『なんとも思ってない女にコクられてOKしようとか思わないの!』

ふいに、仲本の声が橋本の脳裏に蘇る。
明るくてサバサバしてて話しかけやすくて、でも弱くてかわいかったクラスメイト。
告白されるかと思ってぬか喜びした橋本を、たしなめるように言った。

その時、確かに橋本は反省した。

橋本はあの時、反省したのだ。
女の子を「女」という記号でしか見ていなくて、性の対象物として扱っていたことを反省した。
ちゃんと向き合って、好きになって、付き合って。
えっちというのはそれからやるものなんだって、改めてそう心から思ったのだ。

それでは今はどうなんだろう。
童貞をとにかく捨てたい。
それは確かだ。
けれど、それは誰でもいいのか。
ヤれれば誰でもいいのだろうか。
数ヶ月前の橋本だったら、誰でもいいと言い切ったかもしれない。
というかさっきまで思っていた。
けれど。
柔らかな茶髪が瞼の裏に蘇る。
一緒にいたくて、触りたくて、楽しくて、熱くて、とにかくヤりたい。
そう思ったのは、誰だったのか。

そう、あの放課後の教室で、一緒にいたいと思ったのは誰だったのか。
えっちするのは誰でもいいのか。
童貞を捨てるのはなんのためなのか。
なんで童貞を捨てたいのか。

自分が一体、誰とやりたいのか。

いやでも据え膳食わぬは武士の恥とかいうことわざがあった。
こんなおいしい状況を投げ出すほど、俺は恵まれているのか。
そもそも、なんでこんな状況になっているのか。

菊池が童貞にヤられるのが嫌だっていうから、童貞を捨てることにした。
童貞を捨てないと菊池とヤれないから、捨てるわけで。
そもそも大前提に菊池とヤるということがあるのか。

圭子は美人だ。
清楚で細くて年上だけれど橋本の好みにストライクだ。
このまま突き進んでもきっと幸せだろう。
今もすでにギリギリで、こんなこと考えないでいいから突っ走れという声がどこからか聞こえる。

でも、ここでえっちしちゃうのは、どうなのか。
菊池と穴兄弟になる。
菊池が誰かとヤッてるところを想像するのは腹が立つ。
ムカムカとして、ちくちくとする。

俺は、誰とヤりたいのか。

『そういえば今日菊池君とあったんだけど、菊池君荒れちゃって大変だったわよー。おホモダチの橋本君が童貞捨てようっていうんだもの。そりゃテンパるわよね。ジェラシーストームで俺焼き尽くされそうだったよ』

ぐるぐると頭の中をかけめぐる疑問に、橋本の処理効率の悪い頭がオーバーヒートしそうだった。
先ほどまでの緊張とは別の意味で、頭が熱くなり、手が汗ばんでくる。
何に対してか分からないが、何かに対して焦っていた。

「お待たせ、橋本君」

甘やかな耳に心地いい大人の女性の声。
驚いて、思わず間抜けな声を上げてしまう。

「どうしたの?」

薄く塗ったグロスが光って、艶かしい。
あの大きな胸に触ったらきっと気持ちがいい。
橋本の知っている堅い体とは違う、いい匂いのする柔らかい体。

「あ、あの!」



***




「てことで」
「………」

そこで一旦切って、橋本はフローリングに正座して座りなおす。
背筋を伸ばして、真っ直ぐに菊池に視線を合わせる。

「できませんでした」
「……はあ!?」

珍しく苦悩に満ちた表情と声で、橋本は目を伏せる。
菊池は思いもよらない展開に、目を丸くしてそんな橋本を見つめる。

「圭子さん、ホント超綺麗だし、ナイスバディだし、足首しまってるし、ウエスト細いのに乳でかいし」
「………」
「もうマジお願いします、俺を男にしてください!」
「…………」

そこで深くため息をついて、肩をすくめる。
その顔にはどこか諦めに似たものが浮かんでいた。

「て、感じだったんだけど」
「だけど?」

菊池は、特に何かを考えることもせず、ただ鸚鵡返しに促す。
正直、菊池の頭も飽和状態で、橋本の言っていることを深く突き詰めることができない。

「気付いちゃった」
「何を」
「だから……その…」
「聞こえねーよ」

急にボソボソと声を潜めてそっぽをむく橋本。
菊池はただ、それをそのまま返す。

「俺が……は、お……だから」
「だから聞こえないって」
「だから!」

勢いよく立ち上がって、仁王立ちで座ったままの菊池に指を突きつける。

「男役だろうが、女役だろうが俺がやりたいのは菊池なんだよ!」

指を突きつけられたまま、菊池は言葉を失う。
そのまま10秒ほどの沈黙が落ちた。
静まり返って、気まずい無音の状態が続く。

「…………」
「なんだよ」

黙り込んでしまった菊池に、橋本は気まずそうに目を逸らす。
正直ちょっとだけ怖かった。
そもそも女を紹介したのは菊池で、もしかしたら橋本なんてどうでもいいと思ってるのではないかと、そんなことが頭を掠めたりもした。
それにゆえに、沈黙が痛い。

「いや………」
「言いたいことがあるなら言え」

座り込んだままの菊池が、立てた膝の上に頭を埋める。
表情が見えないようになって、橋本の不安は徐々に増す。

「なんつーかお前」
「ああ」
「馬鹿だよなー」

顔を伏せたまま返されたいきなりの暴言に、不安が怒りに変わった。
橋本はつかつかと菊池に近寄って、すぐ目の前に立つ。

「おい、こら!人が潔くカミングアウトしてんのにケンカ売ってんのか!?買うぞこの野郎!」
「馬鹿で単純なくせに。たまに思い切り嫌なところに入ってくるよなー。つーか馬鹿で単純だからか」
「とりあえず殴っていいか!?歯を食いしばれ!」
「なんか今のお前超男前」
「は?」

更に予想外の言葉が出てきた、振りかぶった拳を空中で止める橋本。
菊池はようやく顔を上げて、普段見ない弱弱しくはにかんだ笑顔を見せた。

「俺、もう今お前になら抱かれてもいいとか思っちゃったよ」
「…………え?」
「俺もさ」
「………」

聞いたこともないような細々とした声。
見たこともないような頼りない笑顔。
橋本は訳もわからず、菊池を抱きしめたい衝動に駆られる。

「どっちでもいいから、ヤりたいのは、お前だわ」
「……………」
「もう、本当に、難しく考えてもしょうがねーや。お前がいい。お前とヤりたい」

じわじわと菊池の言葉の意味が頭にしみこんできて、それと同時に徐々に橋本の顔が赤くなっていく。
今までにない直球の言葉に、心臓が激しく波打ち、頭の芯まで熱くなってくる。

「あー、簡単なことだよな、何度も言ってるけど、若さに任せて突っ走ればよかった」
「菊池……」
「……ん」

屈みこんで、しゃがみこんでいる菊池にキスをする橋本。
菊池も抵抗なく、背中に手を回してそれを受け止めた。
軽く重なるだけ、離れるキスを何回か繰りかえす。
ちゅ、と可愛らしい音をたてて、離れていくと、見上げる菊池の目尻が赤らんでいて、橋本のあらぬところが疼いた。
はやる心臓を抑え付け、最大限真面目に菊池を見つめた。

「えーと、で、ヤッちまってもいいんでしょうか」
「いや、お前も女役でもいいって言ったじゃねえか」
「はあ!?お前俺に抱かれてもいいって言ったじゃん!」
「言ったけど、不公平だろ」

今更往生際の悪いことを言い出す菊池に、その襟首を掴んで揺さぶる橋本。
菊池も負けずに橋本の襟首を掴みかかる。

「お前散々女とやりまくったんだろー!!圭子さんともやったんだろ!」
「圭子さんとは一回だけだろ!今更そんなこと蒸し返すな!」
「やっぱりヤッたんだー!!菊池のバカー!!」
「え、聞いてなかったのか、うわ、違、あ、いや」
「……過去のことだ、別に俺は気にしない。ただ俺にヤらせろ」
「それとこれとは話が別だ!」

そのままけたたましくまた隣の住人に文句をつけられそうなほど騒ぎ、どれくらいたっただろう。
肩で息をして、いい加減疲れた2人は妥協案にこぎつけた。
古来から決着の付かない際に用いられる究極の判断方法。
あらゆる束縛から解き放たれた、極めて公平な勝負。

「じゃんけんだ!」
「よし、こい!俺は負けない!」
「俺はこの勝負に全てをかける!」

2人とも立ち上がり、燃える闘志をみなぎらせ、その拳に何もかもを託す。
にらみ合い、男の拳は熱く震える。

『最初はぐー!じゃんけん、ぽん!』

あいこ。

「やるじゃねえか、橋本…」
「お前こそな……」
「さすがだぜ、いい勝負になりそうだ…」
「泣いても叫んでもこれが最後だ」

2人は再び拳を振り上げる。

『あいこでしょ!』

出した互いの手を見て、沈黙が落ちる。
橋本が飛び上がって喜びの声をあげる。

「俺爆弾!俺の勝ち!」
「ふざけんな、死ねこのやろう!」
「でっ!真剣に蹴るなよ、菊池!」
「ふざけんな、もっかいいくぞ!」
「ちっ」
「せーの、最初から!」
「最初はぐー!って、は!?」

菊池パー。
橋本グー。

「てめえこそふざけんなー!!!」
「てめえが先にやったんだろうが!」

長い戦いの末、ズルなし真剣一本勝負ということで、2人は意見の一致をみる。
いい加減2人とも疲れ果てていた。

『最初はぐー!じゃんけんぽん』

一瞬の沈黙。

「っぎゃああああ!!!」
「うおっしゃあああああ!!!!」

今度こそ本気で苦情が来そうなほどの大音量で、勝者と敗者それぞれの叫びが響き渡った。






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