「う、わああああああああ!!!!!!」 野太い男の叫び声が人気のない体育館倉庫裏に響き渡った。 思わず目を開く義也。 先ほどまであった小柄な山本(仮名)の姿が見えなくなっている。 忽然と、消えてしまった。 そうとしか言えない。 入り口には、いまだ下着姿のままの桜。 そして桜は相変わらず穏やかににっこりと微笑んだ。 「だからあなたは詰めが甘いのだと、以前から言っていたでしょう。それさえなければ素晴らしい才能の持ち主なのに」 そう言いながら、地面に落ちてた制服を取り上げ、シャツを羽織る。 正直目のやり場に困っていた義也は、ひとまずほっと息を吐く。 そして何が起こったのか探ろうと、辺りを見回す。 「こ、これは桜ちゃん!?」 その声は、山本(仮名)だった。 やはり入り口の方から聞こえてきたので、声の出所を探って義也は首を持ち上げる。 すると、桜の足元、体育館倉庫の入り口のすぐ外に、何か小さな影が見えた。 「貴方が義也さんにかまけている間に、準備させていただきました」 「そ、そんな時間はなかったはずだ。俺は辺りに気を使っていたし」 「貴方の潜伏能力は大したものですが、今のレギュラーストーカーの方々も中々やるんですよ」 「な、なんだと!」 「貴方が犯人であるようだと突き止めて、貴方が行動を起こしそうなところに罠を仕掛けさせていただきました。後は本番用に一仕掛けするだけでいいようなのを。いくつか用意していたのですが、無駄にならなくてよかった」 「だ、騙したな、この女狐!!」 どうやら、桜の足元に山本(仮名)がいるらしい。 状況から察するに、桜の仕掛けた落とし穴か何かに山本(仮名)ははまって首だけ出ている状態のようだ。 悔しそうにギリギリと歯軋りする音が義也の耳にも響く。 「あら、ひどいですね。私嘘は言ってません。『私は』貴方に何もしていませんから」 「僕はこんなに君を君を愛してるのに、どうしてこんなひどいことを!」 「貴方には結構世話になったし、私だけならよかったんですが、義也さんに手を出してしまったのは、残念ながらアウトです」 「どうして、どうしてだ桜ちゃん!」 「臭い飯食うなり、病院に行くなり、その視野の狭さを矯正してきてください。ただし次に周りの人に危害を加える場合にはそれなりの覚悟を完了しておいてくださいね」 それは、笑顔だった。 いつもの通りの桜の笑顔だった。 けれど声は硬質で、目は笑っていなかった。 取り付く隙もないぐらいの、すべてを切り捨てた声だった。 山本(仮名)も、そしてまた義也も黙り込んだ。 「さて、とりあえずお迎えが来るまで埋めておきましょうか」 すっかり制服を着なおした桜がそうつぶやくと、どこからともなく4人ほどの人間が姿を現した。 服装も年齢も全くばらばらな共通点のない男が4人。 その手にはスコップやらロープやらを持っている。 「後をよろしくお願いいたします。山田さん(仮名)」 「…………」 その男たちに桜は丁寧に頭を下げると、山田(仮名)は相変わらず陰気な暗い表情のままこっくりと頷いた。 どうして、とかこいつらは誰だとか今更なことを義也に問う気はなかったが、真剣にこの学校の警備体制が心配でならなかった。 山田(仮名)の態度に満足したように頷くと、桜はそのまま体育館倉庫の中に足を踏み入れた。 入る前に、山本(仮名)の頭を踏んづけたように見えたが、気のせいだろうか。 桜は気にすることもなく芋虫のように転がっている義也の傍に近寄るって、しゃがみこむ。 いつの間に手に入れたのか、山本(仮名)のナイフで義也の腕に巻かれたガムテープを切り捨てた。 「すいません、遅くなってしまいました」 「お、おい…」 「大丈夫ですか?」 話しながらも、桜は手際よく今度は足に巻かれたガムテープを切る。 それでようやく義也は体を起こすことができた。 長い間無理な体勢にあった手足はジンジンとしびれている。 立ち上がることはできず、マットの上に座り込む。 血の巡りを取り戻すように、腕と足をぶらぶらと揺らした。 そんな義也を、桜は気遣わしげに覗きこんでいる。 義也は視線を逸らして、少し俯いて、桜に問いかけた。 「その、お前こそ、大丈夫か…?」 危ない男に向き合って、半裸になって、ナイフを突きつけられたのだ。 いくら準備してあったとは言え、いくら桜だとは言え、ダメージが無いはずがない。 女性にとって、それがとても屈辱的で傷つくことだというのは、想像が付く。 「本当に…あなたって人は…」 返ってきたのは聞いたこともない、苦しげな声だった。 義也は思わず伏せていた顔を上げる。 桜は見たこともないような顔をしていた。 怒っているような悔しいような、それでいて、嬉しいような。 複雑な、顔。 けれどその表情は一瞬で、桜は苦笑の形に変えた。 そしてマットの隅に座り込むと丁寧に頭を下げる。 「本当に申し訳ありませんでした。こんなことに巻き込んで。こんなに早くあの人が行動に移すとは思わなくて、対処が遅れました」 「……………」 「守るって言ったのに、結局守りきれませんでした」 「お前、こんなこといつもやってるのか…?」 「まあ、時たま。これぐらいはまだいい方ですけど。臓器を売れってその筋の方に…」 「いや、その先はいい」 相変わらずさらっとヘビーなことを言ってのける桜。 義也はその言葉に黙り込んでしまった。 なんだかもやもやとした気持ちが、治まらない。 「…………」 「本当に大丈夫ですか?」 黙り込んでしまった義也を気遣うように桜が義也の顔を覗き込む。 なんと言ったらいいか分からなかった。 自分の感情に、整理が付かなかった。 もやもやとして、すっきりしない。 「まあ、怪我はない…」 「いえ、そっちじゃなくてファーストキスの方」 「思い出させるな!!!」 人があえて忘れようとしていた出来事を平気で蒸し返す性格の悪い少女。 義也は思わずいつものノリで頭をはたいてしまった。 そんな風に、義也に少し調子が戻ったのに安心したのか桜は笑った。 「義也さんには迷惑はかけないようにするつもりだったんですが、やっぱり無理みたいですね」 穏やかに笑ったまま、再度桜は頭を下げた。 そして決意を灯した静かな目で義也をまっすぐに見据える。 「すいません、早急に出て行きます」 「おい」 「義也さんがこんなにいい人じゃなければ、もっと図々しくつけこんだんですけど」 「おい…ちょっと」 「義也さん、本当にいい人なんですもの。これじゃ利用したら私悪者じゃないですか」 「おい、人の話を…」 「これまで、お世話になりまし…」 「おい!人の話聞けっていってんだろ、桜!!」 「…はい?」 まくし立てるように話す桜に、声をあげて止める義也。 大した少女は呆けた声を上げた。 義也はもやもやを吐き出すように、目を逸らしたまま続けた。 桜は性悪で、極悪で、えげつなくて、腹黒で、図々しく、ばばっちい。 そして、強かでたくましく前向きで、何より力強く生きている。 桜は、決して人を傷つけることだけはしない。 打算的で狡猾で、たまに悪ふざけもすぎるが、本当の意味で人を傷つけるようなことはしない。 それだけは、知っている。 「俺は男で、お前なんかに守られる必要ないんだよ!!」 「でも、義也さん隙だらけだから…」 「やかましい!」 これまたいつもように失礼な発言をする桜に、義也の裏拳が冴え渡る。 痛い、と言いながら頭をさする桜。 義也は苛立ってもう一発殴ると、まるで怒鳴りつけるように声をあげる。 「お前なんて外に出たら人にたかって犯罪スレスレのことに手を出すだけじゃねーか!」 「スレスレというかまあ、少しはギリギリアウトというか」 「そんなカミングアウトは必要ない!だから、そんな奴、放置しておけるか!」 「え?」 珍しく、本当に珍しく桜は口と目を丸くする。 いつだって穏やかで落ち着いている少女の、演技でもなんでもない、驚いた顔だった。 義也の言うことが理解できないように、首を傾げる。 相変わらず目を逸らしたまま、義也はその先の言葉を続ける。 「だから、野放しにしたら世間の迷惑だから、家に居候してていっていってんだよ!」 「………」 「…なんだよ」 「ぷ」 徐々に、義也の顔を見ながら桜は顔をゆがめていく。 一瞬だけ堪える様に口を閉ざすが、我慢できなくなったように吹き出してしまう。 「ぷ、ふふふふ、あははははははは」 「な、なんだよ」 「あはは、だって!」 「笑うな!」 義也の不機嫌そうな制止の声も、桜を止めることは出来なかった。 体を折り曲げお腹を抱えて、声を上げて笑い続ける。 そう言えば、こんな風に声をあげて笑うのを見るのも初めてだったかもしれない。 しばらく笑っていて、桜は目尻の涙を拭いながら義也に微笑みかける。 「義也さん、本当によくこれまで騙されないで生きてこれましたねえ。絶滅危惧種並みの善良さです。おじ様の教育の賜物でしょうか」 「やかましい!」 そんな憎まれ口を叩く桜の頭に、義也は一発食らわせる。 頭を抑えてごめんなさい、とつぶやいて桜は改めて義也に向き直す。 一瞬だけ躊躇うように目を伏せたが、義也をまっすぐに見つめる。 「………それじゃあ、もう少しだけお邪魔していても、いいでしょうか?」 「…しょうがないから、許してやる!」 「ありがとうございます」 相変わらず体育倉庫に座り込んだまま、義也は横柄に頷いた。 桜は心底嬉しそうに、にっこりと笑って頭を下げる。 決まりが悪くて、義也はまだ少ししびれる手足を押さえつけ立ち上がる。 埃にまみれた制服を軽くはたくと、まだ座り込んでいる少女に声をかける。 「……じゃあ、行くぞ、桜」 「そういえば、名前呼んでくれていますね」 「…………」 「あ、義也さん頬に埃が」 同じように立ち上がった桜が、長身の義也の顔に伸び上がるように手を伸ばす。 つられて、義也は少しだけ身を屈めた。 そして桜の顔が近づいたと思うと、柔らかなものが唇を掠めた。 「…………」 一瞬何をされたか分からなかった。 ふわりといい匂いがしたと思ったら、すぐに離れていった。 けれど、自分が何をされたか思い当たり、一気に顔に血が集まってくる。 慌てて1歩桜から遠ざかった。 「なっ!何しやがる!!」 「さすがにあれがファーストキスっていうのはお気の毒かと思って」 「だ、だからって!」 「まあ、口直しです。さすがにあれよりはいいでしょう?」 口を押さえて真っ赤になる義也を尻目に、桜はにこにこと笑っている。 悪びれた様子もなく、自分の唇を押さえてみせる。 それが見てられなくて、義也は逸る心臓を押さえつけるように胸元を掴んで目を逸らした。 「い、いいわけあるか!」 「え、義也さん、山本さん(仮名)の方がよかったですか!?中々アバンギャルドな趣味をされてますね!」 「そんなわけあるかー!!!」 「じゃあいいじゃないですか」 義也は深く深く脱力し、その場に崩れ落ちそうになる。 そういう問題じゃないとか、キスは好きな人とだけするものだから、とか常識的なことを言っても恐らく無駄だろうと、経験上知っていた。 そんな義也を気にすることなく、歩き始めていた桜は思い出したように義也を振り返った。 「あ、そういえば、私もファーストキスですから」 「は!?嘘だろ!」 「まあ、ひどいですね」 思わず本心から全力でつっこむ義也に、桜は頬を膨らませて拗ねて見せる。 よく考えればひどい発言かもしれないが、今のキスにも動じていない桜に経験がないとは思えなかった。 けれど桜は誇らしげに胸を張って、微笑む。 「腐っても吉田桜、心と笑顔は売っても体は売りません」 「…それ、逆じゃねえのか?」 思わず首を傾げる義也に、桜は子供に教え諭すように優しく返す。 「まだまだ学生の間は体に価値はあるんですから、一番の売り時まで大事にとっておきます」 「だからそれをやめろー!!!!」 そしてまた、義也の拳が桜に頭に決まった。 そして、彼らの賑やかな生活は、まだまだ続く。 少しだけ、互いの距離が縮まったことを感じながら。 |