今日もまた、ぱんぱんに腫れていて、みっともない顔をしている。 今までの悩みに付け加えて、もうひとつ圧し掛かる、重い気持ち。 鬱々とした心は、真っ黒な雲が立ち込めて、晴れ間を見せることはない。 どうしたら、この痛みと、重みと、苦しさと、お別れ出来るのか、検討もつかない。 「最近暗い顔してるわね、喧嘩でもしてるの?」 「え」 味のしない朝食を作業的に口に運んでいると、お母さんがそんなことを言った。 昨日美香と喧嘩したことが、バレたのだろうか。 帰ってきた時は、普通のふりをしたけれど。 「野口君と。家にも来ないし」 「………」 そっちか。 確かに野口を家に連れてくることはなくなった。 私の顔が歪んだのが分かったのか、お母さんが呆れたようにため息をつく。 「やっぱりね。あんた怒りっぽいんだから、喧嘩したんならすぐ謝るのよ」 「私が悪いんじゃない!」 「やっぱり喧嘩してるんだ」 「………」 悪戯っぽく笑うお母さんに苛立ちが募る。 したり顔で、口を出してほしくない。 親には、触られたくない場所だ。 話したくなくて、朝食を終えて立ち上がろうとする。 「まあ、あの子も癖がありそうな子だったしね」 「え」 「ちょっと出来すぎでしょ」 しかしお母さんはお茶を淹れながら、のんびりとそんなことを言った。 まるで野口を非難するような言葉。 うちに来た時は、あんなに愛想よくして、大絶賛だったのに。 「………お母さん、あいつ気に入ってたんじゃないの?」 「気に入ってたわよ。礼儀正しい、いい子だし。ただ、あの年であそこまでそつがないとちょっと可愛げないわよね。もっとこう、子供らしさがあってもいいと思うわ。裏で何考えてるのかなとか思っちゃう」 まあ、確かにあいつの礼儀正しさは胡散臭い。 そつがなさすぎるのが可愛げないっていうのは、分かる。 「………」 「あの年であんな落ち着いてるって、どんなことしてきたのかしら。もうちょっと馬鹿しててもいいのにね」 しかしあんなに愛想よかった裏で、お母さんはこんなことを考えていたのか。 あんなに褒めてたのに。 あんなに気に入ってたみたいなのに。 なんか、もやもやする。 「………別に変なことしてないよ。あいつ、ご両親がいないこと多いから、しっかりしてるだけだと思う。なんか、昔からバイトとかいっぱいしてて、大変だったみたいだし」 確かにあいつの礼儀正しさは、胡散臭い。 実際私の前と全然態度が違うし。 だけど、それは、あいつは客商売だったし、大人に囲まれてたし、ご両親が放ったらかしで苦労したからだと思う。 別に、悪いことじゃ、ない。 ないよな。 なんか言ってて自分で疑問になってきた。 「ふふ」 語尾がフェードアウトしていった私に、お母さんが小さく笑う。 顔を上げると、お母さんはにやにやと私を見ていた。 「何よ」 「ううん。あんた本当に野口君のこと好きなのね」 「なっ!!」 いきなり訳のわからないことを言われて驚き、足をテーブルにぶつけてしまう。 なにやってるのよと、苦笑しながらお母さんが位置のずれたお皿を直す。 「いやー、もうそんな彼氏をかばっちゃって。大丈夫。ちょっと子供らしくないって言っただけで、私野口君好きよ。何より出来の悪いうちの娘を好きになってくれた子だしねー」 湯呑みを机の上に置いてくれて、何も言えない私に優しい声で言う。 「あんたもすっかり女の子らしくなったわね。さっさと仲直りしなさいよ」 そんなの、出来てたら、している。 その言葉に、ずっしりと、また心が一つ重くなった。 「今日はどうしたの、三田」 藤原君はいつものように優しく笑って、写真部の部室に現れた私を迎えてくれた。 電気をつけてないぼんやりとした日差しに包まれた部屋は、不思議な匂いがする。 「あの、さ。大丈夫?」 「うん、平気。誰もいないし。あ、座りなよ」 「ありがとう。今日もいないんだ」 「集まり悪いからなあ」 何度か来たことのあるこの部室は、人がいたりいなかったり。 皆好きな時に活動して、好きな時に帰っていくようだ。 運動部とは大違い。 メールで話をさせてといったら、ここに呼ばれた。 確かに、人気もないし、ちょうどいい。 「どうしたの?」 藤原君が作業をしていた手を止めて、柔らかい声で聞いてくる。 多分、用件は分かっているだろう。 今日は一度も、話もしなかった。 近づきもしなかった。 お互いを見ないようにしていた。 「あの、ね。その」 「うん」 『さっさと仲直りしなさいよ』 お母さんの言葉が、心にこびりついてはがれない。 それは野口に向けたものだったのだろうけど、今の私は別の人間へ向けた言葉に聞こえた。 「あの、あのね」 「うん」 ひどいことを言った。 最低なことを言った。 八つ当たりで、人を傷つけた。 どこまでも最低。 私は傷ついているから、人だって傷つけてもいいと考えている。 「美香、ね」 「うん」 藤原君は辛抱強く聞いてくれる。 椅子に座った私の目の前まで来て、しゃがみこんで視線を合わせてくれた。 その優しい目に、胸がぐっと、つぶされるような感じがした。 「………美香、怒ってた?」 『私だって、由紀のそういうところ、大っきらい!』 叫ぶような声が、耳から離れない。 分かってる、私が悪い。 全部悪い。 八つ当たりをした。 私のことを考えてくれる美香が、鬱陶しくて仕方なかった。 私は傷ついているんだから、もっと優しくしろって思った。 余計なことを言うなって思ってた。 『自分の都合のいい言葉しか、必要じゃないんだよね、三田は。自分に厳しい言葉は聞かないふりをする。いいね、人間らしくて』 野口だったら、そんなことを言うかもしれない。 正論を言う美香に、腹が立って仕方なかった。 「いや、違う、怒ってるよ。怒ってるよ。そりゃ怒るよ」 「三田」 「分かってるんだ、私が悪いんだ。美香が怒るのは当然だよ。そりゃ怒るよね。怒るよね」 自分勝手で、自分の都合のいいように動かない友達にキレる。 最低。 そんなの、友達って言えるんだろうか。 親友だって、言えるんだろうか。 「私」 美香が怒るのは当然。 むしろ、今まで良く美香は、私を見捨てないでいてくれた。 こんな面倒で、最低な女と、友達でいてくれた。 「………私、嫌われちゃった、かなあ」 鼻がツンと、しびれるように痛くなる。 声が、震える。 目が、熱くなる。 「………美香、私のこと、嫌いになったかなあ」 藤原君の顔が見れなくて、俯いて自分の膝を見る。 傷だらけの、汚い膝。 美香の、つるつるの綺麗な足とは、違う。 「雪下も、落ち込んでたよ」 藤原君の、優しい声が、聞こえる。 ズキズキと、胸が痛くなる。 傷つけた。 優しい友達を、傷つけた。 「………」 「三田が落ち込んでたのに、余計なこと言って、傷つけたかなって。色々したのって、おせっかいで、余計なお世話だったのかもって。もうちょっとそっとしておけばよかったのかもって」 おせっかいで余計なお世話。 確かにそうだ。 余計なお世話だった。 放っておいてほしかった。 そっとしておいてほしかった。 色々言わないでほしかった。 「雪下、あんまりそういう後ろ向きなことこと言わないから、すごい珍しい」 でも、私のこと考えてくれてた。 真剣に考えてくれてた。 ずっと傍にいてくれた。 だから私は、一人でいなくてすんだ。 「三田に嫌いって言われたの、すごいショックだったんだと思う」 胸が痛い。 キリキリする。 罪悪感で押しつぶされそう。 人を傷つけるのって、こんなにも痛い。 美香を傷つけて落ち込ませたのが、こんなにも痛い。 「三田、雪下のこと嫌い?」 「………嫌い」 膝の上の手を、ぎゅっと握る。 握って握って、痛くなるぐらい、握りしめる。 そうしないと、泣いて叫んでしまいそう。 「かわいくて、性格よくって、なんでも出来て、なんでも持ってる。大っ嫌い。一緒にいると自分がみじめになる」 一緒にいると、どんどん自分の汚さが分かってくる。 外見もそうだけど、どこまでもまっすぐで強くてかっこいいその性格が、羨ましくて仕方ない。 なりたいのに、なれないのが分かって、悔しくて、苦しい。 かわいいかわいい、かっこいい美香。 「………でもね、好き」 一緒にいるの嫌だって思っても、それでも、話してると楽しい。 一緒にいて、笑いあえる。 甘えて甘やかして、喧嘩して、それでも、楽しくて。 「優しくて、強くて、朗らかで、私をひっぱっててくれて、甘えてくれるところ、好き」 由紀は強くてかわいいよって言ってくれる。 美香が甘えてくれると、優越感が生まれて、少し自分が強くなったように感じる。 弱気になった時に、無理矢理にでも引っ張っていてくれる。 一緒にいるのが、楽だ。 一緒にいて、楽しいんだ。 「好きなの」 一緒にいたい。 美香に笑っていてほしい。 美香と一緒に、笑っていたい。 傷つけたことを謝りたい。 八つ当たりしたことを、謝りたい。 「じゃあ、簡単だよ。仲直りすればいい」 顔を上げると、藤原君が困ったように笑っていた。 優しく優しく、笑っていた。 「それを言えば、雪下は喜んで仲直り出来る」 「………出来る、かな」 「出来るよ。簡単。雪下だって仲直りしたがってる」 『でも、由紀が好きなんだからね!』 最後に聞こえた声。 あれを信じても、平気? 私は美香に嫌われてない? 「本当、に?」 「本当」 臆病で卑怯な私は、確証を欲しがる。 美香に謝って、それでも許されなかったらと思うと、怖くて足を踏み出せない。 自分が傷つかない場所にいようとする。 確かにそうだよ、美香。 なりふり構わず体当たりする勇気は、私にはない。 「それに三田が卑屈で、雪下に反感を持つのって、初めてじゃないだろ」 「………」 「雪下はもう慣れっこだよ」 少し馬鹿にしたように言うから、面喰う。 藤原君がこんな、人をけなすようなことを言うのは珍しい。 「………藤原君が、そんな意地悪言うなんて、意外」 「だって俺、雪下の彼氏だから、雪下の味方だし」 「………」 藤原君は、にやりと、これまた似合わない意地悪な笑いを浮かべる。 誰にでも優しい八方美人の優柔不断な藤原君には珍しい、真っ直ぐな言葉。 「雪下を泣かした三田にちょっと怒ってるし」 そして藤原君はまた優しく笑った。 「雪下がめちゃめちゃ三田が大好きなのを、嫉妬してる」 胸がいっぱいになって、溢れそうだ。 熱くて熱くて、苦しい。 「あっは」 熱い気持ちを吐き出すと、それは震えた声だったが、笑っていた。 どこまでも優しい、大好きな人。 大好きだった人。 そして今も、また別の気持ちで好きな人。 「雪下、三田が最優先なんだもんなあ」 大好きな人達。 優しい美香。 優しい藤原君。 何度も見失う。 何度も傷つける。 何度も忘れてしまう。 それでも、傍にいてくれる人達。 私がどんなに馬鹿でも、待っていてくれる人達。 見捨てないでいてくれる人達。 「あははははは、あは、ごめんね」 「本当だよ。三田が落ち着いてくれないと、俺と雪下がラブラブできない」 「あははは、ごめんね。美香、私のこと好きだから」 「ほんと、ひどいよなあ」 口をとがらせて、拗ねたように頭を掻く。 かっこいい藤原君のそんなおどけた姿は、似合わなくて笑ってしまう。 「だから、早く、元通りの元気な三田になって」 優しい目で見つめられて、心がほわほわとしてくる。 なんだろう、美香とも違う、野口とも違う。 やっぱり、私は藤原君が好きだな。 前みたいな熱さは、今はもうないけれど。 「やっぱり、藤原君は優しいなあ」 「そうかな」 「うん。それで、強くなって、もっとかっこよくなった」 自分の意志をはっきりさせることが出来る強さ。 優柔不断で優しいばかりだった人が、変わった。 一人を選ぶことが出来るようになった。 その変化が、彼をより魅力的にしている。 「美香の、おかげだね」 「うん、そう思う」 それは美香が、彼に与えた強さ。 強い美香は、藤原君も強くした。 そしてきっと美香も、藤原君に強さと弱さをもらっているのだろう。 「前にも言ったけど、三田はかわいくなった」 「………そう?」 「うん、野口の、おかげだと思う」 そうなのだろうか。 私は、かわいくなれているだろうか。 そして、私は野口に何かをあげれていたのだろうか。 藤原君が強くなれたように、私は野口に何かを、あげられていた? 私はもらうばっかりだったのではないだろうか。 「あのさ、あのね」 「うん」 「………野口さ」 ずっと聞けなかった。 怖くて聞けなかった。 決定的な言葉怖くて、聞けなかった。 野口の親友の藤原君なら、断定的な言葉を言われてしまうんじゃないかと思って、怖くて聞けなかった。 「野口はさ、私のこと、嫌いに、なったの、かなあ」 ずっとこらえていたのに、目から熱いものが溢れてしまう。 ああ、もう本当に涙腺がぶっ壊れているなあ。 やだな、こんな同情を引くようなの。 「嫌いに、なっちゃったの、かなあ」 声が震えて、うまく話せない。 鼻が詰まって、息がうまく出来ない。 「わた、私さ、性格、悪いし、かわいく、ないし、体だって、貧相だし、殴って、ばっかり、だし、野口のこと、気遣ったり、とか、しなかったし」 いいところなんてない。 何もない。 それでも好きだって言ってくれた。 それでもいい言ってくれた。 言ってくれて、いた。 「やっぱり、嫌いに、なっちゃ、たの、かなあ」 やっぱり、それはもう過去のものなのだろうか。 私の汚いところいっぱい見て、嫌いになっちゃったのだろうか。 「俺が聞いても、はぐらかすけどさ」 「………」 鼻水が出そうで、鼻をすすると、ずっとみっともない音が出た。 ああ、今、みっともない顔してるんだろな。 痛みに備えて、もう一度手をぎゅっと握る。 「でも、俺は多分、野口は三田のこと、嫌ったりしてないと思う」 顔をあげて、藤原君の顔をじっと見る 藤原君も真面目な顔で、じっと私を見る。 嘘は、ついてないと、思う。 それは私の希望かもしれないけれど。 「野口が嫌いになったら、存在すら目に入れないと思うんだよね。完全に無視すると思う」 「………うん」 確かにそうだ。 あの男は、興味のないものは完璧に無視するだろう。 だからこそ、今、私は目を逸らされる。 なかったものに、されている。 「でも、野口、気にしてるよ。三田のこと、気にしてる」 「うそ」 「本当。目が追ってる。教室に入った時に、必ず見る。姿を探してる」 教室入った時、必ず目が合う。 廊下を歩いていて、目が合う。 その度にそらされて無視されて、心が酷く痛んだ。 苦しくて泣きだしそうだった。 「………本当、に?」 でも、なぜ、目が合うの。 私は、つい野口を目で追っていた。 だから、私が野口を見ているのは、分かる。 でも、目が合うのは、なぜ。 「それは本当。でも、俺はそれ以上分からない。俺にはそれ以上聞きだすことが出来ない。だから、三田、辛いと思うけど、聞いてみて。三田が問い詰めたら、きっと、言うと思うんだ。何考えてるか」 藤原君が困ったように眉を寄せて笑う。 そして小さく、悪戯をする子供に呆れたようにため息をついた。 「あいつさ、ひねくれてて性格悪くて、そんで結構子供だと思うんだよね。時々すっごい馬鹿なことするし。だから、また馬鹿なこと考えてるんじゃないかなあ」 少しだけ、力が、湧いてくる。 動けなかった足を、踏み出す勇気が、ほんの少しだけ、沸いてくる。 「でも、怖い、よ」 「大丈夫。三田は強い。三田はかわいい。三田はすごい、いい子だから」 藤原君が立ちあがって、私の頭を撫でる。 優しく優しく撫でる。 「本当に?」 「本当に。三田はすごい、かわいいよ」 見上げると、目を細めて、力強く頷いてくれた。 どうしてだろう。 野口に言われても、美香に言われても、ひねくれた気持ちしか浮かばないけど、この人に言われると温かい気持ちになる。 力が沸いてくる。 この人が私を否定する言葉なんて言わないと分かっているのに。 誰にでも優しい人だと分かっているのに。 それでも、その言葉を受け止められる。 「………ありがと」 鼻をすすってお礼を言うと、藤原君はにっこりと笑った。 そのまましばらく黙って、私が落ち着くように頭を撫でてくれる。 その温かい手に、じわりじわりと、萎えた心に力が戻ってくる。 信じたい。 藤原君の言葉を信じたい。 もう一度、頑張れるだろうか。 頑張りたい。 「藤原、今日さ」 その時がらりとノックもなしに無遠慮に教室のドアが開いた。 その中性的な声に、全身の血が凍ったように、一気に体が冷たくなる。 温かかった気持ちが、萎んでいく。 「失礼。出直すわ」 眼鏡の男は部屋の中にいた私と藤原君を一瞥すると、表情を動かなさいままドアを閉める。 その瞬間、頭が真っ白になって、椅子から飛び降りていた。 こけそうになって、床に手をついて、それでもそのままそのまま走り出す。 「野口!」 ドアを開くと、その薄い背中はまだすぐ傍にいた。 何も考えられないまま、その背中を追う。 「野口、待ってよ!」 野口は速度を変えないで歩き続ける。 行かないで。 お願い、行かないで。 私に笑って。 私に優しくて。 前みたいに、皮肉を言いながら、それでも抱きしめて。 キスをして。 「………頼むからさ、三田」 シャツを掴むと、野口がようやく立ち止った。 そしてゆっくりと振り返る。 久々に間近で見た、冷たい細い目は、やっぱり表情を見せない。 疲れたようなため息の音に、心臓がキリキリと痛む。 「俺を追いかけないで。俺を見ないで」 手から力が抜けて、シャツを離してしまう。 そしてまた背を向けられる。 そのまま私を置き去りにして、華奢な男は歩いていく。 「………う、く」 涙がぼろぼろと溢れてくる。 止められない。 痛い痛い痛い痛い。 苦しい苦しい苦しい。 野口が好きだ。 好きだ好きだ好きだ。 だからこんなにも、胸が痛い。 こんなにも苦しい。 振り払われて痛い。 背を向けられて、死んでしまいそう。 ああ、それでも。 それでも。 諦めたくない。 諦めたくないよ、美香。 私は、野口を諦めたくない。 諦めたく、ないんだ。 |