どこにいても、何をしていても、ついつい零れてしまうため息。 こんな風に美香の部屋でお茶をしていても、会話は耳から抜け出て、思考は上の空。 「由紀、由紀ってば!」 向かいに座っていた美香が、何度か私の名前を呼んでいるようにようやく気付く。 顔をあげると、美香が頬を膨らませて口を尖らせていた。 「え、あ」 「もう、聞いてる?」 「えっと、ごめん、なんだっけ」 全然、聞いてなかった。 こんなこと、最近しょっちゅうだ。 気を使ってくれている美香には、本当に悪いと思う。 でも、どうしても気分が晴れない。 いつだって気持ちが暗い所に引っ張られていく。 何もかもに身が入らない。 「………」 「ごめん」 目を細めて私を見ている美香に、もう一度謝る。 さすがに、そろそろ怒られるだろうか。 親友は、困ったように肩をすくめて、小さくため息をついた。 「あのね」 「うん」 「やっぱり、由紀は、もう一回野口君と話すべきだと思うんだよ」 この前から、何度か言われている言葉。 そのたびに、何度もはぐらかした。 私だって、このままじゃどうにもならないとは、思っている。 でも、そんな勇気はでない。 また手を振り払われたら、どんなに痛いだろう。 そんなことを思うと、足が動かない。 もうあんな痛い思いは、したくない。 「………何を」 「だって、納得出来てないでしょ?もう二週間になるのに、ずっと由紀はそんな様子だし」 「………ごめん」 「謝ってほしい訳じゃないよ。そりゃ、ふられるって辛いし、まだまだ、傷は癒えないよね。それは、仕方ない」 分かったようなことを言う美香に、軽く苛立つ。 仕方ないって、こんな気持ち、あんたには分からないだろうに。 なんでも持っている美香に、このみじめで情けない気持ちは、分からない。 消えてなくなりたくなるような、いたたまれない気持ちは分からないだろう。 「………」 このまま何もなかったことにして、日々を過ごして行けば、いつかは忘れられるんじゃないか。 そんなことすら思ってる。 藤原君のことだって、痛みは薄れている。 あんなに好きだった人なのに、もう過去のことになっている。 それなら、野口のことだって、心の奥底にしまって、忘れてしまえるんじゃないだろうか。 もう少ししたら。 もう少し見ないふりをしていたら。 「でもさ、こんな一方的なの、やっぱりない。ちゃんと理由、聞こうよ。だって、私の目から見ても、野口君は絶対、由紀のこと好きだったよ」 「………飽きたんだよ」 「本当にそんなこと言った?」 「………言った」 確かに、言った。 飽きないわけじゃないって、言われた。 たった一回寝ただけで、私は飽きられた。 それだけ貧相な体。 それだけどうでもいい性格。 価値のない、私。 「もいっかい、聞こうよ。それで、本当に駄目なら、諦めよう。こんなの、おかしいよ」 今日の美香は、とてもしつこい。 いつもなら、この辺でひいてくれるのに。 どうしたら聞けるんだ。 もう一回、自分がゴミみたいなものだって、思い知るのか。 「聞けないよ」 「どうして」 「………そんな、ふられた女が、いつまでもウジウジと付き纏うって、………鬱陶しいじゃん」 何この女、ふられたくせして鬱陶しいって、思われたら、嫌だ。 ますますみじめになるのは、もう嫌だ。 美香は眉を寄せて、首を傾げる。 「鬱陶しいって、野口君のこと気にしてるの?野口君が悪いんだから仕方ないじゃん」 「違う」 「じゃあ、何?」 「………恥ずかしいじゃん」 「恥ずかしい?」 美香がますます不思議そうに目を丸くする。 ああ、本当に鬱陶しい女。 嫌な女。 こんな気持ち、美香には絶対分からないんだろう。 美香はかわいい血統書つきで、私は薄汚い野良犬で、美香には絶対、泥の中を這いつくばる気持ちなんて、分からない。 「だって、なんで、そんな、みじめな、こと、したくない」 美香が、眉を吊り上げる。 少し怒ったような顔は、それでもやっぱり、美人でかわいい。 どこまでも、嫌な女。 「みじめでも、恥ずかしくもないでしょ?だって。こんな一方的なふり方、ないよ。野口君が悪い。嫌いになったなら嫌いって言えばいい。そしたら一発殴って、忘れられる。縋って、嫌いにならないでって言える」 そんなこと、出来る訳がない。 縋りつくなんて、出来ない。 「いやだよ、みっともない」 「何がみっともないの。何もみっともなくなんてない」 我慢できなくなった。 知ったような顔で説教をする親友に、苛立って仕方なくなった。 「あんたには分からないよ!」 頭に血が上って、ついに吐き出してしまう。 胸の奥にしまいこんでいた言葉が、出てきてしまう。 「あんたみたいにかわいくって、ふられることない奴に、私の気持ちなんて、分かりっこない!勝手なことばかり言わないで!」 どうせ縋りつくことなんてないんだろう。 男どもは皆、あんたに縋りつくほうだ。 私の気持ちも分からないで、勝手なことばかり。 美香はびっくりしたように目を丸くしていた。 その顔に、残酷な気持ちがわき上がる。 こいつを傷つけてやりたい気分になる。 「………」 「あんたぐらいかわいけりゃ、そりゃ、そういうこと出来るだろうけど、私にはできない!私みたいのは、またこっぴどくふられるだけでしょ!分かったように色々言わないでよ!ウザイ!」 ちょっと言いすぎたかと思ったけど止められなかった。 頭の片隅のちょっと冷めた部分では、これは八つ当たりかもしれない、と少しだけ思った。 「もう、放っておいて!」 でも止められなくて、私は立ちあがった。 そのまま美香の部屋を出て行こうとする。 しかし、美香の横を通り過ぎる時に、腕を掴まれる。 「どっちがウザイのよ!」 「………っ」 そして、私を見上げて眉を吊り上げた美香は、叫ぶように私に言葉を叩きつけた。 腕をつかんだまま立ちあがって、私の正面に立つ。 頭半個分小さい、美香の華奢な体。 「みっともない、みじめって、由紀、そんなのばっかり!藤原君の時だってそう!分かったようなフリして身を引いたりしてさ!」 急に藤原君の時のことを持ち出されて、面喰う。 そしてその言葉の意味を理解して、また頭に血が上る。 あの時どんだけ悩んでいたのか、こいつには分からないのか。 「なっ!誰が、分かったようなフリして身を引いたって言うのよ!私がどんだけ悩んだと思ってんだよ!」 「これみよがしに私に譲るとか、いい子ぶってさ、一段上から目線で本当にウザイ!それで私は親友に彼氏を譲ってあげるいい子?綺麗な自分!?笑っちゃう!」 「っ!」 黙らせたくて掴まれた左手ではない右手で、美香の白い頬をはたく。 パン、と小気味いい音がした。 「……っ」 叩いてしまった自分の方が動揺して、一歩後ずさる。 するりと掴まれていた左手が、離される。 泣くか怒るかと思っていた美香は、しかし予想に反して頬を赤くしたまま静かな表情をしていた。 そして美香らしくなく馬鹿にしたように笑う。 「結局由紀は、何より自分が好きなだけでしょ。藤原君だって、そんな好きじゃなかったんでしょ。私だった例え誤解だろうとなんだろうと、付き合い続ける。離さない。自分のものにしておく」 そんなの、出来るものならしたかった。 でも、私になんか、彼をつなぎとめておくことはできなかった。 私の葛藤も知らないで、この恵まれた女は勝手なことばかり言う。 「そんなの、あんたがかわいくて挫折なんて知らないからでしょ!最初からかわいい奴は苦労なんて知らないんだよ!」 「私がどれだけかわいくいるために時間かけてると思ってるのよ!ものすごい努力してるんだから!」 「でも、スタート地点が違い過ぎるし、絶対、私より得して人生歩んでる!」 「はあ、何それ?損とか得とか、バッカじゃない?だからウザイのよ!自分だけが努力してて、自分だけが悩んでると思わないで!私だってふられたことだってあるし、挫折や苦労だって一杯あるんだから!私がなんでも持ってると思わないで!」 心の底から絞り出すような声に、言葉を失った。 言葉の意味ではなく、本気で怒った美香の剣幕に、圧倒されていた。 藤原君との時だって、こんなに怒っていなかったかもしれない。 私はびびって、何も言うことが出来ない。 「結局、由紀は何より自分が大切。大好き。自分が傷つきたくない。だから藤原君も捨てる。野口君も追いかけない。自分が傷つかないところで、自分を守る。ギリギリで、自分が綺麗なところにいようとする。何もしない。それでいて妬んでばっかり。恨んでばっかり。藤原君を、私を、野口君に、原因を押し付けるだけ。それで自分は被害者の可哀そうな私って言ってられる」 だって、私の、何が悪いんだ。 全部全部、あんた達が悪い。 かわいくて性格がいいあんたが隣にいるのが、悪い。 藤原君が嘘をつくから悪い。 野口が、私を勝手にふるから、悪い。 私は何も悪くない。 「私が、由紀にそういうこと言われる度に、どれだけ嫌な気分だったか、分かってる?野口君が何を考えてるとか、考えたことある?野口君の気持ちとか、想像したことある?」 あんたの気持ち? 知るもんか。 どうせ、心の奥底では私を馬鹿にしてるんだろう。 ブスのくせに、浮かれて馬鹿みたいって思ってるんだろう。 野口の気持ち? そんなのわかるもんか。 あんな男の気持ちなんて、何一つ分からない。 私はただ、振り回されるので精いっぱい。 あいつが全部全部、悪いんだ。 「何が汚い?何がブス?何が私には分からない?そんなの分からないよ!由紀はなによりも性格がブスなのよ!」 「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」 「ほらそうやって耳が痛い言葉は耳をふさぐ!」 だって聞きたくない。 そんなの聞きたくない。 痛い言葉は嫌い。 もう痛い思いはしたくない。 もうごめんだ。 それを突き付けるこの女が、だいっきらいだ。 「うるさい、あんたなんて大っきらいだ!」 言った瞬間、美香の顔がくしゃりと歪んだ。 子供のように頼りなく途方にくれた顔をして、唇を僅かに震わせた。 その瞬間、胸にどうしようもない痛みが突き刺さる。 違う。 違う違う違う。 違うんだ。 こんなことを言いたいんじゃない。 「私だって、由紀のそういうところ、大っきらい!」 けれど、美香は唇を噛みしめて、そう言い放った。 その言葉は微かに、震えていた。 私は耐えきれなくなって、バッグを持って部屋から出て行く。 「でも、由紀が好きなんだからね!」 最後に完全に鼻声になった声が、背中を追いかけてきたけど、聞こえなかったふりをした。 |