なんでこんなことに。
なんでこんなことに。
なんでこんなことに。

「ねえねえ、野口さん」

絵理は興味津津に、野口の方に身を乗り出している。
お母さんがあがってあがってと強引に引っ張りこみ、今、野口は私の家の中にいる。
私の家の居間と、野口。
なんだこの違和感
野口は、相変わらず薄気味悪いぐらいににこやかに絵理の問いかけに首を傾げる。
誰だよ、こいつ。

「ん、どうしたの?」
「野口さんって、お姉ちゃんの彼氏?」
「絵理!」

こいつはなんてこと聞きやがる。
色気づきやがってこのクソガキ。
野口は悪戯っぽく笑って、逆に聞き返す。
だから誰だよ、お前。

「どうなのかな?」
「えー」
「お姉ちゃんに聞いてみて」

そこでこっちに振るのか。
この変態。
最低男。
絵理は顔を輝かせて、今度は私の方に聞いてくる。

「ねえねえ、お姉ちゃん、野口さんってお姉ちゃんの彼氏?」
「………」
「ね、そうだよね?」
「………そ、そんなん言わなくても」
「えー、友達、彼氏?どっちどっち」

休日に一緒に出かけて、自宅前まで連れてきてる時点で分かるだろう。
ああ、でもこいつは男友達と二人で出掛けることも多かったっけ。
将来が不安になる小悪魔だ。
私も男友達は多かったが、二人で出掛けることなんてなかったしな。
だから、二人で出掛ける時点で、特別だってことだ。
気付け。
言わせるな。

「野口さん、どっちー」

何も言わずに焦れた絵理は、もう一回野口に聞く。
野口は爽やかににっこりと笑う。

「俺は、お姉ちゃんのこと好きだよ」
「う、わ」

照れもてらいもない言葉に、さすがの絵理が言葉を失う。
何言ってんだ、この馬鹿は。
顔が熱くなってきた。
そして変態男は少しだけ顔を曇らせる。

「もしかしたら、お姉ちゃんはそうじゃないかもしれない」
「お姉ちゃん、どうなの!?」
「………くそ」

全部分かってんな、こいつ。
この最低男。
絶対今、心の中ではにやにやしてるんだろ。

「お姉ちゃん?」
「か、彼氏、だよ」

絵理は、正直に言わないと、諦めないだろう。
私は嫌い、なんて、言ったら殴られそうだし。
観念して、白状する。
くそ、やられた。

「わー、お姉ちゃんに先越されると思わなかった!」
「あんたといくつ離れてると思ってんのよ!」
「でもさあ、お姉ちゃん女らしくないし、乱暴だし、性格悪いしー」
「悪かったな!」
「でも確かに最近かわいくなったよね。お洒落するようになったし」

絵理がにこにことかわいらしく笑う。

「野口さんのおかげだったんだ!」
「どうなんだろう?」

野口が私にだけわかるようににやりと分かる。
まあ、正確に言えば、藤原君のおかげだ。
あの人がいなければ、かわいくなろうなんて、まだまだ思わなかっただろ。
分かって言ってるだろ、こいつ。

「はい、お茶入ったわよ、ケーキはおもたせで悪いけど」

なんて言ったらいいか分からないでいると、お母さんがお盆を持ってキッチンから出てきた。
買ってきたケーキと紅茶が乗っている。
私の分だけ、家にあった普通のお菓子だし。
まあ、うちの家族分だけしか買ってなかったから仕方ないけどさ。
食べたかったな、ここのケーキ。

「ありがとうございます」
「そんな気を使わなくてよかったのに」
「いつも由紀さんにはお世話になってますから。大したものじゃなくて申し訳ないですが」

野口が爽やかに笑いながら、そつなく対応している。
だから誰だよ、お前。
本当に誰だよ。
そういう態度が出来るなら、最初から私にもしておけ。

「お母さん、野口さん、お姉ちゃんの彼氏なんだって。お姉ちゃんにはもったないないよね」
「えー、本当!?由紀にはもったいないくらいいい子だわ。こんな礼儀正しい子、今時いないわよ」

絵理が楽しそうに、お母さんに話しかける。
お母さんもきゃぴきゃぴとテンションをあげながら笑っている。
この似たもの親子。
お前ら二人とも、野口に騙されている。

「絵理、あんた出かけるんじゃなかったの!?」
「あ、おつかい行くだけだったから後で行く。ねえねえ野口さん」
「絵理!」

こいつ、これ以上何を聞くつもりだ。
そして野口にこれ以上に好きに話させる訳にはいかない。
何を言われるか、何を言わされるか分かったもんじゃない。
しかし、絵理は止める私にたいして、いやらしく笑う。

「あ、ヤキモチ?」
「違う!」

これ以上こいつらを野放しにしておいたら何が起こるか分からないだけだ。
ああ、本当にもう、こいつを家に連れてくるんじゃなかった。
こんな絶妙なタイミングで絵理が出てくるなんて、思わなかったんだ。
今日は厄日か。

「仲がいいんですね」
「喧嘩ばっかりでうるさいのよ」
「俺は一人っ子なのでうらやましいです」

野口は私と絵理の言い争いを微笑ましそうに見て、お母さんと話している。
お母さんはため息交じりに、野口に身を乗り出す。
ああ、今度はこっちか。
本当にこの似たもの親子が。

「この子うるさいし、ガサツだし、大変じゃない?」
「いえ、由紀さんは明るくて優しくて、いつも楽しいです。しっかりしていて頼りになるし。俺がいつも迷惑かけてばっかりで」
「もう、本当に出来た子ね」

バンバンと野口の薄い肩を叩いている。
普通に痛そうなんだが、野口はにこにこと笑いながら、それを受け止めている。
お母さん、本当に私は迷惑をかけられまくっているんです。
まあ、私もかけてるけどさ。

「そういえば最近お弁当二つ持っていくの、そういうことだったのね。てっきり美香ちゃんのかと思ってたら」
「………」

くそ、ばれた。
今までなんとか誤魔化していたのに。
これからは毎朝からかわれるのか。
ああ、なんか、逃げ出したくなってきた。
明日なんて、来なければいい。

「大丈夫、野口君?まずかったらちゃんと言ってね。鍛え直すから」
「すごくおいしいです。お母さんから教わってるって聞いてたから、きっとお母さんの料理もおいしんだろうなって思ってました」
「やだ、そんなことないわよ!」

またバンバンと野口の細い肩を叩いている。
だから誰なんだよ、お前。
いい加減別人過ぎて気持ち悪くなってきた。

「あ、なら大したものじゃないけど、夕飯食べてく?ご両親さえよければだけど」
「嬉しいですけど、ご迷惑じゃ………」
「そんなことないわよ!是非食べてって!大丈夫、お父さんは今出張中だから!」

野口が私にだけ分かるようにちらりとこちらに視線を送る。
私は思いっきり首を横に振る。
この地獄が続くなんて耐えられない。
野口はそれに気づいて、小さく首を縦に振る。
あ、分かってくれた。

「じゃあ、ご迷惑じゃなければお言葉に甘えて」

訳じゃなかった。
そうだよな。
当たり前だよな。
こいつがそんな素直に私の言うこと聞いてくれる訳ないんだよな。

「いつも娘がお世話になってるんだもの。食べてって食べてって」
「ありがとうございます。すごく楽しみです」
「本当に大したものじゃないのよ!」

お母さんは上機嫌にウキウキとしている。
すっかり気に入られてる。
我が母ながら、なんとも単純。
ああ、私たち、親子だなあ。

「はい、三田」
「え?」
「半分どうぞ」

野口が、3分の1だけ食べられたケーキを、私の方に差し出す。
元々これは私の分だったケーキ。

「うわあ、優しい!」

けれど絵理ははしゃいでまた囃したてるのだ。



***




「いいご家族だな」

ようやくあの地獄の空間から逃げ出して、自室に避難した。
野口は二人きりになるなり、いつも通りの無表情。

「………」
「どうしたの?」
「誰だ、お前」
「野口です」
「違う、お前は違う、野口はあんな笑顔にもならないし、あんな丁寧に話したりしない」
「一応接客してるから、俺にもそれくらいできるんです」

そういえばこいつ、バイト接客業だったっけ。
ていうかバイト中のこいつはあんななのか。
別人じゃねーか。
本当に誰だよ。
うまいこと絵理にもお母さんにも取り入りやがって。

「うまいことやりやがって。ケーキとかあげて、私にはいらないって言ったくせに」
「だって、うちは母さんいない可能性高かったし、多分いても食わずにさっさと帰っただろうから」
「………」

まあ、確かにそうか。
野口のお母さんは、ケーキ上げても、一緒に食べる余裕はなったかもしれない。

「でも、なんで急にあんな態度」
「いつもの態度でよかったのか?」
「………」

いつもの、セクハラ変態発言全開の野口。
絵理とお母さんの前で、変態な野口。

「………いや、やめてください」
「分かってくれてよかった」

まあ、ものすごく気持ち悪かったが、あれでよかったか。
いつもの態度でやられるより、今日の方がよかった。
うん、そう思っておこう。
本当に心底気持ち悪かったが。

「結構綺麗にしてるんだな」
「………まあ」

とりあえず、ぐるりと部屋を見渡す。
見られて困るようなものは、ないとは思う。
藤原君との写真とかは全部クローゼットに押し込んであるし。
部屋もこの前片付けたばっかりだからそこそこ綺麗だ。
女の子らしい部屋、とはいかないけど、まあ、普通だよな。
あいつの部屋みたいにシンプルでかっこいい部屋ではない。
カーテンとベッドカバー、今はちぐはぐだし。
ああ、やっぱり見られるのは恥ずかしいかな。
私は自分のセンスとか、自信はない。
こいつはそういうの気にしてそうだし、センス悪いとか思われるかな。

「三田?」
「あ?」
「座らない?」
「あ、うん」

なぜか私の部屋なのに、野口に促される。
こいつは彼女の部屋に入ったっていうのに、なんでこんな反応が薄いんだ。
まあ、いいけどさ。
なんか言われるより、全然いいけどさ。
とりあえずクッションを用意して野口に放り出し、自分も床に座りこむ。

「………っ」
「はー、緊張した」

けれど私が座った途端、野口は私の膝に頭を乗せてきた。
むき出しの膝に、さらさらとした感触が触れてくすぐったい。

「おい!」
「疲れたから癒して」
「お前、絶対緊張なんてしてないだろ!」
「もうしまくり、いっぱいいっぱいテンパってた」

嘘つけ嘘つけ嘘つけ。
絶対嘘だ。

「三田の堅い膝枕、落ち着く」
「堅いは余計だ」
「頭撫でて」

ああ、もう本当にこいつは、人の話を少しは聞け。
どうしたらこいつに日本語が通じるようになるんだ。
従ってしまう私も私だけど。

「気持ちいい」

髪をくしゃりと撫でると、野口は気持ちよさそうに目を細めた。
そして眼鏡越しの冷たい目で、私をじっと見てくる。

「朝の話だけどさ」
「何?あ、えっと、朝言いかけた奴?」
「そう」

膝の上で、こっくりと頷く。
気になっていた、あれか。
野口はにやりとチェシャ猫のように意地悪く笑う。
この笑い方を見て、ほっとしてしまう私、本当におかしい。

「あんたって本当に分かりやすいよな」
「何、いきなり」
「三田、急に俺に甘くなった」
「………何が」
「母さんとのことに同情して、俺にすごく甘くなった」
「どこ、が」
「頭撫でてって言ったら撫でてくれるし、殴らなくなったし、手も素直につないでくれるし」

野口は楽しそうに、性格そのままの意地悪い笑い方で、私を見ている。
ああ、いつもの、私を楽しそうに追い詰める時の、笑顔だ。

「そんなこと………」
「ない?」

ない、訳じゃないかもしれない。
確かに、可哀そうだって、思ったかもしれない。
私だったら、嫌だって思った。
あんな風に、そっけないのは、嫌だと思った。

「俺が可哀そうだから、優しくしてくれる?」
「………」

心臓が、キリキリと、痛む。
そんなつもりはなかった。
なかったと思う。
けれど確かに、そういう態度、だったかも、しれない。

「一段上から見下ろして、優しい自分に酔って、いい気分?」
「そんなこと、考えてない!」
「じゃあ、どうしてそんな優しいの?」

だって、あんたが優しくしろって言うから。
あんたが甘えるから。
でも、確かに今までだったら、そんなのふざけるなって殴り倒していたかもしれない。
それが、できなく、なってる。

「わ、かんない」
「やっぱり同情?」
「………」
「あんたって、そういうの好きそうだもんね。人に優しくできる自分最高」

野口がくすくすと目を細めて笑う。
機嫌良さそうな、獲物を嬲る、肉食獣の顔。
眼鏡越しの眼が、私を見ている。
その冷たい細い目が、離せない。

「俺はあんたのオナニーの道具?」
「そんなの、分からない!分かんない!」

そんなこと、考えてなかった。
ただ、何も考えてなかった。

「分からない!ただ、優しくしたかった!同情かもしれない、けど、ただ、優しくしたかった!あんたが、寂しいかもって、思ったら………」
「優しくしたかった?」
「………」

そう、ただ優しくしたかった。
寂しそうに、見えた。
だから、慰めたかった。
それだけだった。
でも、確かに急に態度を変えた。
きっかけは、昨日の出来事だったのは、本当だ。
それは、同情、なのかもしれない。

「………でも、確かに、同情で、偉そうだった、かもしれない」
「俺に、優しくしたかった?甘やかしたくなった?」
「………うん」

私って、本当に偽善者で嫌な奴。
自分だけ悲劇のヒロインぶって、自分より下の人間を見つけるのに必死。
一段上から見下ろす。
確かに、そうなのかも。

「………ごめん」

素直に謝ると、野口はけれど楽しそうにくすくすと笑った。

「いや、同情上等です。ありがとう」
「は?」

そして膝の上から手を伸ばして、冷たい指が私の頬に触れる。
顔の形を確かめるように輪郭を、なぞる。

「もっと同情して、俺の我儘聞いて、キスして抱きしめて。もっともっと優しくして甘やかして」
「………同情、で、いいの?」
「同情が嫌だなんて言ってないし。そもそもちょっと計算だし」
「は?」

野口は楽しそうに私の顔を触れている。
鼻筋、唇、瞼。
くすぐったくて、変な感じがする。

「いや、母さんのこと知ったら、あんたって割とこういうところ弱そうだから甘やかしてくれるかなあ、って。付け込めるかなと思って」
「………おい」

首筋を辿られて、体がびくりと震える。
ああ、こいつは本当にロクでもない。
そうだよな、こいつが傷ついたり、同情するなとか言ったりするはずがない。
何度騙されても、もう騙されないって思っても、また騙されてしまう。
悔しい。
馬鹿馬鹿しい。
本当にムカつく。

「まあ、母さん確かにちょっと俺のこと放置気味だけど、別に仲は悪くないし。電話は結構するよ。ただ俺よりも父さんが大事すぎるだけ」
「………愛が重くてディープなのは、血筋?」
「あ、そうかも」

くすくすと野口が機嫌良さそうに笑う。
同じ笑い方だけれど、先ほどまでの肉食獣の残酷さは、すっかり消えている。

「同情でもなんでもいいよ。同情も、相手を思いやる感情だと思わない?何が駄目なんだろ。俺は三田が甘やかしてくれるなら、なんでもいい」
「………あんたって、本当に馬鹿だな」
「否定はしない」

野口が、今度は両手を伸ばして、私の頬を挟み込む。
そして少し力を入れて、引き寄せられる。

「ねえ、三田、キスして」
「………」
「三田がいるなら、寂しくない。だからもっとドロドロに甘やかして。あんたなしじゃいられなくなるぐらい、俺を駄目にして」

本当に、なんてこいつが言うことは、どこまでも変態くさいんだろう。
もっと素直に好きだって、言えばいいのに。

「………」

そっと体をかがめて、野口の冷たい唇に触れる。
すぐに離れると、野口の手が、私の首筋を抑えて、更に引き寄せる。

「舌を舐めて、絡めて、吸って」
「………っ」

この変態。
本当に変態。

「三田、好きだよ」

それなのに、こんな変態な台詞に心臓が痛くなる自分は、もっと変態かもしれない。
私はもう一度体をかがめて、自分から舌を差し出した。

野口の口の中は、生クリームの味がした。





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