「ん」

なんだかとても寝心地が悪くて、暑くて、汗で纏わりつく服が鬱陶しくて、寝がえりをうつ。
ベッドに、違和感がある。
狭い、な。
変な感じ。

「う、ん」

まだ眠かったけど、違和感を確かめるために目を頑張って開ける。
その瞬間視界に入ってきた顔に、飛び起きた。

「う、わあ!」
「起きちゃった」

急いでソファの上に座りこむと、その前に座りこんでいた野口がつまらなそうにため息をついた。
心臓がすっごいバクバクしている。
寝起きにこれは、体に悪そうだ。

「な、な、なんで、なんであんたが」
「ここは俺の家だから」
「あ」

そっか。
そうだ。
ああ、もう外が明るい。
もう朝になったのか。
そうだ、私は昨日、結局野口の家に泊まってしまったのだ。
泊まったはいいけど、寝るところに困ってリビングのソファに大きなバスタオルをかぶって横になった。
あ、いつのまにかタオルケットになってる。
ていうかなんでこいつはソファの前に座りこんでいるんだ。
おかげで心臓が止まるかと思った。
普通に怖かった。

「そんなところで何してんだよ!」
「見てた。かわいかったから」
「あ………」
「涎垂らして目が半開きだった」
「死ね!」

朝から絶好調にムカつく男を蹴り倒す。
あ、やべ、病人だった。
まあ、いいや。
顔色、随分良くなってる。

「乱暴だな」
「お前が悪い!」

蹴り倒された野口が、眼鏡を抑えながら座り直す。
そしてまたソファに座った私を見上げるように、じっと見てきた。

「うち、泊まっちゃったの?」
「………」
「俺のこと、心配してくれたの?」

見つめてくる野口に、馬鹿にしたりからかう様子はない。
けれど、自然と顔がかーっと一気に熱くなってくる。

「せ」
「せ?」
「洗濯もの、乾かなかったから!」
「洗濯もの」
「だ、だから帰れなかったの!」

何言ってんだ、私。
本当に何言ってるんだ。
いくら言い訳だからって、他にあるだろう。
ていうか普通に病人が心配だから、でいいじゃん。
死にたい。
埋まりたい。

「そっか」

けれど野口は、目を細めて笑った。
とても優しく、嬉しそうに。

「………」
「ありがとう」

素直な野口は、気持ち悪い。
まだ熱があるな、これは。
いつもだったらこれをネタにからかい倒しているだろう。

「アリバイ工作は雪下?」
「………うん」
「じゃあ、雪下にもお礼言わなきゃ」

結局、帰った後に、こいつの熱が上がったりしたらどうしよう、トイレに行こうとして倒れたりしたらどうしよう、明日になって死んでたらどうしよう、とか思ったら、帰れなかったのだ。
絶対大丈夫だって、冷静なところでは分かってるのに。
赤い顔して息荒く眠り込む男の冷えピタを代えたりしているうちに、どんどん遅くなってしまって。
美香に、家に泊まるってことにしてくれと、頼んでしまったのだ。
ああ、次に美香に会う時が怖い。

「ご両親、なんだって?」
「………美香に、迷惑かけるなって」

野口が両手で汗ばんだ私の手を包み込んで、祈るように額に当てる。
ああ、手が、熱い。

「嘘つかせたね。ごめん」

初めて、親に嘘をついて外泊した。
ものすごい罪悪感と、いけないことをしているような背徳感。
別に悪いことしてる訳じゃないけど、どんな顔してお母さんに会えばいいのか分からない。
想像するだけで、すごい恥ずかしくて、気まずい。
電話する時も、声が震えた。
お母さんは全く気付かなかったけど。

「でも、あんたが、ここにいてくれて嬉しい」

胸が、ぐるぐるぐるぐるする。
なんだか熱いものが肺の中でいっぱいになって、息が苦しい。
眩暈がする。
眼球が痛い。
野口の風邪が、うつったのかもしれない。

「い、嫌じゃない?」
「嫌?」
「なんか、勝手に世話焼いて、泊まったりして、重くない?」

何度も何度も迷ったのだ。
頼まれてもないのにご飯なんて作って洗濯とかしちゃって、泊まりこみで看病。
自分でもちょっと痛いかな、って思った。
でも、結局、苦しそうな野口を置いて、帰れなかった。
野口は顔をあげて、表情のあまり見えない目で、じっと私を見る。

「嬉しい。なんとも思ってない奴にやられたら怖いけど、あんたなら嬉しい。好きな人間に看病してもらえて、心配してもらえて、一晩一緒にいてもらえた。嬉しい」
「………なら、いい」
「うん、ありがとう」

ああ、本当に野口が素直で気持ち悪い。
気持ち悪くてぐるぐるする。
ドキドキするのは気持ち悪いから。
眩暈がするのは、慣れないから。

「でも、哀しい」
「何が?」
「一人暮らしの家で彼女と二人。その状態で何もできなかった自分のふがいなさが哀しい」
「アホか」

ああ、いつも通りの馬鹿な発言にほっとする。
慣れない変な気持ちが、薄れていく。

「俺は男として失格かもしれない」
「お前の中の男のハードルはもっと下げていい」
「………ああ」
「あんたって割と手遅れな感じで深刻な馬鹿だよね」

真剣に暗い顔をして沈みこむ野口に、呆れを通り越して感心すらする。
本当にこいつは馬鹿だ。
まだ、顔はいつもよりも赤くて、いつも冷たい手は、熱いのによくこんな馬鹿なことが言えるもんだ。

「もう体、平気?」
「かなり元気。熱も下がったよ。多分」
「………体温計は?」
「どこあるんだろ」

さあ、と首を傾げる野口に、ため息が漏れてしまう。
何もない冷蔵庫。
揃ってない調理器具。
物の少ない家。

「あんた、今までどうやって生きてきたの」
「まあ、適当に」
「………」

いつのまにか私の膝にもたれるように、体重をかけられている。
振り払おうと思うが、触れた体は、熱い。
ていうか、普通に座ってるのもまだ辛いんじゃないか、こいつ。

「いつも体調崩したら治るまで一人で寝てた。母さんいないこと多かったし」
「………かの、恋人とかは?」
「ああ、そういえばこんな風に看病してもらったの、あんたが初めてかも。病院に付き添ってもらったことはあるけど」
「………そっか」

そうなのか。
あのおっさんとも、ないのか。
そっか。

「嬉しい?」
「べ、別に」
「俺は嬉しい」

別に、嬉しくなんてない。
まったく、人に面倒ばかりかける男だ。
私にばっかり、面倒をかける。
本当に、仕方ない。
こいつが私に甘えてくるんだから、仕方ない。

「あ、そうだ、三田。そういえば約束」
「お母さんいないこと多いの!?」

何かとんでもないことを言われそうだったので、急いで遮る。
野口は私を見上げて、目を何度か瞬かせてから、それでも答えてくれた。
よし。

「うちの両親ラブラブでさ。で、父さん転勤族。昔は俺も一緒に移動してたけど中学生から受験もあるし落ち着いた方がいいだろうってことでここに住み始めたの。まあ、でも母さん、父さんラブだからしょっちゅう父さんのところ行ってて実質ほぼ中学から一人暮らし」
「………そっか」
「俺のことはちょっとラブ」

別に仲悪いって訳じゃ、なさそうだよな。
でも、一人のことが、多かったのか。
いつだって家にお母さんと妹がいる私には、それがどういうことか、分からない。
病気の時に一人で寝てる気持ちなんて、分からない。
でも、私だったら、嫌だな。
病気の時は、誰かに看病してもらいたい。
誰かに、傍にいてほしい。

だから、中学生の頃から、あんなところふらふらしてたのかな。
つっこんでいいのか、悪いのか。
彼女なら、つっこむべきなんだろうか。
でも、重いかな。
聞かれるの、嫌かな。
ああ、分からない。
頭痛くなってくる。

「でも、俺は、三田が俺ラブだから、いい」
「ば、ば、ば、ば」
「ジャイアント?」
「ばっかじゃないの!」

ああ、声が震える。
顔が熱い。

「顔真っ赤」
「うるさい!」
「かわいい」
「あほか!」
「約束」
「………っ」

ああ、いきなりの不意打ちに、声がでなかった。
しまった。
誤魔化せ。
全力で誤魔化せ。
よし、知らなかったことにする。
聞いてない。
私は約束なんてしていない。
今、ものすごい勢いで自分の頭が回転しているのが分かる。

「な、なんのこと?」
「忘れちゃったの?」
「だから知らない」

そう、知らない。
私は何も知らない。
押し通せ、付き通せ。

「三田、約束したじゃん。風邪が治ったら大サービスしてくれるって。俺の舐めて上に乗っかって縛ってあ………」
「ヤらせるって言っただけだろうが!」
「うん。それだけ」

ちくしょう。

「…………」
「約束」

えっと、えっと、えっと、えっと。
そうだ、違う、まだいける。

「ま、まだ風邪治ってないだろ!私にうつす気か!」
「そしたら俺が看病する。着替えだって手伝う」
「あほか、死ね!」

膝に縋りつく野口の額を触る。
歩く汗ばんで濡れた髪の感触が、ちょっと気持ち悪い。
額も濡れていて、熱い。

「ほら、また熱がある!完全に治ってからじゃないとヤらせない!」

野口は、目に見えて哀しそうな顔をして、私の膝に頭を置く。
なんか、体調崩しているこいつって、表情がすごい分かりやすい。

「はあ、ひどい」
「ひどくない!」
「せっかく二人きりなのに、何もできないなんて」
「頼むから少しは弱れ」
「キスしたい。抱きしめたい。触りたい。入りたい。舐めまわしてつっこみたい。出し入れして射精したい。俺とあんたのエロい体液でぐちゃぐちゃになりたい」

声も出なかった。
ただ、膝にのった頭をはたき倒した。
変態変態変態変態。

「痛い」
「この変態!お前、絶対風邪治ってないだろ!」
「………あー、治ってないかも」

いつもはここまで変態じゃないぞ。
いや、変態か。
変態だな。
じゃあ変わらないのか。
ああ、本当になんで私、こんな変態と付き合ってんだろう。
私馬鹿だな。
本当に馬鹿だなあ。

「キスも、うつるよね」
「私、風邪ひきたくないからね!」
「うん、俺も、あんたには元気でいて欲しい」

くそ。
さっきの変態発言を、こんな一言で許してしまいそうな自分が許せない。
騙されるな、こいつはただの変態だ。
しっかりしろ、私。
流されるな。

「ねえ」
「やだ」

野口が、体勢を整えて、私を見上げてくる。
猫のような無表情で、私をじっと見ている。
どうせろくなこと言われないから、何か言われる前に却下する。
しかし、野口はそれすら気にしない。

「ねえ、触ってもいい?」
「やだ」
「ひどい」
「絶対やだ」
「顔だけ」
「やだってば」
「触るだけ。他は何もしない。触りたい」

触るって言い方が、もう嫌だ。
なんでこいつの単語選びは一々変態くさいんだろう。

「あんたに触りたい。あんたを指で感じたい。触りたい。すごい触りたい」

野口の眼鏡の奥の眼が、じっと私を見ている。
細い目が、切なく、細められる。

「好き。ねえ、好き。大好き。触りたい。触らせて。好き、三田が好き。触りたい」

ああ、もう全身が熱い。
かゆい。
むずがゆい。
これ以上、聞いてなんていられない。

「ねえ」
「分かった!」
「いいの?」
「………顔ってどこまで」
「首から上」
「………それ以外は絶対触るなよ」
「うん」

無表情ながら顔を輝かせて、野口がよろよろと私の隣に座りこむ。
ていうかこいつ本当にふらふらだし。
大人しく寝ろよ。
頼むから弱れよ。
涼しい顔して何気に本能で生き過ぎだ。

「目、瞑って」
「………何する気だよ」
「顔、触るだけ。他は何もしない」
「………」

本当か。
まあ、約束破ったことは、ないよな。
そうだよな。
とりあえず、大人しく目を瞑る。

「………」

そのまましばらく、何もされない。
なんだ。
なんなんだ。
なんか余計に、緊張して、ソファにおいた手に汗を掻いてきた。

「………の」
「し。目、開けないで」
「っ」

耐えきれなくなって目を開けようとすると、耳元でそっと制された。
熱い息が耳に触れて、体が小さく跳ねてしまう。

「………」

目をぎゅっと瞑る。
ああ、私きっと化粧が崩れて、ひどい顔している。
恥ずかしい。
産毛がぴりぴりとして、空気にすら反応してしまう。
心臓の音が、どんどん早くなっていく。
頭ががんがんするほど、血の巡りが早くなる。

「………っ」

唇に、熱いものが、触れる。
いや、触れるか触れたか分からないくらいの感触。
皮膚一枚分位、挟んだ先にあるような、微かな熱。
そっと、私の唇の形をなぞるように、ゆっくりと触れる。
くすぐったくて、身じろぎする。

「…………」

唇に、熱が集まる。
全神経が、集中する。
そのまま何度かなぞられて、指は頬に移動していく。
産毛をなぞるように、顔を辿る。
野口の指に、私の体温がコントロールされているみたいだ。
目を開けたい。
でも、開けられない。
次に指はどこにいくのだろう。

怖い。
くすぐったい。
心臓が痛い。
息が、出来ない。

「………っ」

耳に触れて、瞼をなぞり、髪がそっと撫でられる。
どれも本当に触れているか触れていないか分からないような、もどかしい感触。
触るなら、もっとしっかりと触ってほしい。
なんだか、こんな触り方の方が、嫌だ。
次にどこ触られるのか分からなくて、怖い。
微かな熱に、皮膚がどんどん敏感になっていく気がする。

「………ぅ」

耐えきれなくなって目を開けそうになった瞬間、首筋をつっと、少しだけ強く撫でられた。
ぞくりと、背筋に電流のようなものが走る。

「………は、ぁっ」

予想外の感触に詰めていた息を、吐きだしてしまう。
とても、甘ったるい響きの、吐息。

「っ!!!」

何今の何今の何今の。
今のは違う。
今のは私の声じゃない。

「い、今のは!」

目を開けて、隣にいた野口から少しでも距離をとるために飛び退く。
なんだ、今の
何、今の。

「かわいい」
「違う!今のは違う!今のは違う!私じゃない!違う!」

頭を抱えて、野口から顔を隠すために膝に埋める。
いやだ、もう消えてしまいたい。
こんなの、私じゃない。

「三田?」
「うるさい!」
「ねえ、感じた?」
「し、死ね!!」

私の繰り出した蹴りで、野口はソファに倒れた。





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