暗い色のシックなドアを開くと、そこには穏やかに笑う泣きぼくろの綺麗な男性。

「いらっしゃい、由紀ちゃん」
「………ジンさん」

なんだかその優しい笑顔に、全身の力が抜けて行く。
強張っていた心が、ほろほろと崩れて行く。

「よう、しけた顔してるな」
「………」

が、その手前にいる人間の顔を見て、私は即座に回れ右をする。
けれど前と同じように腕をガシっと掴まれる。

「人の顔見て背を向けるとは失礼なガキだな」

器用にくるりと振り向かされて、自信たっぷりのおっさんがにやりと笑う。
自分への自信に満ちた、世の中に何も怖いものなんてなさそうな、嫌みな男。

「なんだ良にふられてめそめそ泣いてるのか?」

くっと片頬を上げて笑う仕草は、野口にどこか似ている。
違う、野口がこの人に似ているのだ。
野口が好きで好きでたまらなかった人。
同化してしまいたいぐらい、好きだった人。
刃傷沙汰を起こすぐらい、好きだった人。
私とは違って、本当に好きだった人。

「っう」

壊れてしまった涙腺から、また涙がこぼれてくる。
おっさんの前でなんか泣きたくないのに、止められない。
悔しい悔しい悔しい。
なんで私は、この人じゃないんだろう。
この人みたいに、野口に好きでいてもらえなかったんだろう。
飽きられてしまったんだろう。

「ったく」

おっさんが泣きだした私に呆れたようにため息をつく。
その馬鹿にした様子にまた悔しさがこみあげて、泣いてしまう。
ああ、こんな風に弱い自分も大っきらいだ。
手を振り払って逃げようとするが、腕は離されない。
それどころかそのまま肩に抱えあげられた。

「なあっ!」
「暴れんな」
「は、離してよ、離せ!」
「黙ってろ、落とすぞ」
「えぇ!?」

そしてそのまま奥のテーブル席の低い椅子に運ばれ、下ろされる。
自分は向かいの席に座ると、いつの間に持ってきていたのか冷たいおしぼりを顔に当てられる。

「つめた!」
「ほら、泣いてんな。泣き顔と寝顔が美人なのは本物なんだけど、そんなレベルの人間はほとんどいないんだよ。泣けば誰だってブスなんだよ。だからせめて笑っとけ」

ひどい言い草にまた涙が出てくるが、こいつの前でもう泣きたくなくて、なんとかこらえようとする。
歯を食いしばって、目をぎゅっと瞑る。

「う、うー」
「うなってんじゃないよ」

おっさんが小さく笑って、顔をおしぼりで拭いてくる。
冷たいおしぼりに、熱を持っていた頬が、少しづつ冷めていって気持ちがいい。

「はい、由紀ちゃん」

いつの間にか向かいに来ていたジンさんが、湯気の立つカップを目の前に置く。
甘い匂いがして、空っぽの胃がぎゅっと萎む感じがした。

「僕も、由紀ちゃんは笑っていた方がかわいいと思うよ」

優しく穏やかな笑顔で、ジンさんが目尻に溜まっていた涙をはらってくれる。
長い指から私の涙がこぼれて、キラキラと光った。
その温かい手が気持ち良くて、穏やかな気持ちになっていく。
何度か深く深呼吸をして呼吸を整える。

「ありがと、ございます」
「どうしてジンには素直かね」
「自分の胸に聞いてください」

ぼやくおっさんを無視して、ジンさんが私の手にガラスで出来た耐熱性のカップを掴ませてくれる。
手からじわりと、中の飲み物の熱が伝わってくる。
一口飲むと、やっぱり牛乳の味。
けれど、それと共にいつもとは違うアルコール臭がした。

「………これ、お酒?」
「そ、ちょっとだけね。あったまるよ」

なんか大人扱いしてもらった感じがして、ちょっと嬉しくなる。
カップを持つ手を、ジンさんの細く長い指が覆う。

「ほら、こんなに指先が冷えてる」

もうそろそろ秋も半ば。
体は思ったよりも、冷えていたらしい。
私はもう一口温かい飲み物を啜る。
アルコールはほんとに微かみたいで、牛乳と砂糖の甘さにゆるゆると気持ちよくなっていく。
胃が温まって、体全体が温まっていく。

「おいし」
「そう、よかった」

そのまま私が飲み物を半分ぐらい飲むまで、じっとおっさんとジンさんは待っていてくれた。
今日は、ジンさんのメールで呼び出された。
野口のことだなってのいうのは、分かった。
行きたくないっていうのが、4割。
でも、行って、ジンさんにアドバイスしてもらいたいっていうのが、6割だった。

「今日来てもらったのはなんだけど」

カップを持った手が震えて、中身の液体が跳ねた。
中身が半分なくて良かったと思う。

「由紀ちゃん、良のこと、ふったりした?最近あいつ荒れてるけど」

心配そうなジンさんの言葉に、俯きがちだった顔を上げる。
勢いよく顔を横に振って、勢いこんで口を開こうとする。

「ひっく」

さっき泣いていたせいか、アルコールのせいか、みっともなくしゃくりあげてしまう。
それにジンさんが小さく笑うが、なぜだかジンさんに笑われても悔しくはなかった。

「ゆっくりでいいよ」

頷いて、一度大きく息を吸って、吐く。
そしてゆっくりとそれを告げる。

「私が、ふられたん、です」

ジンさんが綺麗な泣くぼくろが印象的な目を何度か瞬かせる。
そしてコミカルな感じで首を傾げる。

「嘘?」
「本当、です」

なんでこんなことで嘘を言わないといけないんだ。
返す言葉はちょっと強くなってしまった。

「もういいから、別れようって。飽きたって」

言ってみて改めて思うけど、あいつ最低だな。
本当に最低。
それなのに、私はまだ、あいつが諦めきれない。

「んー」
「うーん?」

ジンさんとおっさんは顔を合わせて怪訝そうな顔で唸る。
そしてしばらくして、おっさんが私に向き合う。

「あのな、由紀」
「………」

なんでいきなり呼び捨てにされてんだよ。
って思うけど、今言っても仕方ないから黙っておいた。

「あいつの執念深さは、痛い」

なんだいきなり。
真面目な顔して、おっさんは深い深いため息をつく。

「そりゃもう痛い。何度犯罪スレスレになったか分からない。あいつが捕まってないのは一重に周りの努力とあいつが未成年で見た目がそこそこいいからだ」

あいつって、野口のことだよな。
おっさんの突然の言葉に、びっくりして涙も何もひいてしまう。

「あいつが成人してて、見た目がデブのハゲだったら間違いなく捕まってる」

どういう言い草だ。
ていうか見た目であれこれってひどいな。
でもまあ、そうか。
野口がデブでハゲのおっさんだったら、あんなセクハラかまされた時点でアウトか。

「なに、を?」
「それくらい、一人の人間に執着するってことだよ。ハラキリして無理心中しようとするぐらいは軽いぐらいに執念深い」

過去を思い出したのか、痛そうに顔をしかめるおっさん。
ジンさんも、困ったように笑う。

「あの子が恋をしてね、あの子からふったことなんてないんだ。絶対に周りに多大な迷惑をかけて無理矢理引き離すっていうのがいつものことだからなあ」

どんだけ危険物扱いなんだあいつは。
そして小さな声で、ぼそりと言った。

「由紀ちゃんがあの子嫌いになったら、厄介だなあって思ってたんだよね」

それはどういうことだ。
ていうかそんな危険な人物と、積極的に私にくっつけようとしていたのか。
私の視線にジンさんは、小さく首を傾げる。

「ほら、やっぱり現役女子高生をキズモノにする訳にはいかないじゃない?」

だからそんな危険物をお勧めしてたのか、この人は。
というかあいつは今までどんなことをしてきたんだ。
あまり知りたくないな。

「だから、あの子からふるってことはないと思うんだよね」
「それくらい、私が、駄目だったって、ことじゃないですか」

そりゃ、今までの好きになった人なら、一番好き、だから執着するんだろう。
でも私は三番目だ。
かわいくもない綺麗でもない性格もよくもない、三番目に好きな人間。
だからすぐに飽きて、捨てられるのだ。

「卑屈だな」

つまらなそうにおっさんが吐き捨てる。
睨みつけると、芝居じみた仕草で肩をすくめてみせた。

「卑屈な女は一番かわいくないね」
「おっさんうっさい。おっさんにかわいくないって言われてもどうだっていい」
「私ってかわいくないでしょって聞いて、ジンからかわいいよって言われるの待ってるんだろ?鬱陶しい女」

その言い方は、デジャヴを感じる。
ああ、本当にあいつはこのおっさんにそっくりだ。

「………」
「お、言い返してこないのか」
「ホントの、ことだから」

悔しくて悔しくて、引いていた涙が、また目尻に浮かんでくる。
どうせ、私はかわいくない。
どうせ卑屈で、鬱陶しい。
ブスの性格ブス。

「私、卑屈で、卑怯だから、美香にもひどいこと、するし、いっつも人に迷惑かけてばっかりだし、どうせ性格ブスすぎるし、鬱陶しい」

わがままで、意地っ張りで、人を傷つける。
自分が一番不幸って顔をしながら、周りを同じように傷つけようとする。

「だから、美香も野口も、私のこと、嫌いになるの、当たり前」

カップの中の液体に、ぽたりと何かが落ちて、波紋が広がる。
頬が、また濡れて行く。

「ひぃっく」

息がつまって、情けなくしゃくりあげる。
おっさんが頭をぐしゃぐしゃとかき回して、呆れたように言う。

「なんか開き直った上に泣き始めたぞ。だから泣くなって、ますますブスになるぞ」
「傷ついてる子更に追い詰めてどうするんですか」

ぐいっとおっさんを押しのけて、ジンさんが私の前に座りこむ。
そしてそっとその温かい手で、私の手を包み込む。
優雅な仕草で、どこか女性的な、綺麗な人。

「ねえ、由紀ちゃん、美香ちゃんと喧嘩しちゃったの?」
「美香に、ひどいこと、言っちゃった」
「謝ってないの?」
「………まだ」

そう、と言ってジンさんはぎゅっと私を包む手に力を込めた。
そして綺麗な泣きぼくろの目で、私を優しく見つめてくる。

「仲直りしたくない?」
「………したい、謝りたい」

声は消え入りそうなほど小さくなった。
でも、まだ勇気が出なかった。
藤原君と話した次の日に、謝ろうと思ったけど、ジンさんからメールが来たから今日は無理って思って引き延ばした。
そうやって嫌なことを引き延ばす。
卑怯な私。
臆病な私。

「じゃあ、まずはそっちを片付けようか」
「へ」

そう言うと、にっこりとジンさんは綺麗に笑った。
私の手を離すと、ポケットから携帯を取り出す。

「美香ちゃんを呼び出してみよう」





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