「三田ー!とれ!」 取れると思っていたボールは、私の横を抜け、凡打はヒットとなる。 私は慌ててボールを追いかけるがそれは遅すぎて、ランナーがホームを踏んだのが横目で分かった。 先輩の怒声が、遠くに聞こえる。 埃まみれになった白いシャツの薄汚れた感じに、なんとなく嫌悪感を抱いた。 練習後にグラウンドをならしていると、1年の指導をよくしてくれている2年の北浦先輩に肩を叩かれた。 刈りこむぐらいに短いショートカットがよく似合う、背の高いかっこいい先輩。 「三田、なんか調子悪いね」 「………すいません」 「ま、うちはそんな熱い部じゃないからいいけどさ。もっと気合いいれなよ」 「はい、ありがとうございます!すいません!」 ここ最近、ずっとこんなだ。 やんわりとした先輩の窘めが、耳に痛い。 多分、部長達に気合い入れてこいとか、言われてるんだろうな。 北浦先輩にも迷惑かけてしまって、すごい申し訳ない。 「体の具合悪いとかだったら言ってね」 「はい、本当にすいません」 「いいよ。じゃ、しっかりね」 困ったように笑う北浦先輩に、もう一度頭を下げた。 これでも直らなかったら、きっと部長直接だな。 しっかり、しないと。 もう一度トンボを抱え直すと、今度は同級生の沢口が心配そうに肩を叩く。 「由紀、大丈夫?」 「うん、平気。ありがと」 「最近本当に調子悪いよね。どうしたの?」 まだ、私が野口とふられたってことは、そんなに知られていない。 クラスメイトはどこか訝しんでいるようだが、美香がうまいこと私にくっついてフォローしてくれている。 それでも、知られるのは、時間の問題だろうけど。 ああ、面倒くさい。 嫌だな。 またあの好奇心いっぱいの目で見られて、陰口をたたかれるのは嫌だ。 それにしても、男にふれられて調子悪くして、部活にも手がつかない。 笑っちゃう。 本当に最低。 最低に女々しい。 どうして私、こんな女の腐ったようなところばっかり集めたような性格してるんだろ。 こんな自分が大嫌いだ。 こんな自分を、周りに知られたくない。 だから私は無理矢理笑って、適当に誤魔化す。 「あー、生理のせいかも」 「なるほどね。お大事に」 「ありがと」 ぽん、と沢口が私の肩をもう一度叩いて、備品整理に戻っていく。 いい奴だな、沢口。 北浦先輩も、いい人。 それなのに、一向に晴れない、心のぐちゃぐちゃ。 一通り片づけを終えて、制服に着替えて部室を出る。 秋に近付いて肌寒くなっていて、日も落ちるのが早くなった。 辺りはもう真っ暗だ。 「お疲れ、由紀!」 そこには、美香と藤原君が待っていた。 最近、二人はよくこんな風に待っていてくれる。 野口と一緒にいた時間を埋めてくれるように、考える時間が少なくなるように。 「美香、藤原君」 「一緒に帰ろう!」 美香がにっこり笑って、私の手を引く。 柔らかくて、優しい、温かい手。 私は部活の皆から離れて、手を振った。 皆も私と美香のことは知ってるから、手をふって帰って行った。 「もう、気使わなくて、いいよ?」 「私は藤原君を待つついでだし」 確かに藤原君は部活だけど、そんなに予定なんて合わないだろうに。 二人で一緒に遊びたいだろうしさ。 優しい美香。 それが嬉しくて、ちょっと重くてウザイ。 でも、二人がいてくれるから、私はなんとか立っていられる。 土日も無理矢理家から引っ張り出されて、一日連れまわされた。 家にこもって泣いて過ごしたいと思ったけれど、それも出来なかった。 正直面倒で、煩わしかった。 誰とも、話したくない気分だった。 でも、その方が、よかったのかもしれない。 泣くのは夜だけで済んだから。 「明日も古文だあ。やだなあ。吉田、絶対私のこと目の敵にしてる気がする」 美香が何かと話題を振ってくれて、藤原君がそれに笑って、私がただ相槌を打つ。 自分でも暗くて社交性ないなあと思うけど、何を話したらいいかも分からない。 私今まで、何を話してたんだっけ。 ほんの一週間前までは、何も考えないで、馬鹿なことばっかり、話してたのに。 「あのさ」 美香がぴたりと足を止めて、私を振り返る。 そして真面目な顔で、私の目をじっと見つめる。 強い美香に相応しい、強い目。 どこまでもかわいくて、そして綺麗な美香。 「由紀はさ」 「………うん」 「どうしたい?」 何を聞かれたか分からなくて、首を傾げる。 美香は何を言っているのだろう。 「………どうしたいって」 「野口君とよりを戻したい?それとも綺麗さっぱり忘れたい?」 美香の言葉が、胸に突き刺さる。 頭をガンと殴られた気がした。 考えたくなかった。 考えないようにしていた。 この一週間ずっと、それから目を背けていた。 「………雪下」 藤原君が美香の袖をつかんで、小さく引っ張る。 聞くなと言いたいんだろうが、しかし美香はその手をそっと振り払う。 そして私から目を逸らさずに、先を続ける。 私も目を、逸らせない。 「もう、野口君のこと嫌い?」 「………」 嫌い、か。 大嫌いだ。 大嫌いだ、あんな奴。 勝手で、冷たくて、変態で。 いい所なんて、全然ない。 この一週間、目も合わせていない。 私を自然に、けれど徹底的に避けている。 存在自体が、ないように扱われる。 そのたびに胸が、ズキズキと痛んで、泣きそうになる。 どうして、あんな奴のために、こんな苦しい思いをしないといけないんだ。 こんな感情、失くしてしまいたい。 あんな奴に振り回されるのを、やめたい。 「まだ、好き?」 大嫌いだ。 大嫌いだ。 大嫌いだ。 「………嫌い」 嫌いだ。 嫌いだ。 嫌いだ。 「………っ」 胸が熱くなって、また目頭が熱くなってくる。 この一週間、何かの病気のように、すぐに涙が出てくる。 本当に、病気なのかもしれない。 苦しくて痛くて寂しくて辛くて、叫び出したくなった。 「野口君を嫌い?諦められる?このままなかったことにする?」 「諦め………」 忘れようとした。 見ないようにした。 声を聞かないようにした。 それなのに、何かにつけては思い出す。 目がどうしても背中を追う。 耳が声を拾おうと、意識を研ぎ澄ませる。 「諦め、たい」 「てことは諦められないんだね」 忘れたい。 諦めたい。 それなのに、私の心は、ずっとあいつのことを考える。 「じゃあ、もう一回、頑張ろうよ」 美香が私の手を両手で包み込むようにそっと取る。 そして力づけるようにぎゅっと握る。 「え」 「追って、問い詰めようよ、野口君を」 何を、言っているんだろう。 美香は何を言っているんだろう。 「………もう、追った」 追った。 問い詰めた。 けれどあいつは私を振り払った。 私の手を拒絶した。 「嫌いって言われた?」 「………」 それは、言われてない。 別れようって、言われただけ。 飽きたって、言われた。 でも、それが全てじゃないのか。 嫌いって、意味じゃないのか、それが。 「顔も見たくない、こっちくんなストーカーって言われた?」 顔を、横に振る。 言われてない。 でも、そんなん言われたら、立ち直れない。 聞きたくない。 問い詰めたくない。 美香の声から逃げたいけど、手を掴まれていて逃げることが出来ない。 「じゃあ、嫌いじゃないかもしれないじゃん。もう一回当たって砕けようよ」 嫌だ。 砕けたくない。 痛いのは嫌い。 自分がみじめだと思い知るのは嫌い。 もう一度ふられるなんて、耐えられない。 「忘れられないで、ずっとうじうじしてるくらいなら、粉々になってすっきりしない?」 「………そんな、の」 「じゃあ、ずっとこのまま?」 そんなの嫌だ。 でも、怖い。 あんな言葉じゃ納得できない。 あれ以上の言葉は聞きたくない。 いじましく、諦めきれない。 だからと言ってもう一回ふられて、諦められるのか。 どうしたらいいか分からない。 どうもしたくない。 怖い。 これ以上、何もされたくない。 何も見たくない。 「このままじゃ、苦しいだけでしょ?」 苦しい。 痛い。 動けない。 動きたくない。 「すっきりしてさ、一発あの馬鹿殴ろうよ」 でも、分かってる。 このままじゃ、私はどうしようもできない。 |