「ひどい」 玄関先に出てきた男は、赤い顔をしていきなりそんなことを言った。 よれよれになったジャージに、ぼさぼさの髪。 いつもの姿は見る影もない。 人の顔を見るなりひどいとか、お前の方がひどいだろ。 「何が」 「浴衣じゃない」 「………何言ってんの?」 「雪下が、浴衣の三田がお見舞いの品ってメールくれたから楽しみにしてたのに」 「アホか」 ていうか美香がアホだ。 いつのまにそんなメールしてたんだ。 まあ、だからこそこんなに早く玄関先に出てきたんだろうけど。 「ひどい」 「言ってる場合か!」 壁にもたれて立っている男は、かなり辛そうな顔をしている。 それなのに言ってることはいつも通り馬鹿だ。 さっさと寝かせないと、今にも倒れそうなほどふらふらしているのに。 「大丈夫なの?顔色悪い」 「割と死にそう」 「だったらさっさとベッドに戻れ!」 馬鹿なことを言っている男を引きずりこんで、私もマンションに入り込む。 少し古めのマンションの玄関先にはわずかな靴しかない。 ぱっと見3LDKぐらいありそうな広い室内に、人の気配はない。 「あれ?」 「何」 「三田も入るの?」 「私がなんのために来てると思ってんだよ」 「何のため?」 「お見舞いだよ!」 大人しくひっぱられるまま付いてきてはいるが、なんだか口調がいつもよりふわふわしている。 大丈夫か、こいつ。 実は本当に具合悪いんじゃないか。 「ベッドどこ?」 「こっち。一緒に寝てくれるの?」 「死ね」 「ひどい」 自分で何言ってるのか分かってんのかな。 いつも通りの馬鹿な発言だが、更に馬鹿になっている気がする。 「そんなふらふらなのに、どうしてお前そんなアホなんだよ」 「俺、なんか変なこと言った?」 本当に不思議そうに首を傾げる。 真剣にやばそうだ。 ささっとベッドに押し込もう。 リビングを通った奥にある洋室が野口の部屋らしく、電気が煌々と付いていた。 中はシンプルな木目調の家具を中心に、落ち着いた色のインテリア。 カーテンの色だけが落ち着いた赤で目についたが、その部屋にはなぜかしっくりと似合っていた。 物は少なく、私の部屋よりずっと綺麗。 野口らしい、どこか気どった部屋。 しかしじっくり観察する暇もなく、私はベージュのベッドに野口を押しこむ。 されるがままに、野口はふらふらとベッドに横たわった。 眼鏡を取り上げるついでに、野口の額に手を当てると、かなり熱い。 「何度あったの?」 「測ってないから分からない」 「体温計は」 「どこだろう」 「………薬は飲んだ?」 「飲んでない」 「アホか!」 何してたんだ、こいつは。 これじゃ治るものも治らない。 しかもこの部屋クーラー効きすぎだし。 こいつは風邪の対処を、知っているのだろうか。 「薬は買ってきた。最後に食べたのいつ?」 リモコンを探し出して、クーラーを切る。 窓を開けるとやっぱりむわっとして暑いが、6階の部屋には夜の涼しい風も入ってくる。 とにかく薬を飲ませて、寝させよう。 食後用の薬だから、あんまり時間が空いてる時に飲んだら胃が荒れてしまう。 野口はどこかぼーっとした様子で考え込んでいる。 「………なんでそんな考え込んでるんだよ」 「………昨日、の夜?」 「この馬鹿!」 「ひどい」 しかも疑問形。 丸一日何も食べてないってことじゃないか。 こいつ、本当に放っておいたら野たれ死にそうだ。 こっちが頭痛くなってきた。 ため息交じりに、美香と藤原君と一緒にドラッグストアで買ってきた品を漁る。 「プリンとかポカリとかアイスとか買ってきたけど、どれか食べれそう?」 「おかゆ食べたい」 「ねーよ」 「食べたい」 本当に大丈夫か、こいつ。 駄々をこねる子供みたいになってるぞ。 まあ、でも病気の時は、なんか喉に通るものが決まってたりするよね。 私もなぜかパイナップルの缶詰が食べたくなるし。 仕方ない。 「………分かった。コンビニで買ってくる」 「作って」 「おい」 「あんたの作ったの、食べたい」 思わず殴りそうになる。 落ち着け、私。 これは病人。 ただの病人なんだ。 「………材料は?」 「あるかな?」 「おい!」 「冷蔵庫付近になかったら、ないと思う」 「………鍋は?」 「確かあった」 最初はちょっと料理することも考えたのだが、一人暮らしなら調理器具があるかどうか謎で、やめたのだ。 だから手軽に食べれるものにしたのに。 なんだこの我儘放題の男は。 「………分かった。見てくるからそれまで寝てて」 「はーい」 「ちゃんと寝ててよ」 「うん」 言い置いて、キッチンに向かう。 手さぐりで電気を探して、対面式カウンターの中に入り込む。 人の家のキッチンは、どこに何があるか分かりづらい。 アイスやプリンを冷蔵庫に放り込みながら、中身をチェック。 「見事に何もないし。あいつ何食って生きてるんだよ。だからあんなに細いんだろ」 冷蔵庫の中にはミネラルウォーター、牛乳、コーラ、ビール。 飲み物しかないし。 これでどうおかゆを作れと。 同じように流しの下とか上とかを探って鍋と調味料をチェック。 鍋はかろうじてある。 調味料、いつのか分からないぐらいに古ぼけている。 あいつ、どうやって生活してるんだ。 「はあ」 思わずため息が出てしまう。 もう一度外に出なきゃ駄目だな、これは。 コンビニでレトルトのご飯と玉子と海苔と醤油と塩と本だしを買ってきた。 最近のコンビニは何でも売ってるんだなあ。 レトルトパックのおかゆにしようかとも思ったが、病人のリクエストを一応聞いてやることにする。 単に鍋に突っ込んで煮るだけなんだけどね。 生米から炊くのは時間がかかるし、米が余っても困ってしまう。 「野口、おかゆ出来たよ。食べれる?」 「うん」 まあ、おかゆっていうか雑炊なんだけど。 土鍋なんてなかったから片手鍋とご飯茶碗。 ご飯茶碗があるだけ、いいとする。 うつらうつらと眠っていたらしい野口は汗でぬれた髪を掻きあげてよろよろと体を起こす。 枕と部屋の隅にあったクッションを使って背もたれを作り座らせ、お盆は見つからなかったから通販のものらしい段ボールで簡易のテーブル。 部屋の真ん中のローブルに鍋を置いて、少しだけ玉子雑炊を取り分ける。 れんげもなかったから、普通のスプーン。 情緒も何もない。 「玉子の、おかゆだ」 「うん、平気?」 「平気。美味しそう」 野口は子供みたいにこくんと頷く。 柄にもなくちょっとかわいくて、訳もなく焦ってしまう。 いつもこんな風に素直だといいんだけど。 でもこれ絶対風邪で壊れてるせいだよな。 「よかった。はい」 「食べさせて」 スプーンを差し出すと、野口は受け取ろうとせずに変なことを言い出した。 「は!?」 「あーんてして」 「馬鹿か!死ね!」 前言撤回、全然かわいくない。 いつも通りの野口だ。 その光景を想像するだけで死ねる。 「ひどい」 「何が!」 「三田が優しくない。俺病人なのに。ひどい」 野口は背もたれのクッションに顔を埋めるようにそっぽを向く。 口を尖らせ、声が拗ねている。 「………」 「ひどい」 「………」 ああ、もう。 仕方なく、野口の膝の段ボールから茶碗を取り上げ一口救う。 それをそのまま、野口の口元に付き付けた。 「ほら」 「あーんって」 「………」 「してくれないと食べない」 そしてまたそっぽを向く。 子供か。 こいつは子供か。 いつもの野口じゃない。 なんかいつもよりより一層性質が悪くなってるぞ。 いつもの野口は平気で殴って文句を言えるが、今の野口はそれが通用しない。 ていうか誰だこいつ。 じゃあ食うな!と言いたくなるが、相手は病人だ。 病人相手に殴る訳にはいかない。 「…………」 仕方ない。 覚悟を決める。 これは、病人だから仕方ない。 頑張れ私。 我慢だ私。 「あ、あーん」 野口はようやく口を開いてくれた。 恥ずかしさのあまり声も手も震える。 なんだこの羞恥プレイ。 なんで私がこんな目に。 親切心からお見舞いに来ただけなのに、なんでこんな仕打ちを。 「………」 野口が何回か咀嚼して、雑炊を飲み込む。 こんな時でも表情はあまり変わらず、何を思っているのか分からない。 味見したところ、別にまずくはなかったと思うんだが。 「………おいしい?」 「味がしない」 殴りたい。 心の底から殴りたい。 「でも嬉しい」 けれど野口はふにゃりと笑った。 いつものチェシャ猫のようなにやにや笑いじゃない。 人を馬鹿にしたような冷たい笑いじゃない。 子供のように無防備に、目を細めて笑う。 「三田の手料理、嬉しい」 「………そっか」 「うん」 だから、何も言わずに私は二口目を差し出した。 今度はあの恥ずかしい言葉を口にしなくても、素直に食べてくれた。 そのまま無言で給仕を続けて、ご飯茶わん一杯分なんとか片付ける。 ポカリで水分補給をして、薬を飲ませる。 「結構汗かいてるね。着替えはどこ?」 「そこのクローゼットの中の箪笥の3番目」 後は体を拭いて、着替えをさせて、寝ていれば治るだろう。 熱は高いようだが、物は食べれるみたいだし、下痢も嘔吐もないようだし。 悪化するようなら病院に行った方がいいだろうけど。 「このジャージでいいかな。したぎ………」 「その上」 「………」 妹にするようにごく自然に言ってしまって気付く。 私が野口の下着を漁らなきゃいけないのか。 「大丈夫。普通のしかないから」 固まっている私に野口が気付いて、ベッドの上から言ってくる。 普通だとか普通じゃないとか、問題はそういうことじゃない。 「普通じゃないのってどんなだ!」 「えーと、ケ」 「言わんでいい!」 頑張れ私。 これは看護だ。 これは病人。 パンツなんて、ただの布だ。 こんなのに動揺する必要はない。 「………よし」 勤めて冷静に、クールに、箪笥から下着を適当に取り出す。 もうどれがいいとか分からないし、適当に出せ。 「はい、着替えと濡れタオルと、こっちが渇いたタオル。勝手にお風呂場漁った」 「うん。ありがとう」 「じゃあ、拭いて。着替えて」 「着替えさせて」 「死ね」 「ひどい。俺、動けない」 「さっき普通に歩いてただろ!」 「ひどい」 「絶対やらないからな!」 これだけは譲れない。 ていうかこいつの我儘聞いてたら、どこまで行くのか分からない。 「外出てるから!」 「はーい」 残念そうな声を背中に、さっさと部屋から逃げ出す。 ああ、顔が熱い。 頭がぐちゃぐちゃする。 さっきの下着、なんだったんだろ。 ブリーフ、じゃないよな。 ぴったりしてるからトランクスじゃないし。 駄目だ、平常心。 心を揺らすな。 無心になれ、私になら出来るはずだ! 「着替え終わった」 「うわあ!」 「三田?」 「何でもない」 頭を思いっきり振って、邪念を振り払う。 平常心平常心と言い聞かせて、部屋に入る。 野口はちゃんと着替えて、ベッドに横になっていた。 私の動揺をからかう様子はない。 やっぱり風邪で弱ってるな。 助かった。 「はい。じゃあ、これついでに洗濯しておくから。他に汚れものある?」 「あー、そこの部屋の隅に」 「じゃあ、これも一緒に洗っておく。洗濯機で回して平気だよね」 「うん」 野口の汗で濡れた着替えを回収して、脱衣所の洗濯機に向かう。 乾燥機も付いているから、ちゃんと渇くだろう。 あ、これは洗濯機かけたら駄目だな。 よけとこう。 おせっかいすぎかとも思ったけど、着替えがなくなってしまっても大変だ。 洗濯かごに洗濯ものも溜まっていたし。 まあ、いらないと言われないからいいのだろう。 しかし、なんで私が野口のパンツまで洗ってるんだろ。 「じゃあ、後はゆっくり眠って。私、洗濯終わったら帰るから」 部屋に戻ると、野口はまだ寝ていなかった。 洗濯してる間に、鍋とか片付けて残りを冷蔵庫に放り込んでおこう。 ていうかそういえばこの家、サランラップもなかったような。 「ひどい」 「何が」 「一緒にいてよ」 ベッドの中から、じっと私を見ている顔は、いつものにやにや笑いではない。 どこまでも真面目な顔で、そんな台詞を吐いている。 「………あんた、なんか熱で頭やられた?」 「頭ぐるぐるする、熱い、死ぬ。俺このまま寝てたら明日の朝死んでるかも」 「おい」 「一緒にいて。手、つないで」 そして、ドアのところにいる私に、手を伸ばしてくる。 だから誰だよ、こいつ。 「………やっぱ脳みそやられただろ」 「ひどい。優しくない」 また拗ねたように口を尖らせる。 あまりにも人が違いすぎて、気持ち悪くてぞわぞわしてきた。 ああ、もうしょうがないなあ。 「分かった。しばらくいるから、さっさと寝て」 ベッドの傍らに座って、野口のいつもより熱を持った手ととる。 普段体温を感じないさらりとした手は、今日は汗ばんでいて, 熱い。 死にそうと言うが、それはいつもより生きている感じがした。 満足そうに頷いて、更に野口は我儘を言い出した。 「おやすみのキスして」 「いい加減にしろ!」 「してくれないと寝ない」 殴りたい。 本当に殴りたい。 「………」 「俺、風邪が治らなくて死ぬかも」 ああ、もう本当に仕方ない。 そっとかがみこんで触れるだけの一秒にも満たないキスをする。 「はい、お休み!」 「風邪うつるよ」 「誰がしろって言ったんだ!」 殴っていいかな。 いい気がする。 「口にするとは思わなかった」 「………」 「でもいいや。あんたが風邪ひいたら、今度は俺が看病するね」 「………はいはい」 「口移しで薬飲ませてあげる」 「いらん!」 そういえば、ほっぺたとかおでこって選択肢があった。 そんなの、思いつきもしなかった。 誤魔化すように、野口の夏掛けを引き上げて話しを打ち切る。 「ほら、早く寝な」 「ひどい」 「今度はなんだ!」 もうやだ、こいつ。 野口はとても辛そうな顔をして、切なげにぼそぼと何かを言っている。 「三田がすっごい優しくて、今なら隙に乗じてヤれるかもしれないのに、体が動かない」 「………お前、実は本当に馬鹿だよな」 「ひどい」 すでになんか怒りを通り越して呆れていると、野口はよろよろと体を起こし始めた。 ベッドから降りようとして、耐えきれなかったのか変な格好で枕に倒れ込む。 「何起きてるんだよ!」 「ここでヤらなかったら、男じゃない」 「アホか!!」 「死んでもいい。ヤりとげる」 「こんなところで命をかけるな!」 なんか無駄にかっこよく心底アホなこと言ってる馬鹿を、ベッドにもう一度ひき倒す。 布団で拘束するように、丸めてしまう。 「ほら、さっさと寝る」 「あ、三田が上になってくれれば………」 もう忍耐力が限界だった。 全力で殴る。 「痛い」 「永遠に寝かせるぞ」 「ひどい」 本当に子供のようだ。 いや、言っていることは全く子供じゃないんだが。 風邪をひいた野口は、いっつもこんななんだろうか。 ていうかそういえばジンさんがこいつのことを子供って言ってたっけ。 あの人達の前では、野口はこんななんだろうか。 あ、ムカムカする。 「こんなに三田が優しいなんて、もうないかもしれないのに」 「いつも優しいだろ」 「ヤって死ぬなら本望なのに」 「言ってる間にさっさと寝ろ!」 「やだ」 野口はもう一度布団から這い出ようと、もぞもぞとし始める。 本当に死ぬぞ。 「分かった!ヤらせてやるから、風邪が治ってからにしろ!」 思わず怒鳴りつけると、野口がぴたりと動きを止めた。 部屋の中が、静まり返る。 「え?」 「え!?」 言った自分が驚いて、声を上げてしまう。 私は今、勢いで何を言った。 「本当?」 「嘘!」 「約束」 「嘘だってば!」 「そしたら寝る」 「ちょっと待って!」 「約束してくれなきゃ寝ない」 「あんたね!」 「三田のせいで、俺死ぬかも」 ああああ、もう本当に性質が悪い。 ああ、もういい。 今だけだ。 後で誤魔化してやる。 「分かった!約束するから!」 「やった」 野口はにっこり笑うと、今度こそ大人しくベッドに横になった。 疲れた。 本当に疲れた。 今度は私が病気になりそうだ。 「だから、早く寝て」 「うん」 大人しく目を閉じる野口に、思わずため息が漏れてしまう。 眼鏡のない顔は、やっぱり慣れない。 ああ、でもこの前の海で、見たっけ。 少しだけ幼く感じる、寝顔。 「もう、帰っていいよ」 「え?」 「遅くなったら、ご両親が心配する」 目を瞑ったまま、野口がそんなこと言いだす。 自分がいろって言ったくせに。 何を今更常識的なことを。 「まだ、洗濯終わってない」 「明日全部、やるから平気」 「………」 「ありがとう」 「皺になるから、乾燥が終わるまで、いる」 「じゃあ、乾燥機放り込んだから帰っていいよ。皺になるような服ない」 まあ、確かにそんなかっちりした服は、なかった。 でも。 「………もうちょっといる。あんたちゃんと寝ないで動き回りそうだから、監視する」 「大丈夫だよ」 「平気。お祭り行ってることになってるから。少しくらい遅くても、平気」 「ありがとう。でも、早く帰りなね」 「うん」 眠った野口の、汗ばんだ手をもう一度握る。 緩く握り返された手が、熱い。 「おやすみ」 「………おやすみ」 しばらくして、野口の規則正しい寝息だけが、部屋に響いた。 私はただその寝顔を、じっと見ていた。 |