「おはよう」
「………おはよう」

休日の朝の爽やかな空気の下で、野口が軽く手をあげて挨拶をする。
それにしても、朝日というものが全く似合わない男だ。

「なんでそんなに距離を取ってるのかな」

1メートルぐらい離れていると、野口が小さく首を傾げる。
昨日の出来事は、いまだに生々しく記憶に残っている。
お腹の下あたりに当たった、堅い感触。
駄目だ思い出すな。
駄目だ。

「………自分の胸に手を当てて考えてみろ、変態」
「まあ、若干変態よりであることは認めるけど、勃起したのは仕方なくないか」
「そ、そんなストレートに言うな!」

あの後殴り倒して逃げたが、あのままあそこにいたらどうなっていたのだろう。
恐ろしい。
恐ろしい男だ。

「三田」
「来るな」

一歩近づかれて、一歩離れる。
その私の警戒心丸出しの態度に、野口が小さくため息をつく。

「三田、そんなに俺の勃起に興奮しないで」
「人を変態みたいに言うな!」
「そんなに俺の勃起を気にすると思わなかったんだ」
「勃起勃起言うな!」
「こんな道端でそんな大きな声で勃起とか言うなよ」
「誰のせいだ!」

殴ろうと近づくと、振りかぶった手を掴まれた。
そのまま引き寄せられて抱きしめられる。

「捕まえた」
「ぎゃあ!」
「かわいくない悲鳴」
「やかましい、離せ!」
「三田に欲情したってことだろ?むしろ喜んでよ」
「喜ぶか!」
「じゃあ、欲情しない方がいい?」
「………そんなの、しないほうが」
「いい?」

いいか、と言われると、いいって言いきるのも変な気がする。
けれど、どんどん欲情しろなんてのも言えるはずがない。
ていうか朝っぱらから欲情だの勃起だの、私は何を言ってるんだ。
ああ、恥ずかしい。
人がいなくてよかった。
私こんな女の子じゃなかった。
もっと恥じらいがあった。
なんでこんなことになってしまったんだろう。

「うるさい、死ね、変態!」
「ひどい、生理現象なのに」

足を踏みつけて、腕から逃げ出す。
落ち着け落ちつけて、深呼吸。
こいつのペースに惑わされるな。
いつもの自分に戻るんだ。
いつものこと、いつものこと。

「………今日の朝食は?」
「コーンフレーク」
「よし」

最近恒例の、やりとりを繰り返すと、少しだけ落ち着いてくる。
この調子だ。
野口は無表情に少しだけ笑顔を浮かべる。

「偉い?」
「偉い」
「褒めて」
「偉い偉い」
「撫でて」
「………」

また何を言ってるんだこいつは。
こんな道端で本当にアホだ。
人気が少ないとは言え、人が通らない訳ではない。

「ね、撫でて」

一瞬殴り倒そうかと思ったが、仕方なくその柔らかい髪をそっと撫でる。
そもそも、こいつがメシを食べて、なんで私が褒めてあげなきゃいけないんだろう。
よく考えればおかしくないか。

「………」
「………なんだよ」

私が頭を撫でながら考え込んでいると、野口がじっと見ていた。
目をパチパチとさせて、どこか意外そうだ。

「いや、まさかやってくれるとは思わなかった」
「だからお前はどうしたいんだよ!」

そのまま一発頭をはたく。
撫でろと言ったくせに、やったらやったで意外そうにする。
一体こいつは何がしたいんだ。

「で、昨日の夕食は?」
「ビール」
「死ね」

ああ、褒めたのも無駄だった。
どうやったら通じるんだ、こいつに日本語は。

「だからどうしてお前はアルコールを食事にしようとするんだ!」
「ビールって栄養ありそうじゃない?」
「ない!」

あるかもしれないけど、それだけでいいって訳じゃない。
それは間違いない。

「怒ってる?」
「怒ってる!」
「そっか」

野口は嬉しそうに目を細める。
もしかしてわざと、わざとなのか。

「………お前、もしかして怒られたくてやってるとかないよな」
「たまにしか」
「やってんのかよ!」
「俺のために怒って泣いて喜んでる三田なんて、最高だろ?」
「………変態、最低」
「かもしれない」

野口は無表情のまま子供のようにこっくりと頷く。
呆れて何も言えないでいると、白くて細い繊細な手が差しだされる。
堅くて黒くて太い私の手よりも、綺麗な手。

「………」
「映画いこ」
「………うん」

私は頷いて、その冷たい手に自分の手を重ねた。
野口が、じっとその手を見る。

「何?」
「あのさ」
「うん」
「いいや、後で」
「何だよ」
「いや、後で話す」

訳が分からないまま、一旦そこで話は打ち切られた。



***




「別にお母さんとかの分はいらなかったのに」
「ま、一応ね」

映画を見た帰り、いつもの弁当のお礼にと、野口がお薦めのケーキを買ってくれた。
よく奢ってもらうし、本当はいいんだけどな。
いくらバイトしてるって言っても、金も続かないだろうし。

「気、使わなくてもいいのに」
「心ばかりのお礼です」

まだ早かったので、一旦ケーキを家に置いてからもっかい出ようと言うことになった。
後で買えばよかったのかもしれないけど、早めになくなっちゃうらしいから先に買ってしまったのだ。

「じゃあ、置いてくるからちょっと待ってて」
「はい」

言い置いて早足に玄関に向かう。
ドアに手をかけようとしたその時、まだ触れていないノブがガチャリと回る。

「いってきまーす!」
「あ」

勢いよく開かれたドアにぶつからないように慌てて避ける。
明るい声と共に現れたのは、3つ下の妹。
私には似ていない白くて細くて小さい子。

「あれ、お姉ちゃん、おかえり」
「………絵理」

しまった。
どうしよう。
一旦家に押し込めるべきか。

「………」
「どうしたの?どいてよ、お姉ちゃん」
「あー………」

どいたら後ろが見えてしまう。
どうしよう。
どうしたらいいんだ。
バックダッシュで、野口を引っ張って逃げるか。

「邪魔だってば………あ」
「あー!」

絵理が迷惑そうに顔を顰めて、私を避ける。
しまった、遅かった。
絵理が玄関先に立っている男を見て、目をパチパチと瞬かせる。

「こんにちは」

後ろの男がまた余計なことに挨拶とかしてやがる。
通りすがりの人のふりぐらいしておけ。
どうしよう。
なんて言ったらいいんだ。

「えー、っと、こんにちは?」
「こんにちは」

絵理がきょろきょろと私と後ろの男を何度も見比べる。
考えろ、考えろ、考えろ、由紀。
誤魔化せ、全力で誤魔化せ。
しかしまたそれは遅かった。

「お母さーん!お姉ちゃんが彼氏連れてきた!!」
「待て、絵理!」

止める暇なく、絵理は家の中に入っていってしまう。
ああ、もう、終わりだ。

「…………」
「入らないの?」

項垂れていると、後ろから問われる。
こいつも隠れるとかなんとかしろよ。
何簡単に見つかってるんだよ。

「………心の準備がまだ」
「なるほど」

ちらりと振り返ると野口は全く動揺した様子もなくいつも通り無表情。
なんでこいつはこんな涼しい顔してるんだよ。
八つ当たり気味の怒りがわいてくる。

「ていうかなんでお前は普段通りなんだよ!」
「いや、めいっぱい緊張してるけど」
「どこがだ!」
「あ、ケーキ貸して」
「は?」

なんで、と聞く暇もなく近寄ってきた野口にケーキの箱が奪い取られる。
そうしている間にパタパタと家の中から慌ただしい足音が聞こえてきた。
来たなラスボス。
お父さんが出張中で、本当によかった。

「あ、嘘、本当だ!由紀の彼氏!?嘘!?」

絵理と連れだってやってきたお母さんは心底驚いた顔で野口の顔を凝視している。
失礼すぎる。
私をなんだと思ってるんだ。
ていうか、恥ずかしい。
ものすごい恥ずかしい。
野口を見られるのも、この母を野口に見られるのも恥ずかしい。

「はじめまして、こんにちは」

けれど野口はお母さんの失礼な態度を気にせず、にっこりと笑った。
見たこともないような、爽やかな笑顔。

「由紀さんのクラスメイトの野口良と言います。本日は突然申し訳ありません」

そしてケーキの箱をお母さんにそっと差し出した。






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